沈黙が満ちる。
コップに注いだソーダの泡が、弾ける音さえ、聞こえていそうな沈黙。
外はギラギラとした夏の太陽が、惜しげもなく照りつけている。
青天井。
青くて高い空が、窓から見える。
回しっぱなしの扇風機が、ぶぅぅん、と唸る。
扇風機の、テープで固定していた首が、がくん、と折れて、項垂れる。
沈黙が、私たちを支配している。
君は言葉を発しない。
私も何も言えない。
私たちは向かい合わせに座って、ただ、沈黙の支配を甘受しながら、テーブルの上に置かれた炭酸を見つめている。
このテーブルで、唯一生き生きと動いていそうな炭酸の、泡が生まれ、浮き上がり、弾け飛ぶ様をただ2人で見つめている。
君の目には光はない。
私の目にも、きっと光などないだろう。
沈黙が満ちる。
遠くからニイニイゼミの声らしき声が聞こえる。
ウシガエルの低音が混じる。
扇風機は折れた首を項垂れたまま、ぶぅぅん.ぶぅぅぅんと断末魔のように唸っている。
私はこわばった右手で、コップを掴む。
生き生きとしたこの炭酸の泡を飲み干せば、私にも命が宿る気がして。
炭酸を口に運ぶ。
ぬるい。
ぬるい。
まるで、私と無口な君の間にある、死んだ時間のようだ。
今まで、ここを支配していた沈黙もぬるかった。
結局、これを飲み干しても、私は変われないのだろう。
そう思いながらも、味気なく不味い、沈黙のような、ぬるい炭酸を飲み干す。
ぬるく緩慢な炭酸が、萎んだ喉を、ぬるりぬるりと落ちていく。
沈黙がこの場には満ちている。
もう変わることのない沈黙が。
首が折れ、断末魔すら低く静かに唸ることしか許されていない、私たちの沈黙が。
沈黙は、この部屋を支配している。
ぬるい炭酸と無口な君。
それから、哀れで愚かな私を。
砂浜に手紙を書いた。
波間のすぐそばに。
うちのような穏やかな海にも、流木は結構流れ着くようで、
波打ち際から少し離れた浜辺の奥に、満潮の、水面が高かった時刻にたどり着いたのか、丸く砂でざらざらした枝が、海藻にくっきりと線引きされた乾いた浜辺の砂地まで打ち上げられていた。
海藻や発砲スチロールやシーグラスや海ゴミに紛れて、砂浜に落ちている流木は、その一つが誰かに持ち去られても分からないくらいには、自然に、あっけらかんと、そこに落ちている。
そのうちの一本を拾って、手紙を書いたのだ。
後悔というものは、もう取り返しのつかない事に対してしか湧かない感情だ。
だから、私が手紙を書きたい、と思ったあなたのことだって、もう取り返しがつかないことなのだ。
ちょうど、波にさらわれた砂浜のお城のように。
或いは、今ちょうど波にさらわれた手紙のように。
私が、あなたに巻き込まれるようにして関わったあの事件については、いくら私が考えてみたって、もう過ぎた事であり、取り返しのつかないことなのだ。
あなたはもう、前のあなたには戻らないし、
あの人も、もう私とあなたに微笑みかけることはないのだ。
私があの時、あなたにかけたかった言葉、
あの人にして、かけてあげたかった言葉、
それらはもう、どうしたってもう、届けられないことなのだ。
だからせめて、私は、波間にその言葉を書く事にしたのだ。
波にさらわれた手紙を。
もう取り返しのつかない気持ちを。
波にさらわれてなかったことになるように。
波が、手紙をさらっていく。
砂がさらさらと、枝で刻まれた文字の窪みを、消していく。
波が、砂浜に寄せて返す。
海の波は、今日も穏やかに、寄せては返す。
抱えるには重い記憶を抱きしめて、
とうとうやってきてしまったのだ、8月が。
捨てるには惜しく、大切にするには重く。
それでも来てしまったのだ、8月が。
蝉が死んでいる。
ミミズが干からびている。
それでも
それでも_
8月、君に会いたい。
眩しくて 眩しくて手を かざしたの
真っ直ぐ見つめる 勇気がなくて
見送った 別れの言葉 など出ずに
踏み出す君が 恐ろしく眩しくて
眩しくて 眩しくてなお 蝉の声
白い肌 眩しくて目を 伏せる静かに
目が覚める。
指先や肌はまだ冷たい。
身体が芯から冷たい。
ありとあらゆる関節の隙間に、冷たい液体が流れ込んで固まってしまったような感覚で、身体がガチガチだ。
喉も瞳孔も手足も、いつもの感覚より何倍も縮んで固まってしまったように思える。
脳が冷たさにじーん、と痺れていて、理解が追いつかない。
冷たさですぼんだ喉からは、自分でも耳障りなほど、浅い呼吸が、ひゅーこひゅー、と弱々しく漏れ続けた。
ただ、胸の奥だけが熱かった。
胸の奥の奥、心臓が打つ鼓動だけは、カッカと熱い。
熱い鼓動が、どくん、どくん、と打ち付けていた。
熱い血液を、冷たく冷え切ってしまった身体中に押し出そうと、熱い鼓動だけが、だく、だく、と打ち続ける。
誰かが私の名を呼んだ。
顔を覗き込み、水気を拭き取った。
熱い鼓動と、浅い呼吸の合間に、確かに、私を呼ぶ声がした。
私の無事を安堵する声がした。
どうやら私は、川に落ちたらしかった。
それを知人と幾らかの通行人が救い出し、懸命に救命活動に従事してくれたようだった。
誰かが私の冷え切った肌をこすった。
少しでも、熱を与えようと懸命に。
熱い鼓動が打ち付けていた。
だく、だく、だく、だく。
浅い呼吸音が耳につく。
じんわりとした熱が、熱い鼓動と、誰かがこすった指先から、ほんのりと湧き上がった。
どうやら私は一命を取り留め始めているらしかった。
なぜだか脳の片隅が、ぼうっ、と温かく熱を持ち始めていた。
ぼんやりと温かさを増す身体の奥で、精神はそれを拒んでいた。
代わりに生き続けることへの、胸を打ち続ける熱い鼓動への言い知れない恐怖が、意識と体温が戻り始めた私をじわじわと苛み始めた。
私は生きるつもりはなかった。
一命を取り留めるつもりはなかった。
この世の恐ろしさを知り、深淵を覗き込み、自身に絶望した私は、このどうしようもない自分という個から、逃げ出すつもりだったのだ。
それがなんだ。これは。
胸の奥で、熱い鼓動がだく、だく、と怒鳴っている。
私の身体は、私の精神に反抗し、生きたい、と喚き散らしている。
ひゅーー
息が漏れる。
浅く、しかし確実に呼吸をする音が。
胸の奥の奥で、心臓が打ち続けている。
熱い鼓動が。
だく、だく、どくん、どくん、と。