薄墨

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7/29/2025, 3:16:45 PM

タイミング 合わせて飛び込む 水の面

その日は、もう夏が終わる間際だというのに、空は真夏のように晴れ渡って、あちらこちらで蝉が鳴いていた。

あの日、僕たちは、プールサイドにいた。
学校のプールに忍び込んで、未だに灼熱の中、ミンミンと喚き続ける蝉の叫びを聞いていた。

プールには水が張られていて、迷い込んだアメンボが、小さな水面に波紋を揺らしていた。
それでも、消毒だけは夏休み中もされていたようで、プール特有のカルキ臭が、ぷん、と漂っていた。

あの日、僕たちはプールサイドにいた。
僕たちの街が、大火事で一夜にして全て焼けてしまうその日、その夜、僕たちは、僕たちだけが、プールサイドにいた。

大火のことを知ったのは、偶然だった。
たまたま、タイミングよく、夏休みに行くあてもなく、クーラーの効いた公共施設をハシゴしていた僕たちは、タイミングよく、この事件に巻き込まれ、今年この街が焼き落ちるということを知った、大人たちを見かけた。
それだけだった。

ここが焼け落ちるのは、はるか昔、世界ができた頃から決まっていたらしい。
僕たちはまだ何も知らない子どもで、そして、彼らたちは、僕や周りの大人よりもずっと、世界の仕組みを知っていた。

この世界には、どうにもならないことがたくさんあるのだ。
この街が焼け落ちるのは、災害のようなものなのだ。
避けようがない、予防しようもない、助かりようもない、自分ではどうしようもない、そんなことが、ある日突然、起こってしまうのだ。

そして、それから身を守る方法は、できるだけ体を縮めて、その大きな災害を、やり過ごすしかないのだ。
まだ、何も知らなくて、なんの対抗手段も持たない僕たちは。
彼らたちのように立ち向かう知識と勇気は、まだ未熟な僕たちにはないのだから。

だから、僕たちは今日、一緒にプールにいる。
飛び込むのだ。
タイミングを合わせて。
彼らたちを信じて。
彼らたちに頼まれたように。

プールの水面は、まだ穏やかない水面を湛えている。
これが鮮やかに光出したら、僕たちはタイミングを合わせて、飛び込むのだ。
彼らたちを助けるために。
僕たちが助かるために。

僕たちはタイミングを見計らう。
蝉の声が止む。
鼓膜を貫くような静寂がプールサイドに満ちる。

それから一拍おいて、プールの水に変化が訪れる。

僕たちはタイミングを合わせる。
合わせて、飛び込む。

踏み出した。
風を切り、それから重い液体に包み込まれる。
耳が置き去りにした音を、遅ればせながら僕たちに送り込む。

くぐもった自分の飛び込み音が、水と共に耳に流れ込んだ。

7/28/2025, 2:43:12 PM

空が、音を立てて、崩れ始めていました。
青空が、入道雲が、ぼろぼろ、ぱりぱりと剥がれ落ちたその先に、玉蟲色の、虹が空間いっぱいに顔を覗かせていました。

構造色と光の加減で、玉蟲色の、バカでかい虹は、つやつやと鮮やかに、輝いていました。
それはまるでオーロラか、雨上がりの虹のように美しく、そして、それらの儚さとは相反するように、くっきりと、壮大に、確実な物質を持って、空間に堂々とそれはいました。

それは、世界の終わりでした。
ぎゃらぎゃらと輝く虹は、その下を這う人間など、米粒か虫ケラほどの価値しかないのだ、というように、こちらをじっ、と、見下ろしていました。

それは、息を呑むほど美しい、世界の終わりでした。

人類文明の平和の象徴であった青空は、みるみるうちに砕け、剥がれ、崩壊し、あの空の先に鎮座する虹の全貌のベールを、無慈悲にも、徐々に徐々に、引き剥がして見せているのでした。

私には分かっていました。
もうじき、あの虹は、子供のような純真さ、無邪気さで、眼下を這う虫ケラを、思いつきと気まぐれのままに、乱暴に、潰し、殺し、遊び、飼い始めるのだ、と。
私には分かっていました。
これが世界の終わりであることが。

だから、私のやるべきことも決まっていました。
いち早く、私ができる限りのすべての術を使って、他の世界へ時空へ移動して、この虹の始まりを探して、摘み取るべきだということ。
決まっていたのです。
この結末が、この虹が、空を剥がし始めたということは。

私は禁忌に手を染めなくてはならないのです。
禁忌に、秩序を破って、この眼前に広がり始めた規格外の絶望的運命に立ち向かわなくてはならないのです。
この絶望的運命を、この宇宙を救うために、虹の始まりを探して、全てにケリをつけなければならないのです。

もはや誰のせいにもしません。
私に授けられた、師匠から脈々と預かり教わった、利己のためのこの冒涜的な技術を、利他のために費やさねばならないときが来たのです。
それが、私たちに課された運命であり、義務であったのです。

それがたまたま私の代であった、というだけのことなのです。

私はこれから長い旅に出ます。
虹の始まりを探して、長い長い旅路に行かねばなりません。
そして、その先に待ち受けるものは、私に対しては何も保証しないものかもしれません。

それでも私は、虹の始まりを探して、旅に出るのです。
それが、私の使命であり、義務であり、私たちに背負わされた責務なのですから。

ですから、私を憐れむ必要ないのです。
私がたまたま、偶然にも、このタイミングにかち合っただけなのですから。

だから、安心してお任せください。
必ずや虹の始まりを探して、探し出して、阻止してみせましょう。
それが、私たちがこの力を使って、長い間、希望のままに生を謳歌していた、その時空の報いなのですから。

さようなら。冒涜的なものに抗うものよ。
さようなら。世界を守ろうとするものよ。
さようなら。私の同胞たちよ。

さようなら。この世界よ。

         ある廃墟から見つかった手記より。
          この手記が見つかった当所、
          街中のただ一つの廃墟の上には、
          虹などひとすじもなく、
          ただ青い空と入道雲が、
          どこまでも悠々と広がっていた。

7/27/2025, 3:08:27 PM

芸術は、触れないはずだった青空に、指を浸せたみたいな感じがして、指先から空に染まるような心地がして、嬉しくて、心地よくて、好き。

ざらざらの砂を左手に掬い、さらさらと落とす。
右手の人差し指で、砂に流れの線を引く。
アナログテレビの砂嵐からそのまま出てきたような砂は、白と黒の印影のみで、その形を表している。

猫が、にゃあん、と鳴いた。
ある論文によると猫は液体らしい。
猫が液体なのだったら、なぜ砂は固体なのだろうか。
猫も、砂も、こんなにも流動的なのに。

私は、固体で液体を再現しようとしていた。
オアシス。
そう、砂漠の中のオアシスを描きたかったのだ。
だから、砂で、砂の山で、オアシスを作ってみよう、と
思い立ったのだ。

砂を掬い、さらさらと落とす。
固体と液体を分ける科学的な見解による分類でさえ、こんなにも曖昧で見方の違いがあるわけなのだから、私が自分自身を分類したこの区分だって、きっと曖昧で、見る人によっては間違えているのだろうが、ともかく私は、自分的な見解からは、芸術家であった。

芸術で飯を食っているわけではないが、本業の合間に、どうしようもなく表したいものを作品に表し、拵える、という点で、私は芸術家であった。

そして今朝、私は、オアシスを作ろうと思い立ったのだった。
サボテンと、砂地と、厳しい現実の中に鎮座する、幻惑か、陽炎のように不確かで、頼もしく、そして何より美しい、あのオアシスを、唐突に作ってみたくなったのだ。

だから私は描き始めた。
砂地に確かに残る、オアシスの跡を。
誰もが思い思いに、指を浸し、喉を潤し、目を輝かせることのできるオアシスを。
このざらざらの砂地に。

左手で砂を掬い、さらさらと溢す。
猫がどこかで、にゃあん、と鳴いた。

7/26/2025, 1:32:29 PM

深い皺に 涙の跡が 残る土地
 激流の川 眼下を流る

振り向かず 遠ざかる君 送る君
 涙の跡は 私のみ知る

空見上げ これはきっと 涙の跡!
 言い踏みつける 水たまり

7/25/2025, 2:54:58 PM

日に焼けた、夏の匂いがする腕が突き出ている。
薄黄ばんだ白いシャツの、ゆるゆるにたわんだ半袖の袖口から。

独特の、おひさまの香りと焦げた肌の香りが混じった、日焼けの匂いがするその腕の隣に座る。
私にとっては、それが、夏の匂いで、君の匂いだ。
皮がまだらに剥けてヒリヒリと痛そうな匂いは、こんな時期に日焼け止めも虫除けも塗られずに、腕剥き出しの半袖で、やけぱちに駆ける君からしか、しない。

私たちの溜まり場は、目線がちょうど水平線とおんなじ高さになる、高い崖の上にある。
根も枝もでこぼこと強く大きく広げた大木の枝に、詰めれば2人で座れるくらいのブランコが、木漏れ日が緑色に柔らかく差し込む、木陰に吊り下がって揺れている。

私たちは、いつもここで、学校がないために持て余した日中の時間をやり過ごす。
家を出て、自販機でミネラルウォーターの500mlを二つ買って、陽炎でゆらめく斜面を登って、ここに来る。
現実から、家族から、友達から、逃げて。

君はいつも、うっすらと汚れた半袖のシャツを着て、色の褪せた半ズボンを履いている。
そして、棒のように細い腕を、真夏の殺人的な太陽の暑さに焼かれるまま、突き出している。
私からペットボトルを受け取ると、伸び放題の前髪をくしゃっと持ち上げて、声を上げずに、笑う。
私も、笑い返す。

そうして、私たちはなんとなく、ブランコに座って、ぼんやりと遠くを眺める。
太陽に焼かれて、キラキラと光を反射している海の波の、遠く水平線と空のぼやける境目を、ぼんやり眺める。
街は見ない。
お互いの顔も見ない。
そんなのを見ても、惨めになるだけだから。

私たちは遠くを眺めて、時々、ミネラルウォーターを飲みながら、ぽつぽつ、話をする。
できるだけとりとめがなくて、現実味がなくて、どうにも役に立たないようなことばかりを、選んで、話す。
どちらからともなく。
独り言のように。

だから、私は君の家庭が抱えている問題も、君の現在の惨状も、そんなに詳しく知らない。
くたびれた服と、年の割には細いであろう胴と、日焼けによる皮剥けや肌に受けた傷みが剥き出しにほったらかされたような腕といった、見た目から見えるもの以上のことは。

逆に君も、私の家がどんな形であるかは知らないし、長袖の薄いカーディガンの下に隠れている、白い私の腕に剥き出しにつけられた痕のことも知らないだろう。
君もきっと、病的に白い私の肌と、腫れた頬と、そのくらいしか知らないはずだ。

それで良かった。
私たちがここにいるためには、それだけでいい。
私たちが私たちでいる条件は、それだけでよかったし、それだけしか必要なかった。

その証拠に、ここでいれば、私たちに、世界は少し鮮やかに見えた。
ここにいる時は、ゆるゆるにたわみ、にわかに黄色くかすんでいるはずの君の半袖は、真昼の太陽に照らされて、入道雲のように眩く白く見えた。

木陰の下で、私たちは、ぽつぽつと話した。
太陽が、君の白い半袖と肌を、やいていた。

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