「だるまさんがころんだっ!」
一本の木に向かって、大きな声で呼ばわる。
お母さんとお父さんの“大人の事情”で急遽、私たち家族はこの地にやってきた。
本当に急なことで、お父さんもお母さんも頼りにならないくらいだった。
私たちが来たのは、ちょうど夏前で、この地域が一番賑やかになる季節の前の時期だった。
どこもみんな忙しくて、そんな時に越してきた私たちは明確に邪魔者、厄介者。
それに、お父さんの計画性のなさも相まって、
結局、全てにカタがついて、私が学校に行けたのは、夏休みの3日前だった。
夏休みの3日前。
転校するには最悪の時期だ。
一学期の終わりも見えてきて、思い出を締めくくろうと結束しているクラスの先生と児童。
一学期のあれやこれやを一緒に乗り越えてきた友人や仲間たちとこれからの休みを楽しもうとしているクラスメイトたち。
その中にある日突然、異分子が混じるのだ。
クラスのことなど、今までのことなど、何も知らない余所者が。
友達なんて出来るわけがない。
私は、ここに来てひとりぼっちになった。
お母さんは忙しそう。
お父さんは辛そう。
二人には私を構っている余裕なんてない。
クラスメイトや近所の子、先生はみんな、私のことなんて知らんぷり。
地域の人にとっては、迷惑な余所者の子供。
生まれて初めてだった。
こんなに自由になったのは。
こんなにひとりぼっちになったのは。
私は自由と暇とひとりぼっちを持て余して、あちこちふらふらと散歩した。
幸い、ここには、散歩するのにちょうど良い自然は、有り余っていた。
この“友達”を見つけたのも、散歩の途中だった。
並木林の中にちょこんと、たった一本だけ、未熟な苗木が生えていた。
今まで街で見た木よりは太くしっかりしていたけど、ここに生えているがっしりとした木々に比べれば、その木はまだ、細っこくて頼りなさげだった。
私はその木をちょっと眺めて、それから背を向けて歩き始めた。
足元には、そんな頼りなさげな木が作った小さな木陰が照らし出されていた。
一歩踏み出した時、木陰が揺れた。
風なんて吹いていないのに。
振り返る。
何もいない。
木陰を作っているあの木だけが、少し違っていた。
一歩踏み出す。
木陰が揺れた。
あの木がまた動いたのだ。
それからもまるで、私を引き止めるかのように木陰は揺れた。
私が一歩踏み出すたびに、揺れる木陰。
私はすぐに気づいた。
この木は、こんなに並木に囲まれていても、私と同じようにひとりぼっちなのだ、そして、友達を探していて、きっと、私と友達になりたいのだ、と。
そうして、私たちは友達になった。
私たちは毎日遊ぶようになった。
一番お気に入りの遊びは「だるまさんがころんだ」。
夏休みに入ってから、私と、木は毎日それをしている。
木と遊んでいる間は気にならない。
お父さんの隈も、お母さんのため息も、冷たい視線も、孤独も。
私とその木は、ひとりぼっち同盟を結んだ親友で、同じ苦しみを生き抜く戦友なのだった。
「だるまさんが〜〜ころんだっ!」
少しためを作ってから振り向くと、強風に煽られたように木陰が揺れた。
私はえくぼを作って、揺れる木陰に向かって指を突きつける。
「うごいた!」
視界がぐるぐる回っている。
強い色が瞼の裏に閃いては、消えていく。
ノイズがごろごろと脳裏を廻る。
見えている景色が歪み、傾き、揺れる。
喉が掠れている。
バグみたいな視界は、なんだか不気味ではあるが、むしろ心地いい。
身体を深く沈め、ぐるぐると回る視界に身を任せる。
視界の端でも中央でも、賑やかに色が閃いている。
色鮮やかで私の腰ほどもあるイモムシが、ちこちこと視界を横切っていく。
私は今日、学校を休んだ。
熱があったのだ。
だから、今日は、親に職場から欠席連絡を入れてもらって、布団に沈み込んでいる。
なにしろ明日には遠足がある。
熱でだるいこの身体をなんとしても休めて、明日には復活しなければならないのだった。
39度まで上がった熱を下げるため、私は真昼から布団に潜り、水分をとったりトイレに行ったりする以外は、布団の中で安静に目を瞑っている。
そして、瞑った目の瞼の裏で、こうして閃く真昼の夢をずっと見つめて、浸っているのだった。
イモムシがゆっくりチコチコと、マーブル状に色を飲み込んだ空間を過ぎっていく。
床からぽこり、とキノコが生えて、床に溶ける。
ぐるぐる回る視界の中で、ごろごろぐるぐる、と何かが唸っている。
赤いランドセルが、現れ、すぐに空間の色彩に溶け去っていく。
青いスクールカバンが、視界の端で、歪む空間と一緒に混ざり合う。
真昼の夢は不可解だ。
何も分からないし、何を表しているかも分からない。
ただ、それらは渦巻き、うねり、混じり合いながら、私の周りを満たしている。
不可解で、不条理で、不安定。
けれど、何故だか心地良い。
私は、身体を、真昼の夢の世界に横たえ、沈める。
心地良いカオスに身を委ねる。
視界がうねる。
ぐるぐる回る。
うねった視界を、イモムシのようにひよこが連なった変な生き物が過ぎっていく。
幼鳥だ。
私は目を深く閉じ、真昼の夢に身を託す。
真昼の夢に、真昼の夢の中に浸る。
浸ってゆく。
一人で泣きたい時は
台所に立てこもって、ひたすら、ネギやキャベツなんかの、付け合わせの野菜を刻むこと。
言えない秘密がある時は
冷蔵庫にメモを残して、冷凍庫の中身を買いに行くこと。
聞いて欲しい話がある時は
急須に紅茶を淹れて、茶菓子を用意すること。
なぐさめてほしい事がある時は
浴槽を磨いて、お風呂のお湯をゆっくり溜めること。
二人で暮らしを分け合う私たちの
秘密のルール。
二人だけの。
夏だ。
アスファルトに反射した太陽の光が、熱を放出して、その上でミミズが干からびている。
蝉が鳴いている。
夏だ。
靴の頭を目的地に向ける。
日光に熱されて爽やかさを失った熱風が顔に吹き付ける。
私たちは今から山に向かうのだった。
山の地中に埋まっているはずの、あの子を探しに。
あの、蝉が鳴きじゃくる山の上に向かうのだった。
夏だ。
日差しがぎらぎらと照らし続けている。
白い雲が遠くに見える。
蒸し暑い。
あの子は、突然姿を消した。
ちょうど今日みたいな夏だった。
あの日、あの子はどこへ行くと云っていたのだっけ?
ともかく、あの子は出かけて、私たちは、クーラーの効いた部屋で、あの子もすっかり大きくなった、とお互いに語り合った。
夏だった。
蝉の鳴き声が大きくなる。
日差しを、木々の葉が覆い始めた。
蒸し暑い。
水気を含んだ熱い空気が揺らぐ。
山を登る。
天辺まで行けば、涼しいだろうか。
今より。
あの子が消えたあの夏の日より。
そんな考えを、浮いてきた顔の汗と一緒に拭う。
夏だった。
蝉が鳴いている。
蒸し暑い。
最後の時はいつだって、突然やってくる。
真夏日だった。
窓の外で積乱雲は大きく育って、入道雲となり、空は真っ青に晴れ渡り、太陽がまばゆいばかりに光を放っていた。
真夏日だった。
通話を繋いだスマホを隣に置いて、イヤホンを耳に押し込んで、別行動をした仲間たちの言葉を聞いていた。
蝉時雨と細やかな聴覚情報と隠された真実とそれを知った仲間の苦悩が、一緒くたに流し込まれた。
脳を殴られたような衝撃だった。
この部屋に残って解読していた本の内容も衝撃的な隠された真実ではあったけれど、それよりもずっと、追っていたターゲットと身近な人間が邂逅し、体験した、_今こうして私の耳に流れ込んできている、この隠された真実_の方が、よっぽど冒涜的で理不尽な衝撃だった。
脳がクラクラと揺さぶられるようで、眩暈がした。
私だけはこうして、クーラーの効いた自分の部屋にいるというのに。
真実を語る声の裏で、蝉が喧しく鳴いていた。
なんて世界を私たちは、なんて奇跡で生き抜いているのだろう。
こんなちっぽけな私が、ここまで細かな物語のある人生を生きているのが、奇跡であるように思えた。
それは、隠された真実だった。
今までの選択の清算だった。
今までの思考の答え合わせだった。
そして、今までの頑張りが、見当違いの無であったことの証明だった。
脳が揺らめき、掲げていた目標が霧散した。
悪夢のようだった現実は、隠された真実を手にして目を覚ました途端、かき消えてしまった。
私が頑張る理由は、どこにもなかった。
ドッと湧き上がった疲労感が、体を重たく満たしていた。
じわじわと絶望感が、脳を満たし始める。
仲間たちはまだ必死に、道筋を探そうとしていた。
しかし、隠された真実を知ってしまった私には、もうそこまでやれる理由が残っていなかった。
私は、もはや私にとっては雑音になってしまった声たちから逃れるために、そっとイヤホンを外した。
蝉が喧しく鳴いていた。