薄墨

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6/2/2025, 1:30:31 PM

一夜だけ 純白の傘の その中で
 インク溢して 秘密描きけり

(返歌)
一夜だけ 一夜のみけり 念押せば
 後朝消ゆる 傘も秘密も

6/1/2025, 3:01:41 PM

窓からはまだ水が滴り落ちていた。

雨は上がった。
外の景色は、しわも伸ばしていない洗い立ての洗濯物のように、すっきりと洗われて、しわくちゃのまま、晴れた日差しの下に晒されていた。

義肢の接合部の金属が、小さく軋んだ。

そよ風に、重たそうに雨粒が揺れていた。
さっきよりもずっとおとなしくなった風が、葉を揺すっている。

雨樋から落ちる雨粒を数えて、煙草を咥える。
グラス棚の透明感を測り、酒瓶とシェイカーを並べる。
つまみの軍時用チョコレートの数を確かめてから、カウンターのラジオのアンテナを伸ばし、つまみを捻る。

ジジッ
軽いノイズの後から、戦況報告やプロパガンダCMがなだれ込んでくる。

ベッドのシーツの皺を伸ばす。
テーブルを軽く拭いて、カウンターに戻る。

煙草に火をつけて、窓の外を眺める。

ここに来てから、もう一年が経とうとしている。
国境間際の、環境があまりに開拓に向いてなさすぎて、奇跡的に戦線になっていない山岳の空白地帯。
戦場から退いて、ここに密やかに店を開いてから、もう一年。

戦線から逃れたり、最期を迎えようとしたりしている兵士のために、こんなバーを開いてから、もう一年が。
経とうとしている。

雨上がりの外景は、すっきりと洗いたてで、鮮やかだ。
日の明るい光に照らされた外を眺めながら、暖炉に火をつける。
おそらく、今日ここで飲み食いできる人間は、みんな冷え切って、血色の失せた白い指先をしているだろう。

雨上がりの外は、美しい。
特に、さっきの、風もあるような大雨の後は。
全てが洗われ、吹きさらされ、擦り合わされて、すっかり綺麗に流されるから。

しかし、当事者の人々が、そんな美しさに気づくことはない。
戦場の風景はいつどこだって、灰色なのだ。

だから今、雨上がりの美しさを堪能しようと思ったら、戦争に関係のない場所に行くしかない。
ここのような。
ここはこの辺で唯一、雨上がりを楽しめる場所だ。今のところ。

ミルクパンを火にかける。
温かいスープでも、作っておこうと思った。
トマト缶やインゲン豆の缶詰を、鍋の中にぶちまける。

雨は上がった。
雨上がりの青々とした空が、窓の外に広がっている。
洗い立てのシャツから洗剤の香りが立つように、抜けるような雨の香りが、まだしている。

くつくつ、と、鍋の中が俄かに騒ぎ出す。
あまり美味しくはないが温かい香りが、少しずつ立ち上り始める。
煙草の煙が揺れる。

ガタンッ
ガラン
扉の向こうから音が聞こえた。

6/1/2025, 12:41:03 AM

「勝ち負けなんてくだらない」なんて言えるのは、勝ち負けを重要視しなくていいくらいに勝ちまくった勝ち組のブルジョワか、そう言いでもしなきゃプライドを保てないくらいに負けて負けて負けまくった一部の層。
それか、勝ち負けが人生を左右するなんて思いもしていない、そして自分が一定数勝ち残っているなんて認識もしない、鈍感な怠け者か。

そんなもんだと俺はそう思う。

握りしめたテストの順位は、500人中70位。
これでは成績優秀者の奨学金は出ない。
つまり俺は、今回の勝負は負けた、ということになる。

それなりに敗者の子どもが、誰にでも勝てる勝者に這い上がるためには、どうしたって奨学金は必須だ。
その点で、俺にとってこの勝敗は死活問題なのだ。

どんな勝負にだって、俺みたいに“本気にならざるをえない”層はいる。
俺たちがテレビで呑気に観戦したり、話のタネにしたりしているスポーツだって、当事者たちにとっては、収入や雇用形態をかけた本気の勝負だし、
そういうところを目指していたり、そういう一芸で特待を得たりしている学生にとって、体力テストや総体や部活の大会なんてのは、俺の定期テストと同じくらい重要だ。

だから間違っても、

「高校時代の勝ち負けなんてどうでもいいのよ。奨学金が出なくたって。そこそこのとこに行ければいいんだから。70位なんて、やるじゃない」
こうやって、子どもの勝ち負けを軽んじて、見当はずれの慰め方をするような、うちの親みたいな大人にはなりたくない。

だから、俺は勝ち負けの世界にいきたいのだ。
勝ち負けの重要性を、勝ち負けにこだわれる人間の気持ちを知る立場でいたいのだ。

そのために、勝ち負けにこだわるのだ。
誰に何回、「勝ち負けなんて」と言われようとも。
冷笑されようとも。
同情されようとも。

間違っても、うちの親みたいに外野から、「勝ち負けなんて」なんて言わないように。

自分の部屋に上がる。
次こそは勝利を勝ち取らなければならない。

今日も、俺はシャーペンを取る。
「勝ち負けなんて」なんて言わない大人になるために。

5/31/2025, 5:12:57 AM

テストで0点を取っても
告白してフラれても
受験で失敗しても
行動が主人公ぽくできなくなっても
就職に失敗しても
会社を辞めても
友達と会えなくなっても
最悪なことをしてしまって後悔しても
失恋しても
罪を犯しても
死んでも

私の人生と“私”の存在は
私に関わった誰かが覚えていて
文書に残って
誰かの生き方が変わって
誰かの仕事が変わって
ちっとも終わってくれなかったから

だから、正直、あなたの決断は早まった最悪なものとしか言えない。
経験者の私からしたらね。

自ら命を破壊したって、
この物語はまだまだ続く
まだ続く物語。
私の物語も
あなたの物語も

5/29/2025, 10:51:52 PM

渡り鳥には優れた方向感覚がある。
何万キロを、時には天敵に追われたり、餌を獲ったりしながら飛び続けて、最終的には例年通りの場所へ、辿りつく。

渡り鳥は決して気楽な鳥ではない。
渡るための準備も必要だし、時期も決まっているから、彼らは常に“渡り”に追われている。
鳥籠の鳥よりずっと、律儀で、ストイックで、不自由で、気忙しい。

そんな渡り鳥に戦略的価値を見出した人間は、よほどの慧眼だったに違いない。

頭上を渡り鳥の亜種が飛び交っている。
この地域に来る渡り鳥の中で、最も厄介で、最も遠くまで行く鳥の改良版だ。

飛び回るかの鳥たちは、鳥それ自体には何の危険もない。
ただ、彼らは病原体を持っていたり、人体に有害だったりする寄生虫を媒介する。

そんな厄介者の鳥に、さらに呪いを付与したもの。
それが私たちの頭上を飛び回るこの渡り鳥だ。

この国は、もう滅びることが決まっている。
あまりにも先進で強欲なあの国に睨まれた以上、この閉ざされた地で長いこと伝承を頼りながら、“昔ながら”の生活をしていた我らに勝ち目などなかったのだ。

しかし、私たちには一つだけ、あの侵略した敵国に、復讐する手立てがあった。
自分の国を犠牲に、侵略してきた彼の国を、長い時間をかけてめためたに痛めつけ、雪辱を濯ぐ手立てが。

それが、私たちの頭上を飛び交っている、あの鳥だ。
あの鳥なのだ。

もうじき、あの国の侵略者たちがやってくるだろう。
そうして彼らは、この鳥に呪いと病を媒介される。
渡り鳥は、あの国の空も、他の国の空も飛ぶだろう。
戦略的に私たちを見捨てた他の国の空も飛ぶだろう。

私たちはあの鳥だけでなく、鳥の寄生虫たちにも改良を施し、呪いをかけた。
今までこの地域でしか生きられなかった寄生虫たちは、他の地域の気候でも生き延びてしまう呪いを受けた。
渡り鳥たちだって、個体の寿命が伸びる呪いや、他の地域でも多少活発に動けてしまう呪いを受けている。

私たちを長年困らせ、強くしてきた彼らは、今や私たちに残された最期の武器だ。
きっと、私たちを、我々の国を見捨てたこの世界と神に、素晴らしい復讐を果たしてくれるだろう。
この国の滅亡と引き換えに。

渡り鳥は、悠々と飛び交っている。
渡りに備えて、強靭に鍛えた筋肉を躍動させて。
力強く羽ばたいて。

自身の恐ろしさを知ることもなく。

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