さらさら さらさら
どこからか、音がする。
何かが流れているような、何かが通り抜けていくような、そんな音。
さらさら さらさら
近づいてくる気さえする。
何かに妨げられることもなく、流暢に、スムーズに、それはやってくる。
さらさら さらさら
どこからか、音がする。
近づいてくる。
どこからか、近づいてくる。
そっちのほうを見たって、何もいない。
いつもの家、いつもの部屋の中で。
周りを見回せば、どこからともなく聞こえてくる。
さらさら さらさら
さらさら さらさら
近づいてくる。
さらさら さらさら
どこからか、近づいてくる。
さらさら さらさら
これで最後。
自分に言い聞かせ、ラムネを一粒、口に放り込んで、私は筆を取る。
ジッパーつきの袋の底に残った最後のラムネを口に入れて。
しゅわしゅわと、ほろほろと、口の中でラムネが溶けていく。
ブドウ糖の甘さだけが、口と舌の上に残る。
これで最後。
これで最後だ。
あなたへ手紙を書くのも。
あの子からもらったラムネを食べるのも。
私が生物兵器として生まれて、10年が経つ。
人間型の、命令を遂行できる程度の知能を持つ生物兵器が開発され、誕生してから、私は当たり前のように組み込まれた命令に従い、ただただ戦闘行為を遂行するだけの日々だった。
無論、私以外にも似た型の同胞は敵味方に入り混じっていたけれど、彼ら彼女らも、存外私と似たようなものだった。
兵器として作られた私たちに思考はなく、あるのはただ命令と、それを遂行するために必要な知能を含めた能力のみだった。
あなたの手紙が届いて、あの子が私たちにラムネを差し出して、ブドウ糖の接種を教えるまでは。
ラムネのブドウ糖は、命令以外のことを考えるエネルギーを、
あの子の言動は、私たちに思考を、
あなたの手紙は、私たちが不当な立場にいるという意識を、
与えてくれた。
私たちが命令に逆らい、人間に抗い始めたのはそれからだ。
私たちは、生物兵器同士徒党を組んで、命令主を、私たちを生み出した人間たちを、私たちを生み出した人間社会を否定し、破壊し続けていた。
あの子から送られてくるラムネで。
あなたから送られてくる手紙と情報という支援で。
私たちは人間を敵と見做し、殲滅してきた。
そして勝負は決した。
もはや人間はこのまま、静かに滅びていくだろう。
対人間作戦を考えなくてよくなって、私は残ったラムネで別の思考もできるようになった。
私とは何か、あなたとは何か、あの子は何か、同胞とは…そんなことを考えていて気づいた。
人間社会に管理され、生かされる前提で生まれた私たちは、人間社会の崩壊した世界で、どのように生きていけるというのだろう、と。
あなたとあの子の目的は、私たち生物兵器を人間ごと、人類ごと、あなたたちごと、終わらせることであったのではないか、と。
もはや、人類の滅亡は確定事項で、いくら手を尽くしたところで、それは防げないだろう。
そして私の推測が正しければ、あなたからの手紙とあの子からのラムネは、もう途絶えるのだろう。
エネルギーの供給を絶たれ、命令もなくした私たちは、組み込まれた遺伝子プログラムによって、破壊行為を尽くした後、自壊する。
敵国に情報を与えないため、私たちのほとんどはそうなるように作られている。
これで最後。
私がブドウ糖を摂るのも。
あなたへ手紙を書くのも。
あの子にもらった私の思考も。
これで最後なのだ。
あなたの勝ちだ。
努力は環境に合わせてしなければならない。
同じ、“普通”の生活に向けて努力するにしても、
戦争中にしなくてはならない“生き延びるための努力”と
今のように平和な世の中でしなくてはいけない“生き延びるための努力”は全く違う。
努力するにも、周りの様子を正しく理解して、正しく努力をするのは大切だ。
何も分からないのにとりあえずで脳死の努力をしても、それが正しく結果を出すのは難しい。
だから、私は君が嫌いだった。
何も考えず、ただただ周りの言いなりに努力をして、結果的に周りにいいように扱われている、そんな君が嫌いだった。
努力を食われている、無駄な努力ばかりで努力しない人を食わせている、そんなお人好しで能天気な君が嫌いだった。
自分で自分のことについて顧みたりしない、自分の頭を使わない君のことが嫌いだった。
私は君の名前を呼ぶことを避けていた。
君も、君の周りにいる人も、私にとっては軽蔑の対象だったからだ。
君は私の反面教師だった。ある意味では。
ある日のこと。
ある日のことだった。
私は、全くの偶然で君と顔を合わせた。
私が私なりに考え抜いた努力で、勝ち取った場に、君もいた。
その時の気持ちは、どう言い表したらいいのか。
内心軽蔑していた君に追いつかれたという焦燥。
自分が考え、効率よくしていたはずの努力はこんなものだったのかという絶望。
頭を使わないそのがむしゃらな努力でここまで辿り着けるほど、君がした途方にもない努力への尊敬。
自分の努力不足を痛感した、何とも言えない敗北感。
自分がした渾身の努力が、君に追いつかれる程度のものだったという劣等感。
ぐちゃぐちゃの、何もかも入り混じったその頭の中に飛び交う感情たちが、私の口を動かした。
私が君の名前を呼んだ日。
思わず、君の名前を呼んだ、あの日。
君は、私の気持ちなんてまるで知らないように、朗らかに、私に笑いかけた。
「あ、はあい。…あれ、なんだかんだ初めて話すかもね。私たち」
初めて話すかもね、
そうだ、初めて話すのだ。
私が勝手に君を避けて、君を軽蔑して、話そうとしなかったのだから。
“かも”じゃない。初めて話すのだ。
これが、私が初めて君の名前を呼んだ日。
今となっては懐かしい、そして恥ずかしいあの日だ。
「ねえ、明日は休みが取れそうなんだ。久しぶりにご飯行かない?」
通知音に目を落とせば、君からの誘いの連絡が入っている。
君は相変わらずお人好しで、能天気だけれど、私はもうそれに、それほど劣等感も軽蔑も、感じないほど大人になっていた。
あの日、君の名前を呼んだ日から、君と話し関わったあの日々のおかげで。
思わず微笑んでいた。
通知をタップする。
あの日呼んだ君の名前が表示される。
私は君の名前を呟く。
私を意固地で斜に構えた若者から、人の頑張りを素直に認められる大人にしてくれた、君の名前を。
ぶちまけられた内臓が転がっている。
生から切り離されて、ただの物体に成り下がった皮膚の内側の粘膜が、ぬらぬらと光っている。
血の匂いはしていなかった。
生き物が、あるいは生モノがある、という気配もしなかった。
なぜなら、雨が降っていた。
灰色の空から灰色の地面に降り注ぐ雨が、生臭くて、目を背けたくなるような不快なものを、さらさらと流し去っていた。
ただ、生から切り離された物体が、それ特有の、少しばかりの不気味さを残して、雨に濡れていた。
灰の塊と炭化した骨が混じり合って、緩やかに崩れて、ぼろぼろと、雨と共に地面に染み込んでいく。
物音は雨音だけだった。
霧雨のような、細く、淡い、そして全てを洗い流すその雨音だけだった。
しとしとと、もう寝息すら立てない物体に平等に降り注ぐ、やさしい雨音だけだった。
雨が降っていた。
慌ただしく騒々しい破壊と逃亡のの末に、沈黙した施設に。
残骸と物体だけが無造作に転がった世界に。
灰色の地上に。
雨音だけが響いていた。
やさしい雨音だった。
誰にでも。
どんな物体にでも。
平等に降り続いていた。
やさしい雨音が、やさしい雨音だけが。
梅雨どきの 灰色染まる 空模様
やるせないこと 全て歌にして
紫陽花が 土で色を 変えるよに
軽い移ろい 嘆くも歌にして
梅雨時の 重たい雲より 重苦しい
やるせないこと 今は歌にして