その尻尾は、最高傑作だった。
食事にこだわったおかげで、とても鮮やかになった。
健康に気をつけたおかげで、とてもしなやかに伸びた。
丁寧に洗ったおかげで、いつでもつやつや心地よかった。
自分の身長くらいもある、美しくて、鮮やかで、いきのいい自慢の尻尾。
そんな自慢を自説する勇気。
牙を剥く、猫や犬や蛇などの捕食者の前に置いていく勇気。
プライドを、自慢を、宝物を、
手放す勇気。
その勇気で、我々は生き延びて来たのだ。
今までも。
これからも。
バタークリームたっぷりの、バラの砂糖菓子が乗った、外国の作り話の絵本の中でしか見たことない、かわいい、かわいいケーキ。
あまくてやわらかそうなあのケーキ。
子どもの頃に憧れていたのは、そんなのだった。
ふっくらあまい、カロリーのバカ高い手作りケーキ。
お姫様のドレスみたいな、ウェディングドレスみたいな、ビジュアル満点のケーキ。
そんなケーキに憧れていた。
小さい頃の私は。
電気をつける気力もなく、家に踏み込む。
真っ暗で、誰もいないリビングに、買物袋を投げつけるように放り出して、座り込む。
暗闇だ。
暗闇だった。
病気が見つかって、私はもう甘いものは食べられない身体のようだった。
甘いものは制限。
砂糖は1日何グラム。
もう週一回のご褒美アイスもケーキも食べられない。
カフェに行って、甘々のラテを飲むことも叶わない。
ミスをして落ち込んだ日に、キンキンに冷えたコーラに直に口をつけて一気に飲むことも、もう出来ないのだ。
暗闇だった。
私の帰りを待つ者はもうだいぶ前からいない。
親は他界したし、もう一人の親とは仲が悪い。
恋人なんていないし、友人はみんな地元。
去年まで、うちで私を迎えてくれていた雑種のあの子も、もういなくなってしまった。
子どもの頃、私はバタークリームたっぷりのケーキに憧れた。
かわいい、ドレスみたいにかわいい、やわらかいケーキを囲んで、いっぱいの友達や家族に囲まれて、賑やかにお祝いをするそんな誕生日を。
もう叶わない夢だった。
ようやく仕事を見つけて、この街になれて、必死になって働いているうちに。
ぼんやり暗闇を見つめる。
こんな暗闇にも慣れてくる目がうざい。
悲しみなのか、怒りなのか分からない、熱い何かが、身体の中を巡って、込み上がってくる。
それの発散の仕方もわからず、くたびれたまま、私はぼんやりと暗闇の中の、私の部屋を見つめる。
ふと、スマホが震えた。
やけになって引っ張り出した。
電源をつけた。
それは、職場の後輩からの連絡だった。
いつぞやの昼休み、独りぼっちでコンビニのおにぎりをボソボソと食べていたから、あの日、私がお昼に誘ったあの後輩からだった。
「お誕生日おめでとうございます!」
後輩のメッセージのその下に、
バタークリームのかわいらしいケーキのスタンプが、「おめでとう」と笑っていた。
今日はずっと暗闇だった。
誕生日だというのに、やっと手に入れた自由な大人の誕生日だったのに、光なんて、見えなかった。なのに。
暗闇の中、スマホの画面はやけに眩しかった。
光輝いていた、暗闇の中で。
「老化はね、身体の酸化なんだ」
きっとね、彼は言った。
錆びた金属を、手の中で弄びながら。
「遥か昔、酸素は生物にとって猛毒だったんだ」
私は生物の教科書に書いてあったはずのミトコンドリア、の文字を思い浮かべる。
目の前の彼はいつだって、生物学的に考えて話をする。
彼のデスクに置かれた観葉植物は、こう話している今も酸素を吐き出している。
酸化鉄の塊を弄ぶ、白くいかにも寝不足で不健康そうな細い指が、それぞれ動くのを、私はじっと見つめていた。
「酸素は、毒とまでは言わなくても劇薬なんだ。鉄も酸化すれば錆びる。酸素は爆発や引火の手引きだってする」
彼はぽつりと言った。
「生きてるだけで重労働で、劣化していくんだよ、僕たちは。劇物の酸素を取り込んで生きているのだからね。そういう生き方にして、きっと生物は死ねるようになったんだ」
「死ぬことは生き物が生きるために欠かせないことだからね、種の繁栄とか、環境への適応とか、進化とか、そういう意味で。」
「だからさ、生物というものは、潜在的に、本能の奥の奥できっと死にたがっているんだ。最期には死にたがっているから、僕たちが生きるのには酸素が必要なんだ」
彼はそう言い募って、少し黙った。
彼は手の内に弄んでいた錆びついたネジをデスクに置いて、私の方を見た。
しっかりと。
「だから、君も、そんなに自分のしたことを気に病む必要はない。僕たちはみんな、無限に出てくる修正案の一つで、その修正は永遠に続くんだから」
彼は、私の首にチラリと目をやって、頷くようにボソリと呟いた。
「それと。首吊りの場合、死因は縊死だ。気道を塞がれて呼吸ができずに酸素不足になるよりも、体と頭の重さで首が折れる方がずっと早い。首吊りでは酸素から逃れられないよ。」
そうして彼は、あまり上手くない気配の笑顔で笑ったようだった。
私は自分の頬が、少し緩むのを感じた。
今なら、酸素を吸うために、彼の顔を見るために顔を上げられそうだと思った。
真夏の日、記憶の海に飛び込んで、
あの夏の、あの思い出を、必死に探す。
その胞子は、人間に寄生する。
肺に吸い込まれた胞子は、そこで大きくなって、キノコになって、神経や脳に作用する。
そして、このキノコに寄生された人間は、みんなただ一人の人間しか見えなくなる。
依存する。
恋の盲目になる。
彼らは人間がとりわけ、人肌恋しくなる夜になると、ぼんやりと口を開き、口を開くたびに繰り返す。
「ただ君だけ」「ただ君だけ」「ただ君だけ」…
そういうわけで、この冬虫夏草ならぬ、昼人夜茸を、人々はみんな「タダキミダケ」と読んでいる。
ガラス窓には、新月の暗闇が底知れぬ深さで写っている。
私には、同居人がいる。
ただ君だけ、とうなされたように私に向かって縋り付く、同居人が。
胞子を口からぽこぽこ吐きながら、「ただ君だけ」と連呼する同居人を見て、私は防護マスクの下でため息をつく。
最初は嬉しかった執着も、ここまで度が過ぎると虚しいし、迷惑だ。
特に、今みたいに、お手洗いや風呂にまでついてこようとする時は。
「ただ君だけ」と繰り返し発するその口からは、胞子が立ち上っている。
もう、仲の良い友人だった同居人が、この言葉をどういう気持ちで言っているのか、分からない。
しつこく纏わりつく同居人を適当にあしらいながら、洗面所へ行く。
「ただ君だけ」「ただ君だけ」
響きだけはやたら良い、空っぽの言葉が部屋の中に溜まっていく。
私はため息をつく。
虚しさと煩わしさの混じったため息を。