薄墨

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その胞子は、人間に寄生する。
肺に吸い込まれた胞子は、そこで大きくなって、キノコになって、神経や脳に作用する。

そして、このキノコに寄生された人間は、みんなただ一人の人間しか見えなくなる。
依存する。
恋の盲目になる。

彼らは人間がとりわけ、人肌恋しくなる夜になると、ぼんやりと口を開き、口を開くたびに繰り返す。
「ただ君だけ」「ただ君だけ」「ただ君だけ」…

そういうわけで、この冬虫夏草ならぬ、昼人夜茸を、人々はみんな「タダキミダケ」と読んでいる。

ガラス窓には、新月の暗闇が底知れぬ深さで写っている。
私には、同居人がいる。
ただ君だけ、とうなされたように私に向かって縋り付く、同居人が。

胞子を口からぽこぽこ吐きながら、「ただ君だけ」と連呼する同居人を見て、私は防護マスクの下でため息をつく。
最初は嬉しかった執着も、ここまで度が過ぎると虚しいし、迷惑だ。

特に、今みたいに、お手洗いや風呂にまでついてこようとする時は。

「ただ君だけ」と繰り返し発するその口からは、胞子が立ち上っている。
もう、仲の良い友人だった同居人が、この言葉をどういう気持ちで言っているのか、分からない。

しつこく纏わりつく同居人を適当にあしらいながら、洗面所へ行く。
「ただ君だけ」「ただ君だけ」
響きだけはやたら良い、空っぽの言葉が部屋の中に溜まっていく。

私はため息をつく。
虚しさと煩わしさの混じったため息を。

5/12/2025, 9:21:09 PM