薄墨

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5/1/2025, 1:02:17 PM

生ぬるい麦酒を喉に流し込む。
今日はやけに空気が蒸している。

タバコを咥えて火をつける。
口元すれすれでタバコを触る指先に、生え始めた無精髭がちくりと痛い。

ぬるめに蒸した初夏の空気にうんざりしながら、ヤニ臭い煙を味わう。
この体に、男になってから、まだ三ヶ月。
私とも僕とも俺とも言い難い。
なんとも混じり気のあるはっきりしないような気分だ。

丁度、副流煙だ健康被害だと隔離され、施設の片隅の一隅ほどの狭いスペースに、閉め切られた喫煙所に蔓延する煙のように。

澱んだ、なんとも言い難い気分だ。

一人ぼっちのアパートの、窓際でタバコを吸う。
外を眺めながら、一人で。
かつて、ここにいた親友はもういない。
一緒に暮らしていた、同居人で同志でもあった、あの戦友は。

似たもの同士だった。
抱えている悩みも。
漠然とした絶望の未来を抱えているのも。
どうにかして、いっそ別の人間になってしまいたいと願っているのも。
異性であることに憧れているのも。

似たもの同士だったのだ、本当に。

目の前が澱み、霞んできた。
紫煙が、部屋に溜まり始めていた。
窓を開けていなかった。

麦酒を呷った。
腕を伸ばして、窓を開けた。
やたら粘着質の、ぬるい風が吹いていた。

ヤニと有害物質を纏った紫煙は、口元から、窓の外へと流れた。
風と。
風と共に。

同居人がいなくなったのも、風と共にだった。
似たもの同士で、いつも以心伝心だと思っていた。
それが間違いだった。

親友は、ずっとずっと繊細だったのだ。
ずっとずっと悩んできたのだ。
いつしか、親友の心は知らぬうちに、換気がされていない狭苦しい路上の喫煙所のように、モヤモヤと澱んでいたのだ。
悩みや不安や術後の苦悩や、その他の大なり小なりのなんやかや。
煙のように形のないそれが、親友の心には溜まっていたのだ。
きっと。

ある日、親友は、高い高い窓に手をかけて、笑った。
屈託のない、やけっぱちないつもの顔で。

そして、親友は目の前から消えた。

片手で自然に窓を開けて、
身を乗り出して、
窓の奥の外から吹き抜けた、今日とは比べ物にはならない涼しげな風と共に。

親友は、風と共に出て行った。
窓から、外へ。

生ぬるい麦酒を呷る。
うまくない。
苦くて、気が抜けていて、えぐくて、まずい。

窓から、外の空気が吹き込む。
今日は、やけに蒸している。

タバコの煙が、風と共に窓を出る。
臭くて、有害で、公害になるらしい煙が。
じくじくぬるい風と。

今日の空気は、やけに蒸している。

4/30/2025, 1:16:45 PM

ぬかるんだ轍の窪みに、薄く泥水が溜まっている。
とっくに通り過ぎた車の、車輪の、僅かに凹んだ軌跡に、ぬらぬらと雨蛙の背が光る。

うんざりするような田舎道。
未だに舗装されていない道の泥を跳ね上げて、時速60キロも出せないトラクターが、のろのろと、道のぬかるみに軌跡を刻みながら遠ざかっていく。

あのトラクターはおんぼろだ。
バンパーからガタピシガタピシ音を立てている。

濡れた油の匂いがする。

あのトラクターは、何度ここの道に軌跡を刻んできたのだろう。
ガタピシガタピシ揺れながら、どこか手慣れた様子で走ってゆく、あのトラクターは。

雨の匂いがする。

あのトラクターは、近所のおじさんのトラクターだった。
今となっては、もう、呆けてしまって、一人暮らしもままならなくなってしまった、おじさんのだった。

おじさんは、この辺りでは一番大きい田圃を持っていた。
お米を育てるということを、誰よりも詳しく知っていた。
ここの土地と地域のこと、天候を、誰よりよく知っていた。

そして、ここの空き地を田圃にしよう、と呼びかけたのは、若い日のおじさんだったという。

おじさんはここの長で、リーダーで、
この辺り一帯こそが、おじさんの軌跡だった。

おじさんはよくあのトラクターで、この道を走っていた。
未だに舗装されていない、この道に、轍を、軌跡を刻みながら、おじさんとあのトラクターは、いつも仲良く、田圃を回っていた。

遠い遠いかつての日、ガタピシ鳴るトラクターと、節くれだったおじさんが、楽しそうに轍を、軌跡を刻みながら、走っていた。

その道を、今、トラクターが走っていく。
最期の道をゆっくりと。

うんざりするような田舎道。
未だに舗装されていない道の泥を跳ね上げて、時速60キロも出せないおんぼろトラクターが、のろのろ、軌跡を踏み締めていく。

雨の匂いがする。

ぬかるんだ道の轍に、薄く泥水が溜まっている。
トラクターとおじさんが、何度も刻み直した軌跡の窪みに、雨蛙の背がぬらぬらと光る。

雨と、泥の匂いがする。

4/29/2025, 2:19:48 PM

お隣で、肘をついて、食事をつまむ。
口にゆったりお酒を含む。
ふと目があって、笑い合う。
そんなあなたが
好きになれない、嫌いになれない。

休日も、あと2、3時間で終わる。
そんな一抹の憂鬱を含んだ貴重な時間に、
特に恋人でもなんでもない友達のあなたと、
何をするでもなく、飲み食いする。
そんな無駄な時間が
好きになれない、嫌いになれない。

少し味の濃い、カロリーも高い食べ物をつまんで、
人体には毒であるはずの飲み物を口に含む。
本音というわけでもないとりとめのないことを、ふわふわとだだ漏れにして。
話すつもりはなかった、合理性のかけらもない言葉を、お互いに溢しながら、
ただ二人で外を見る。

そんなひとときが、
好きになれない、嫌いになれない。

4/29/2025, 8:09:26 AM

ニワトリが 鳴いて砧の 音がして
 明けた夜を知る 後朝の空

4/27/2025, 10:40:02 PM

また目があった。
ふとした瞬間に、視線がぶつかる。
これで相手が、いつも気怠げなダボっと服を着崩したバイト君や、疲労と責任の負の部分を全て肌に染み込ませたような店長や、パサパサに髪を染めた見た目よりずっと繊細そうなギャルちゃん、とかなら、ドラマチックな何かが始まっていたのかもしれない。
しかし残念、相手は人ではない。

バックヤード。
人けのない休憩室の、無機質な灰色の壁にへばりついた、色の変わったセロテープに汚されたポスター。
「スタッフ募集」のゴシック体と一緒に、二重の大きな目をした女性が、カメラを構えて、採用用のショートフィルムの提出を促している。

その二重の、ぱっちりとした目と、なぜだか目が合うのだ。
よく見れば見るほど、ハッとする美人だ。
くりっとした形の良い二重。
程よく高く、穏やかな鼻。
ゆるく釣り上がった赤い唇。
チャーミングに凹むえくぼ。
浅葱色の瞳と柔らかそうな髪。
特にはじけたところはないのに、見れば見るほど、そのシックな美しさから目が離せなくなる。

ポスターとデカデカと貼り付けられたゴシック体が色褪せてさえいなければ、まだまだたくさんの人の目を引いていただろう。
そんな顔だ。

そんな顔と目が合うようになったのは、あの日からだ。
なんてことはない日だった。
深夜シフト、バイト君の急なシフト変更に、休憩中、回っていない頭を抱えてシフト表を見つめていた、あの日。

ふと視線を感じて目を上げると、そこにポスターが貼り付けてあって。
あの、シックに微笑む、二重の、アーモンド型の目があった。

ふとした瞬間に、視線を感じるようになったのは、その時からだ。
強めのブラックコーヒーを淹れに、休憩室へ寄った時。
お客様へ預かっている荷物をひっぱりだしに来た時。
商品を補充しに来た時。
シフト表と勤務表にチェックを入れる時。
在庫を確認する時。
一人きりで休憩に入る時。

ふとしたそんな瞬間に視線を感じて、目を上げるとあの目がある。
美しい、くりっとしたあの二重の目が。

いつも、いつも。
ふとした瞬間に目が合うのだ。

ある日、ポスターの中のあの子に向かって呟いたことがある。
正確に数字が思い出せなくなるくらい、何連勤も働いて本当に疲れ切った日のことだった。
こんなくたびれたパートの主婦を見たって、何の肥やしにもならないわよ
煩わしくなって、バカみたいだけれど、ポスターに向かってそう呟いた。

けれども今も彼女と目が合う。
ふとした瞬間に。
あの、印象的な美しい二重の目と。

もうすっかり慣れてしまった。
ポスターのあの子からの視線を感じながら、コーヒーを啜る。
休憩室は、沈黙に満ちている。
あの子の視線だけが、くたびれた私を見ている。

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