薄墨

Open App
4/20/2025, 10:43:12 PM

びっしりと星のひしめく空を見上げる。
そっとため息が出る。

ため息が出たら、なんだか肌寒い気がして、コンビニで買ったコーヒーに口をつける。
おっかなびっくりカップを傾けて、ホットコーヒーを口に含む。
熱い。
苦い。

コンビニのホットドリンクの、プラスチックの蓋は、ちょっと怖い。
保温性抜群なのに飲み口が小さすぎる。
しっかり傾けないと飲めないし。
猫舌子ども舌の私には、ちょっと理不尽なギャンブル性が高いカップだ。

でも、今はそのハラハラ感がかえってありがたい。
コーヒーを飲むためにプラスチック蓋に頭を悩ませている間は、難しいことを考えなくて済むから。

今日は月が出ていない。
ただ、夜空をびっしりと埋め尽くす無数の星明かりが、足元を照らしている。
白い花すら、ほのかに光って見える。

静かな星明かりの下を、歩く。
コーヒーカップを傾けて、慎重にコーヒーを口に含みながら。
いつもなら、こんな時間に出歩いたりしない。
でも今日は、今日だけは散歩がしたい、と思ったのだ。

ミスを重ねてしまった週の終わりが、飲み会だった。
上司はみんな優しくて、しっかりした職場だから、会はずっと楽しいまま、幕を閉じた。
嫌味も説教も何も言われなかった。
良い感じに酔いがまわるまで飲んで、話して。
ただ、楽しく喋って、楽しく帰ってきた。

そう。
楽しく帰ってきてしまった。
今週、私はダメダメだったのに。

一人で歩いている間に、モヤモヤしてしまったのだ。
思ってしまった。
こんな、ダメな、やるべきこともできていない半人前の私の週末が、こんなに楽しく、穏やかなものであっていいのだろうか、と。

直属の上司からお説教の一つ、苦言の一つ受けるのが、今週絶不調だった私の勤めではないのだろうか。

職場に不満があるわけじゃない。
上司に不満があるわけではない。
ミスをきちんと指摘して、きちんと対処法を教えてくれて、一緒に謝ってくれる。
むしろありがたいくらい。

だからこそ、ふと思ってしまう。
私はこのままここにいて、こんな心地良い環境にいて、いいのだろうか、と。

冷静に考えれば、この環境は、学生時代の私が、努力と思考と運で手に入れた環境だ。
だから、だから、その努力に報いるためにも、ここは私がいるべき場所。
いつもならそう思えるのだけど。

…ちょっと飲みすぎたようだ。
今日は後ろ向きな想像が、頭を埋め尽くしていた。

職場のために、私はここにいるべきではないとか。
私は生きていていいのかとか。
なんでこんな幸せを、苦労のない状況を、私なんかが享受しているのかとか。

真っ直ぐ家に帰ったら、そんな考えで腐ってしまいそうな気がした。
だから、散歩をすることにした。
星明かりで、頭を冷やすことにした。

コーヒーをゆっくり口に含む。
プラスチックの小さな飲み口から、口内に飛び込んだコーヒーは、まだ熱い。

空を見上げる。
びっしりと星がひしめいている。
あんなにたくさんあるのに、光量は大したことない。
ほのかな星明かりが、夜を照らしている。

コーヒーを一口飲みこむ。
ホッとする温かさと渋い苦味が、口の中いっぱいに広がった。

4/20/2025, 2:56:18 AM

影だけを 伸ばして触れる 蛸の足

影だけが 伸びて触れ合う 指と指

4/18/2025, 3:28:01 PM

小さな手を握る。
小さな手たちを握り、手を引いて、私たちは逃げる。

物語の始まりは来なくてもいい。

ドラマチックな悲劇も、
衝撃的なハプニングも、
理不尽な立ち向かうべき困難も、
誰もが羨む実績も、
正しさに裏打ちされた物語も、
幸せを願った英雄譚も、
何かを変革する悲願も、
起こらなくたっていい。
なくていい。

ただ、平和に晴れた空の下で、
平凡に一日が終わっていくのを、
のんびりと小さな幸せを享受できれば、
それだけで。

それだけで、満たされた人生を歩めることを。
物語にはならなくても、自身は幸せであることを。
物語の始まりに捕まって、主人公になったって、その責任をツケを保証をしてくれる人や神なんていないってことを。
物語は誰かを救うかもしれないが、物語を紡いだ登場人物自身を救ってくれるとは限らないということを。
社会がどうあろうと、個人の幸せは、どこまでいってもその個人自身の幸せだということを。
自分の幸せは、結局、自分で折り合いをつけ、自分で理解して、自分で守るしかないってことを。

そして、あなたたちを愛する人間はみんな、そうした物語の性質を理解した上で、自分の生き方を、幸せを見つけてほしいと、望んでいるということを。

私はそれを伝えたいと思っていた。
私よりも先の未来を抱えた、その小さな手の持ち主たちに、伝えて、逞しく幸せに生きてほしかった。

しかし、皮肉にもそうやって考え、大それたことなんてやろうとしないで生きてきた私たちの元に、物語の始まりはやってきた。
侵入者がやってきて、この地は物語の舞台と化した。

ドラマチックな悲劇が、
衝撃的なハプニングが、
理不尽な困難が、
成し遂げなくてはならない実績が、
正しさに裏打ちされた物語が、
誰かの英雄譚が、
誰かの変革が、
この地に流布され、溢れ出した。

華々しいそれらは、私たち個人の幸せなど、微塵も保証してくれないのに。

私たちは、物語の始まりに、悲劇に呑まれて、物語の俎上に載せられた。
小さな子どもたちの、胸や脳に、物語の始まりは今くっきりと始まってしまったのだろう。

しかし、私はそれでも、彼らを逃がしてやりたい。
他ならぬ、彼らの幸せのために。
彼らが、物語にこだわらずに、自分の人生を歩めるように。

私たちは逃げ惑う。
物語の始まりから。
逃れられない物語から。

それが、私たち個人の幸せとは限らないから。

私は小さな手たちを引く。
怒号と、剣呑な音と、無数の物語が、散らばっている中を。
私は、私たちは逃げ惑う。

4/17/2025, 2:32:34 PM

真っ黒な 右手の側面 春の宵

ふつふつと 静かな情熱 キーに込め
 自ら夜景に なる夜半の春

朧月 目にふやけるは 静かな情熱

4/16/2025, 10:33:00 PM

所詮はね、対岸の火事。対岸の火事だ。
小さく聞こえる遠くの声をそう思い込みたくて、自分に言い聞かせる。

不快な、理不尽な、それでいて自分勝手な声は、遠くから、細波のように聞こえている。

目を閉じて、脚を折る。
細波がざわめき、少し大きくなって、騒がしくなる。

ニンゲンという種族は、とても遺伝子に忠実で、合理的な生物だ。
自分の種族を繁栄させ、生かすための合理的な進化を遂げている。
遠くの声の主、ニンゲンたちは、その進化の、自分たちの遺伝子が導き出した正解に忠実に従っている。

自分の種族だけで群れ、自分たちの種族を他の生物より優位である、という常識。
とりあえず、同胞たちの記録によるデータを信じて、頼れそう、利用できそうなものはとりあえず、なんでも一度利用してみる、という逞しさ。
他の生物を利用して繁栄を享受するには、これくらいの強かさが必要なのだろう。

だから、私はこんなところにいるのだ。

私たちクダンの予知は、あくまで敏感な感覚や蓄積した経験から導き出される予測予知であり、ニンゲン界でいうところの天気予報程度の意味しかないというのに。

それを知り得ないニンゲンは哀れなことに、
こうして私のように、若いクダンを捕まえて、もてなし、「予知をしてほしい」と、ちくばくに希ってしまうのだろう。

できることなら、精度の良い予知をしてやりたい。
しかし、私はまだ若い。
聡い感覚はまだ研ぎ澄まされていないし、賢い経験はまだそれほど積み重なっていない。
クダンは歳をとるほど、精度の良い予知ができるようになるのだ。
ニンゲンの言い伝えで「クダンは予知をすると死んでしまう」というのは、なんてことはない、当たるほど精度のある予知をできるクダンはみな年寄りで、余命幾ばくかであったということだけなのだ。

まだたった100年しか生きていない、若輩の私には、まだまだそのレベルの予知はできない。
未来予測のような予知をするには、少なくともあと1000年は…。

テキトウでも何か予知をすれば、ニンゲンは私を解放するだろう。
しかし、自分たちの村落の命運を握る予知を、勘違いのためにこんな私に頼ってしまっているこの哀れなニンゲンたちに、テキトウな予知を投げるなんてこと、と躊躇ってしまうのだ。

遠くの声。
哀れっぽく、必死なニンゲンたちの声。
理不尽で、逼迫した、哀れな状況に置かれたニンゲンたちの、悲しく、理不尽な声。

ニンゲン、他種族の置かれた状況なんて、対岸の火事だ。
彼らが無慈悲に他種族を利用するように、私だって彼らから逃れるためにテキトウな予知をしていいはずだ。
していいはずなのに…。

ニンゲンの声から、できるだけ心を遠ざける。
あれは遠くの声。
対岸の火事。
自分に言い聞かせる。

遠くの声、ニンゲンの希う声が聞こえる。
遠くのはずなのに、遠ざけたはずなのに。
だんだん、細波のように私の心に近づいてくる。

目を閉じたまま、耳を伏せる。
遠くの声は、まだ聞こえている。
聞こえている。

Next