猫が発情している。
外は、煩いくらいに春だ。
いちごジャムで指を汚しながら、ジャムサンドをラップに包む。
不器用さの象徴のような、ベタベタとうっとおしいこの指も、あなたがいれば「そんなとこも好きだよ」なんて言われてドキッとしながら安心して、少し自分が好きになったりして…なんて。
そんなことを考えながら、人差し指を舐める。
甘くて、すっぱい。
恋には、安心感が大切なのか、緊張感が大切なのか、決めかねていた。
切り落としたパンの耳を前に油を出すべきか、と悩むように、なんとなく決めかねていた。
一緒にいる時の、穏やかな安心感も、ふとした時に感じる、衝撃のようなドギマギとした緊張感も、心地よくて芯の芯からざわざわとして、本当に、愛していた。
でも、そういう気持ちがどこからともなく込み上げて、訳もなく、自分の考えが幸せな子どものように戻ったり、多幸感でそわそわと浮き足だったり、そんな時には、自分が自分でなくなってしまったような不安感がある。
自分が、いつもの自分でないような感じがする。
だから、私は決めあぐねていたのだ。
恋に、安心感と緊張感はどちらが大切か。
私はこのまま、両方を感じ続けて、恋の最中で自分を見失ってばかりでいいのか。
なんとなく不安なのだ。
外で発情している野良猫のように。
あるいは、春にだけ乱れ飛ぶ蝶のカップルのように。
あるいは、むやみやたらに恋をしたがるスギ花粉のように。
そのほか、本能で、気の、感情の向くままに、春恋に溺れる全ての生物のように。
そんな中に。
春恋に取り込まれて、春恋に溺れていいものなのか。
こんなに暖かくて、天気が良くて、恋日和の小春日和には、ふと、不安になる。
だから、不安だから、ジャムサンドを作った。
あなたと食べるための。
なんとなく浮き足だって、せかせかして、暖かくて、幸せそうで、でも何か、何か日常とは違う。
そんな不安定で、不気味で、それでも幸せな、なんか春恋みたいな食べ物を、食べたくて。
他でもない、恋人のあなたと分け合ってみたくて。
いちごジャム、なんて、いかにもすぎて恥ずかしいジャムサンドイッチを、私は作ったのだ。
恥ずかしいくらいにいかにもなバスケットに、いちごジャムサンドをしまう。
モンシロチョウのカップルが、ちょっと目に余るくらいベタベタと戯れながら、窓の外を横切っていく。
恋は、殊に春恋は、浮かれすぎている。
だから不安なのだ。
自分が自分でなくなるような気がして。
私たちが私たちでなくなるような気がして。
勢いと、春の呑気な日和だけで、とんでもないことをしでかしてしまいそうな気がして。
春恋は危険。危険なのだ。
そんな気が、そんな不安が、するのだ。
いちごジャムサンドを入れたバスケットに、チェックの布をかける。
画面の向こうの北欧の景色に出てきそうな、いかにもって感じの、チェック柄の、テーブルクロスみたいな布。
出来上がった、春恋の塊みたいなバスケットを持つ。
春恋は怖い。怖いのだ。
浮つきすぎて。
安心したくて、春恋の塊みたいなバスケットの柄を握りしめる。
地に足ついた現実みたいに、強く握る。
そうして、私は出かける。
あなたの元へ。
春恋に飲み込まれないために。
安心するために。
不安になるために。
私は、出かける。
定規を当てて、直線を引く。
パワードスーツの設計図が出来上がった。
しかもただのパワードスーツじゃない。
負のエネルギーをエネルギーにできるバネ型の、ほかに類を見ないパワードスーツだ。
「ヒーロー」という華やかな汚れ仕事が一般化して、5年が経とうとしている。
テロや殺人、反乱の扇動などを行ういわゆる平和の「敵」と戦ったり、5年前に唐突に現れた、侵略者の宇宙人などの「怪物」と戦ったりするヒーローは、その華やかさと政治的な便利さから、危険ながらも、一躍、花形の仕事として定着した。
そして、そんなヒーローの活動を支えるため、人体の身体能力を飛躍的に向上させる、パワードスーツの需要と技術も、めざましい発展を遂げた。
従業員一人ひとりに配備するにはあまりに高級品で、工業業界や介護業界などにも見向きもされなかったパワードスーツは、思わぬ活躍の場を得たのだ。
パワードスーツと正義感の強い一個人でもって、一騎当千の精鋭を何人か作り出し、コストのかかる軍隊の代わりに、治安維持に努めさせる。
瞬く間に、そんな未来図が描かれ、実現されつつあるのだ。
僕は、そんな社会でパワードスーツの設計者となった。
僕も一塊の少年の例に漏れず、少年期には無邪気にヒーローに憧れていたけれど、
臆病で、保身的で、自分の命と引き換えに見ず知らずの人を守るなんて勇気のいることは、足が震えてとてもできない僕は、ヒーローには向いていなかった。
だから、パワードスーツを作ることにしたのだ。
そういうわけで、僕はパワードスーツの設計を完成させた。
独立して初めてのこの依頼は、変わった依頼だった。
パワードスーツにはエネルギーがいる。
普通は、パワードスーツを動かすそのエネルギーは、正のエネルギーを用いる設計にする。
声援とか、希望とか、そんなエネルギーを。
ヒーローのパワードスーツは、ヒーローの身体に埋め込む。だからエネルギー切れは危ない。最悪、身体ごと燃え尽きる。
それに、正のエネルギーである声援や希望は、ヒーローのモチベーションにつながる。
世の中が平和になればなるほど、正のエネルギーは増大するし、浴びるのが気持ちいいから。
だから、パワードスーツには正のエネルギーを当然のように使うのだ。
しかし、僕の依頼主は、パワードスーツのエネルギーに負のエネルギーを希望した。
わけを聞くと、彼女はこう答えた。
「だって、平和のためにとはいえ、人を簡単に打ち任せる武力を持った人間が、平和で武力のいらない世界でのうのうと生きるわけにはいかないでしょ?新たな争いの火種になるかもしれない」
だから、彼女は続けた。
「平和な世、ヒーローがいらない世になったら、真っ先に退場できるヒーローになるの。私は。」
負のエネルギーを希望に変えるヒーローって、かっこいいでしょ?
そう言って依頼主は笑った。
彼女の描く、ヒーローの描く未来図を見て、しみじみと僕はヒーローになれないと、思い知った。
せめてその、凄まじい自己犠牲のもとに成り立つ未来図を、完成させる手伝いをしたいと思った。
だから、必死に作り上げることにした。
彼女の依頼に、彼女の未来図に、ヒーローとしての覚悟に叶う、パワードスーツを。
かなり難しかったけど、かっこいい形になりそうだ。
僕はヒーローにはなれない。
でもきっと、ヒーローの未来図を描くための、定規にくらいならなれる。
僕はパワードスーツを作る。
将来、依頼主を殺すかもしれない、かっこいいパワードスーツを。
彼女の未来図通りに。
花びらが 酒をひとひら 舐めるのも
待てずにあおる 桜風の宵
海を泳いで、泳いで、ようやく辿り着いた岸。
ざらざらの砂の上で、振り返った。
身体中に纏わりつく潮の匂いと一緒に見た風景は、キラキラ光っていて、美しい海だった。
家から逃げ出して、必死に泳いだあの大きな波間も、風景として見てみれば、ただのキラキラ輝く、海の波でしかなかった。
弟の、冷たい手を握って、海の風景を眺めた。
波がキラキラと揺れている。
遠く、遠くに、私たちの家があった陸が見えた。
逃げ出したのは、大人たちが危険になったからだった。
数ヶ月前からおかしかったのだ。
私たちの周りは。
大人たちが、ピリピリし始めて、
大人同士で喧嘩を始めて、
銃や爆弾が飛び交い始めて、
お母さんやお父さんや大人たちが、暴力を振い始めた。
だから、私たちは逃げ出すことにした。
弟を守るために。
地獄みたいな、家の周りの風景から逃れるために。
遠くから見ると、家の周りは綺麗な風景だった。
潮水と風に煽られ、手足が動かなくなるほど、喉を裂かれるほどに恐ろしかった大波と海も。
今、ここから見れば、青い波に現れた新緑の鮮やかな陸地でしかなかった。
背後には崖が立っていた。
これを登れば、別の国、別の地域に入れるはずだ。
家から見えた、あの美しい風景の国の中に、入れるはずなのだ。
弟の手を引いて、一歩踏み出す。
あの、遠くから輝く、美しい風景の中に、私たちも行くのだ。
私たちは一歩を踏み出した。
どこかで、家の近くでうんざりするほど聞いた、銃声みたいな音が聞こえた気がした。
聞こえた…気がした。
コンクリートが崩れ去った
赤黒い液体の染み込んだ黒茶けた土の上で
腐り落ちた君と僕は
抱き合うのだ。
白けた目を向けるものなど誰もいない
ふんわりとしたきめ細やかな死の灰に守られて
つきん、と、関節を刺す異常な肌寒さも
意味もなく鮮やかな熱い太陽も
全てに祝福されて
君と僕は肩を寄せ合って、見つめるのだ
遠い遠い終焉を。
焦げついた最後の地で、君と僕は。
まだ未熟な身体を寄せ合って
打ちのめされた幸せな記憶と自分らしい精神の
僅かに残ったボロ切れのような希望を掻き抱いて
空を見るのだ。
待つのだ。
あの太陽が、世界を焦がすのを。
あの怪物が、地上を更地にするのを。
君と僕は。
肩を寄せ合って。
空には今にも目に赤く灼きつきそうな赤い太陽。
君と僕は、全部燃え尽きてしまわないように寄り添って
もう崩れ、溶け、腐りかけている肩と肩を寄せ合って
腕と腕とを混ぜ合って
世界の終わりを、正面から見つめる。
君と僕。
君と僕、ただ二人しかいない世界だと信じ込めそうなほどに静まったこの世界で。
君と僕、最期の生き残りだと言い張れそうなこの世界で。
世界の終わりを、見つめる。
君と僕で。
抱き合って。