薄墨

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4/2/2025, 10:57:08 PM

空に向かって手を伸ばす。
今日の空は、青い。ぐにゃぐにゃの寒天みたいな空だ。

空の上から伸ばした手は、ぐにゃりと吸い込まれるように空に沈む。
引き込まれるように、身を乗り出す。
青い空がぐにゃりと蠢く。

私の職場は、確かに硬さのあるこの空を飛ぶ船だ。
国から国へ、港から港へ、商品を運ぶ輸送船。
障害物のない空の上、船腹につけられたオールが、ぐにゃぐにゃの空を掻き回しながら前に進む。
そんな空船の船員を、私はしている。

私はこの空船のデッキから、空を覗きこむのが好きだ。
オールでかけるほど確かに形がありながら、いつもどんな時もあってないような慎ましさの空が、不思議で、好きだから。
船から見る空は本当に遠くて、吸い込まれそうなくらいに美しく、好きだ。
そして、空に手をつけるのももっと好きだ。
空は永遠に深く続いていて、底がしれない。
そんな不思議な感触を、手で味わうのが好きなのだ。

だから、今日の休憩時間にもここに来た。
そうして、吸い込まれそうな空に向かって手を伸ばす。
底は見えない。
地上も遥か遠くだ。
青い空が、手を沈めていく。

美しい、なんとなくひんやりとした空に手を浸していると、なんだか体も浸したくなる。
それをなけなしの理性と現実で留めて、私はいつも目を輝かせながら、果てしない空の底を覗き込む。

いつもは空に飛び込んで、身体中を空に浸そうなんて、思わない。
空の底は見たいけど。
空に身体を浸せば、重力で、空の底のずっと前にある地上に叩きつけられるだけだと分かっていたから。
だから、私はデッキの上で、せいぜい空に向かって手を伸ばす、くらいのことしかしてこなかった。

今日もそのつもりだった。
私は空に手を浸しながら、休憩明けのことを考えていた。

その時、船内に続く船デッキのドアが、勢いよく開いた。
雪崩れ込むように、一人の商品が、船デッキに走り込んできた。

商品は、体に垢と傷をこびりつけた、見窄らしいその全身に、怯えと焦りと恐怖の感情を貼り付けて、青ざめた。
私の顔を見て、デッキの手すりを見て、空を見た。

そして、彼は、飛んだ。
空に向かって。
両手を広げて。

青い、深い、果てしない空が、彼をあっという間に呑み込んだ。
空は、彼が飛び込んだその一瞬、その一部だけざわめかせて、彼を包み込んだ。

…あとは静かな、元の凪いだ空が残っていた。
青い、青い。

逼迫した何かが込み上げた。
切ない空への憧れが、無責任にも私の背を押した。

私は。
私は。

私は、空に向かって手を伸ばした。
空に向かって肩を伸ばした。
空に向かって身を乗り出した。
空に向かって足を踏み出した。
まずは上半身を、続いて腰を、続いて足を、爪先を。
空に向かって投げ出して、空に向かって乗り出した。

きっと、飛び込み姿勢は美しくとれたとおもう。
細く伸びた私の全身は、するん、と、ほとんど抵抗なく、空に落ちた。

恐ろしいほど早い落下の中で、全身は空に浸っていた。
全身が、風を切って空の深みへ、真っ逆さまに沈んでいく。

私は幸せだった。
身体は、ゆっくり、でも十分な速さで、私を空の底へ、底へと沈めていった。

4/1/2025, 2:36:07 PM

火花が散って、はじめて目があった。
お互いに、その一瞬で立ちすくんだ。

草むらの中から顔を出した、少し下の方にある、丸い見上げるその眼が、「はじめまして」と告げているような気がした。

だから私は手を差し伸べたのだ。
はじめまして、そう返すために。

今まで数々の生き物を拾ってきたけれど、ニンゲンを拾ったのは初めてだった。
かつてこの星を統べていたというこの生物は、私たちよりも少し小さく、私たちよりずっと賢く、かわいらしい。

ニンゲンは、同種同士でとても仲がよい。
どんな仲間とも“会話”というものを試みようとするし、生殖活動を行うのにさえ、もう一人のニンゲンを必要とする。

ニンゲンは、賢い。
同種の個体差のみならず、他の生物や私たちの個体差も見分け、覚え、記憶に基づいて反応する。
そして、私たちとさえコンタクトをとろうとする。

ニンゲンは、かわいい。
話したり、構ったりすれば、大抵のニンゲンはこっちをじっと見つめてくれる。
私たちより少し小さいくらいだが、電子操作などを生身で使うことはできず、体と脳を目一杯動かして、道具などで一生懸命に生きる。

そしてなによりニンゲンは、生命活動で環境を汚染したりしない。
ニンゲンは、植物に必要な二酸化炭素を吐くし、排出するのも食べるものも全て有機物で、汚染物質ではない。

だから、ニンゲンは、私たちの種族の中では、一定の人気がある。
かわいらしく、賢く、一途で環境にも優しいニンゲンは、今や私たちのパートナーだった。

しかし、私たちの種族の中には、ニンゲンに酷いことをするものもいる。
そういう時、ニンゲンはその不自由な体を必死に使って逃げ出したりする。
また、はぐれてしまうニンゲンもいる。

そういうニンゲンは野良となって、文明という群れを作って、ニンゲンだけで生き抜いているという。
なんとも健気でかわいらしくて、悲しい話だ。

私があったこのニンゲンも、野良のようだった。
文明に所属しているようにも、飼い主がいるようにも見えなかった。

私と目を合わせたニンゲンは、とても痩せていたし、道具を持っていない手ぶらだった。
そして、そのニンゲンは、警戒しながらも私に挨拶をした。
愛くるしい目で。声で。
はじめまして、と。

だから、私はこのニンゲンを保護することに決めた。

しかし、ニンゲンはナイーブだ。
野良ニンゲンや捨てニンゲンを保護するにはまず、ニンゲンに慣れてもらい、友達になる必要がある。
この作業を、「友情を育む」というらしい。

だから、私はまず、挨拶を返すことにしたのだ。
「はじめまして」

ニンゲンが笑った。

4/1/2025, 6:35:31 AM

うそつき、と。
私は口の中で呟きました。

あなたはあの日、「またね!」と言いました。
確かに。
だから、私はもう一度会えると信じていました。
幼い私は、純粋にも「また」が言葉通りまたあるものだと、信じていたのでした。

空も海も透明に凪いでいて、春のぬるい温度がすうっと抜けています。
春特有の、霞がかってちょっとぼんやりした空気の中で、私は深呼吸をしました。

あなたが私に「またね!」と笑いかけていたあの時も、この今日の春と同じように、境界のないぬるい、なあなあな長閑な空気の中だった、と、私の記憶がささやきます。

だから、私はうそつき、と口篭ったのでした。

あなたが私の前から消えたのは、もうずいぶん前のことでした。
あなたはいつもの通りに笑顔で、いつも「バイバイ」と別れを告げるような口ぶりで「またね!」と。
そう言って手を振ったのでした。

私は、あなたが初めて、別れの言葉で次を確約するようなものを選んだことに、気づいて驚いて、それで本当に嬉しくて、満ち足りた気分であなたを送り出したのでした。

それがここまでの別れとなることを知らずに。
私は、あなたを返してしまったのでした。

あれから、月日は巡り、年は経ち、
春が夏になって、夏が秋になって、秋は冬になりました。
私もずいぶん大きくなって、あなたの力を借りなくても楽しく過ごせるようになって、最初の数週間みたいに、あなただけをずっと待っていることも無くなりました。

あの当時、私にはどうしてとても重かったあなたへの秘密。
たった一つ持つだけで、お母さんについた嘘よりずっと私の心に重たかった、あなたへの秘密。
それも今ではたくさん増えて、なのに私の心には、ほんの綿毛ほどの重さももたらさずに、今も増え続けているのです。

あなたを待つ間に、私はすっかり大きくなりました。
あの時は口内炎をかすめるトマトより口を通るのが辛かった、あなたへの悪口も、今ではあまりに容易く口まで込み上げるので、堪えることに難儀するほどです。

それでも、私は、私はまだ、あなたを待っている気がします。
つい最近、ひどい風邪に悩まされながら悪夢を見た時も、私はつい、あなたに助けを求めてしまいました。

うそつきで、まだ帰ってきていなくて、きっと戻ってこない。
そう分かっていても、私は譫言で、あなたを呼んでしまった。

あなたが家から運び出される時、あなたはいつものように笑って私に手を振りました。
またね!
って。

あなたはまだ帰ってきません。
あなたの「また」はいつだったのでしょう。

うそつき、私は口の中であなたに呟きます。
今、ここは春です。
霞がかったぬるい空気が満ちています。

あなたの「また」はあるのでしょうか?
私はまだ、まだ、ほんのひとかけらだけ信じています。
あなたのまたね!を。

3/31/2025, 6:52:50 AM

桜舞う 春風とともに 小さな翼
 青空の中 悠々と舞う

3/30/2025, 3:39:37 AM

泣いている暇なんてない。
あの時の私には、それが全てだった。

いくら運命が卑劣であろうと。
いくら心が引き裂かれるくらい辛かろうと。
いくら体の節々が限界を迎えていようと。

やることは、やるべきことは、たくさんあった。
涙を流して時間と水分を浪費する暇などない。

涙を流す時間があったら、作戦を練れ。
部屋に篭って泣く暇があるなら、親を亡くしたあの子にかまってやれ。
嗚咽を堪える体力があるなら、少しでも状況を良くするために現実に向き合え。

それが、私が私に課してきたことだった。

組織に離反して、忘形見の人間ではないあの子を人間として、生きていけるようにしてやるためには、涙をこぼしている暇などないのだ。
アイツの弔いだとしても。

それは、前の仕事で、初めて現場に出た時に、上官に言われたことだった。

「仲間がいなくなったことを一々悲しむな。悲しんで泣いたその体力と時間で、いくつの問題を解決し、何人の仲間を救えると思っている。悲しんでいるうちにも現実は経つ。お前が涙を流す間にも新しい問題と困難が、仲間やお前のもとにやってきているのだ。涙を流すのは仕事が終わってからだ。悲しむのは終わってからだ。それまでは、時間と体力と水分をきっちり節約しろ。被害を最小にするために」

それは本当にその通りだった。
仕事場でも、平和な社会でも、家のことでさえ、日々状況は目まぐるしく変わっていく。
生きて、守るべき相手を守るためには、涙を流す暇すら惜しい。
だから私は、この数十年間、泣いていない。
涙は枯れ果てていたのだ。

「今日は休んでて!」
ある日、十数年一緒に暮らしてきて、赤ん坊からすっかり少女となったあの子は言った。
「今日は母の日なんだよ?1日くらい休んで!わたし、そろそろ家事をちゃんとやってみたいの!」
そう言って笑うあの子は、私を部屋に押し込められた。
「ちゃんと休んでなきゃ、ダメだよ!」
あの子はそう言ってドアを閉めた。

久しぶりに自分の部屋に落ち着いた。
静かだった。
リビングかキッチンで作業をしているのか、あの子の声は遠い。
他に人の声も、騒音も、エンジン音も、銃声も、何もない。

静かだ。
静かだった。

ずっと物置みたいに使っていた自分の部屋は、もので溢れていた。
まじまじと部屋を見渡せば、
もう読まなくなった絵本や教科書や、古くなったおもちゃや小さくなった服が、箱に詰められたり、まとめられたりして散乱しているのが目に入る。
窓からは、柔らかく日中の光が入ってきて、外にはありふれた町が見える。

埃が光の中を舞っている。

部屋の床に座り込んだ。
静かだ。
こんな時間は久しぶりだった。
あの子とアイツが施設にいた時は、一人で、こうやって過ごす時間もあったことをふっと思い出した。

部屋の机の上に目が止まった。
そこは自分の部屋の中で一番ものが置いてあった。
それぞれ封筒に入れられたぴらぴらとしたものが、幾つも重なり合って、丁寧に置かれていた。

何を置いていたのかは、すぐに思い当たった。
写真だ。
十数年前、内緒でアルバムを作ってプレゼントしてやるつもりで集めていた写真だ。
まだ一人で時間を潰す暇が多少はあったあの時に、なるだけたくさん現像した、あの写真たちだ。

吸い寄せられるように立ち上がった。
机の上には、何十枚もの写真用の封筒が、積み重なっていた。

手を伸ばした。
一番上に置いてあった一枚を手に取った。
封筒を開いた。

この中で一番古い写真だった。
アイツが、無事に産まれたばかりのあの子を抱いて、ぎこちなく微笑んでいるあの写真。

あの日の、あの写真だった。

目の奥が、熱を持った。
もう十数年見ていない、そしてもう直接見ることはない、アイツの、懐かしい笑顔だった。

頬を何かが滑って落ちた。
写真を支えていた親指に、ぽとりと何かの重みが降った。

もう数十年も流していなかった、涙の感覚だった。

自覚した途端、涙は止まらなくなった。
それまで、なんで溢さずにいられたのか分からないくらい、涙はスムーズに、ボロボロと、頬を伝い、次々に滑り落ちた。

机から離れて、ただ一枚の写真を眺めながら、私は泣いた。
込み上げてくる何かを、噛み締めて泣いた。
数十年ぶりに流す涙は、心地よくて重たい倦怠感を、身体中に巡らせた。

疲れも、倦怠感も、喪失感も許容して、私は泣いた。
遠くで、あの子が皿をひっくり返す音が聞こえた。

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