薄墨

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空に向かって手を伸ばす。
今日の空は、青い。ぐにゃぐにゃの寒天みたいな空だ。

空の上から伸ばした手は、ぐにゃりと吸い込まれるように空に沈む。
引き込まれるように、身を乗り出す。
青い空がぐにゃりと蠢く。

私の職場は、確かに硬さのあるこの空を飛ぶ船だ。
国から国へ、港から港へ、商品を運ぶ輸送船。
障害物のない空の上、船腹につけられたオールが、ぐにゃぐにゃの空を掻き回しながら前に進む。
そんな空船の船員を、私はしている。

私はこの空船のデッキから、空を覗きこむのが好きだ。
オールでかけるほど確かに形がありながら、いつもどんな時もあってないような慎ましさの空が、不思議で、好きだから。
船から見る空は本当に遠くて、吸い込まれそうなくらいに美しく、好きだ。
そして、空に手をつけるのももっと好きだ。
空は永遠に深く続いていて、底がしれない。
そんな不思議な感触を、手で味わうのが好きなのだ。

だから、今日の休憩時間にもここに来た。
そうして、吸い込まれそうな空に向かって手を伸ばす。
底は見えない。
地上も遥か遠くだ。
青い空が、手を沈めていく。

美しい、なんとなくひんやりとした空に手を浸していると、なんだか体も浸したくなる。
それをなけなしの理性と現実で留めて、私はいつも目を輝かせながら、果てしない空の底を覗き込む。

いつもは空に飛び込んで、身体中を空に浸そうなんて、思わない。
空の底は見たいけど。
空に身体を浸せば、重力で、空の底のずっと前にある地上に叩きつけられるだけだと分かっていたから。
だから、私はデッキの上で、せいぜい空に向かって手を伸ばす、くらいのことしかしてこなかった。

今日もそのつもりだった。
私は空に手を浸しながら、休憩明けのことを考えていた。

その時、船内に続く船デッキのドアが、勢いよく開いた。
雪崩れ込むように、一人の商品が、船デッキに走り込んできた。

商品は、体に垢と傷をこびりつけた、見窄らしいその全身に、怯えと焦りと恐怖の感情を貼り付けて、青ざめた。
私の顔を見て、デッキの手すりを見て、空を見た。

そして、彼は、飛んだ。
空に向かって。
両手を広げて。

青い、深い、果てしない空が、彼をあっという間に呑み込んだ。
空は、彼が飛び込んだその一瞬、その一部だけざわめかせて、彼を包み込んだ。

…あとは静かな、元の凪いだ空が残っていた。
青い、青い。

逼迫した何かが込み上げた。
切ない空への憧れが、無責任にも私の背を押した。

私は。
私は。

私は、空に向かって手を伸ばした。
空に向かって肩を伸ばした。
空に向かって身を乗り出した。
空に向かって足を踏み出した。
まずは上半身を、続いて腰を、続いて足を、爪先を。
空に向かって投げ出して、空に向かって乗り出した。

きっと、飛び込み姿勢は美しくとれたとおもう。
細く伸びた私の全身は、するん、と、ほとんど抵抗なく、空に落ちた。

恐ろしいほど早い落下の中で、全身は空に浸っていた。
全身が、風を切って空の深みへ、真っ逆さまに沈んでいく。

私は幸せだった。
身体は、ゆっくり、でも十分な速さで、私を空の底へ、底へと沈めていった。

4/2/2025, 10:57:08 PM