泣いている暇なんてない。
あの時の私には、それが全てだった。
いくら運命が卑劣であろうと。
いくら心が引き裂かれるくらい辛かろうと。
いくら体の節々が限界を迎えていようと。
やることは、やるべきことは、たくさんあった。
涙を流して時間と水分を浪費する暇などない。
涙を流す時間があったら、作戦を練れ。
部屋に篭って泣く暇があるなら、親を亡くしたあの子にかまってやれ。
嗚咽を堪える体力があるなら、少しでも状況を良くするために現実に向き合え。
それが、私が私に課してきたことだった。
組織に離反して、忘形見の人間ではないあの子を人間として、生きていけるようにしてやるためには、涙をこぼしている暇などないのだ。
アイツの弔いだとしても。
それは、前の仕事で、初めて現場に出た時に、上官に言われたことだった。
「仲間がいなくなったことを一々悲しむな。悲しんで泣いたその体力と時間で、いくつの問題を解決し、何人の仲間を救えると思っている。悲しんでいるうちにも現実は経つ。お前が涙を流す間にも新しい問題と困難が、仲間やお前のもとにやってきているのだ。涙を流すのは仕事が終わってからだ。悲しむのは終わってからだ。それまでは、時間と体力と水分をきっちり節約しろ。被害を最小にするために」
それは本当にその通りだった。
仕事場でも、平和な社会でも、家のことでさえ、日々状況は目まぐるしく変わっていく。
生きて、守るべき相手を守るためには、涙を流す暇すら惜しい。
だから私は、この数十年間、泣いていない。
涙は枯れ果てていたのだ。
「今日は休んでて!」
ある日、十数年一緒に暮らしてきて、赤ん坊からすっかり少女となったあの子は言った。
「今日は母の日なんだよ?1日くらい休んで!わたし、そろそろ家事をちゃんとやってみたいの!」
そう言って笑うあの子は、私を部屋に押し込められた。
「ちゃんと休んでなきゃ、ダメだよ!」
あの子はそう言ってドアを閉めた。
久しぶりに自分の部屋に落ち着いた。
静かだった。
リビングかキッチンで作業をしているのか、あの子の声は遠い。
他に人の声も、騒音も、エンジン音も、銃声も、何もない。
静かだ。
静かだった。
ずっと物置みたいに使っていた自分の部屋は、もので溢れていた。
まじまじと部屋を見渡せば、
もう読まなくなった絵本や教科書や、古くなったおもちゃや小さくなった服が、箱に詰められたり、まとめられたりして散乱しているのが目に入る。
窓からは、柔らかく日中の光が入ってきて、外にはありふれた町が見える。
埃が光の中を舞っている。
部屋の床に座り込んだ。
静かだ。
こんな時間は久しぶりだった。
あの子とアイツが施設にいた時は、一人で、こうやって過ごす時間もあったことをふっと思い出した。
部屋の机の上に目が止まった。
そこは自分の部屋の中で一番ものが置いてあった。
それぞれ封筒に入れられたぴらぴらとしたものが、幾つも重なり合って、丁寧に置かれていた。
何を置いていたのかは、すぐに思い当たった。
写真だ。
十数年前、内緒でアルバムを作ってプレゼントしてやるつもりで集めていた写真だ。
まだ一人で時間を潰す暇が多少はあったあの時に、なるだけたくさん現像した、あの写真たちだ。
吸い寄せられるように立ち上がった。
机の上には、何十枚もの写真用の封筒が、積み重なっていた。
手を伸ばした。
一番上に置いてあった一枚を手に取った。
封筒を開いた。
この中で一番古い写真だった。
アイツが、無事に産まれたばかりのあの子を抱いて、ぎこちなく微笑んでいるあの写真。
あの日の、あの写真だった。
目の奥が、熱を持った。
もう十数年見ていない、そしてもう直接見ることはない、アイツの、懐かしい笑顔だった。
頬を何かが滑って落ちた。
写真を支えていた親指に、ぽとりと何かの重みが降った。
もう数十年も流していなかった、涙の感覚だった。
自覚した途端、涙は止まらなくなった。
それまで、なんで溢さずにいられたのか分からないくらい、涙はスムーズに、ボロボロと、頬を伝い、次々に滑り落ちた。
机から離れて、ただ一枚の写真を眺めながら、私は泣いた。
込み上げてくる何かを、噛み締めて泣いた。
数十年ぶりに流す涙は、心地よくて重たい倦怠感を、身体中に巡らせた。
疲れも、倦怠感も、喪失感も許容して、私は泣いた。
遠くで、あの子が皿をひっくり返す音が聞こえた。
ティースプーンに収まるくらいの幸せを、紅茶に溶かして飲むのだ。
かき混ぜ終わったティースプーンを置いて、お茶を飲む。
相変わらず甘い。
私はストレートティーが好きなのだ。
だから、このハチミツ入りのハニーティーは甘すぎる。
だが、とても懐かしい、馴染み深い味でもある。
舌に纏わりつくこの、コクを持ったまろやかな甘み。
飲む寸前の鼻腔に入り込む、忌々しい花粉のような丸い香り。
確かに私は、文句を垂れながらも幾度となくこの紅茶を飲んでいるのだ。
アイツがいつも私に出してくる紅茶は、ハチミツ入りのハニーティーだった。
ハチミツを「日常の小さな幸せ」と勝手に呼んで、
「先生は、顔が怖い上に性格だって固すぎるんだから、飲むものくらいは優しく甘いものにしましょうよ!」
アイツはいつも小憎たらしい笑顔で、疲れた私に、蜂蜜をひとさじいれたハニーティーを差し出した。
勝ち気で明るい、大した口だけの弟子だった。
私に弟子入りの嘆願をしに来た時でさえ、小生意気で、自分のペースを決して崩そうとしなかった。
呪いの魔人と呼ばれ、人々に嫌厭され、距離を置かれるこの私にさえ、アイツは微塵も怯んで見せなかった。
「私を弟子に取りなさい!」と、むしろ偉そうで、誇らしそうで…
実際、生意気ながらも何事にも動じず、活動的なアイツは、私の誇りだった。
誇り、だったのだ。
隣国で魔法戦争が始まったのは、三ヶ月前だった。
無論、各地の魔法使いに、参戦要請が出た。
私は参加しない気でいた。
普段は呪いの魔人と勝手に恐れ、遠巻きにしているくせに、こんな時にだけ協力しろ、だなんて、ムシのいい話だ。
だから、私は無視をするつもりだった。
無論、弟子さえもそのようなくだらない戦争に渡す気はなかった。
しかし。
しかし、アイツは勝手に巻き込まれた。
そして勝手に、行ってしまった。
「…街の子と約束したんです。私たちがここを守るって」アイツは言った。
「それに、私が戦果を上げれば、周りからの先生を見る目も変わるでしょうし」
そう言って、アイツは出て行った。
魔法戦争に。
馬鹿者め。
アイツは、本当に考えなしで、馬鹿なやつだった。
アイツは騒がしくて、優しくて、分かりやすくて、賑やかで、いつも楽しそうで……
アイツが差し出すハニーティーは、甘ったるくて、香りが損なわれているくせに、何故か美味かった。
私は…正直に言えば、いつもそうやって、差し出されるハニーティーが楽しみだった。
アイツがティースプーンを掬って入れた「小さな幸せ」入りのあの紅茶は、私にとっての小さな幸せでもあったのだ。
しかし、アイツはもう、行ってしまった。
私は、アイツが今どんな顔をしているのか、笑えているのか、それすらを知らない。
だから、私は毎日、ちょうどアイツがお茶を入れていた時間に、ハニーティーを飲む。
ティースプーンに収まるくらいの小さな小さな、アイツが入れていた幸せを、紅茶に溶かして、まるで魔術か呪術に頼るように、飲み干す。
そうして、もう一度、あの幸せが戻ってくることを待っている。
あの、ティースプーンに収まるほどに小さい、小さな幸せを。
植物が、絡みつく。
ああ、僕もここまでか。
春が爆発したように、花が咲き乱れている。
街のあちらこちらに、爆発したように春の花が咲き誇っている。
崩れかけたビルには、太い蔦が絡まり、
人だったものには、細い蔓性の植物が纏わりついて養分を吸い尽くしている。
春爛漫の花々が咲き乱れている。
ただ、春爛漫の、花々だけが咲き乱れている。
人影も動物の姿もない。
ただ、植物だけが、この街では春を迎えている。
この街が、植物に侵略されて、一年が経つという。
僕は、そんな街に生まれた、最後の記録ロボットだった。
博士は、生まれたばかりの僕に言った。
「この、植物に滅ぼされゆく廃墟を、可能な限り最後まで写し続けてくれ」と。
博士は、廃墟が好きだった。
その博士も、今では葛に締め付けられ、菜の花の群団に覆われて、鮮やかな花を咲き誇っている。
僕が生まれたのは秋頃だった。
その頃は、人間や動物や建物を侵略し、絡みついた植物たちは、みなすずなりに実をつけて、鮮やかでシックな葉の色を誇っていた。
それが冬ごろに落ちて、その時のこの街の有り様は全く寂しいものだった。
華やかな飾りを脱いだ質素な植物たちの、骨と肋だけの枯れた胴体から、栄養をあらかた植物に吸われ、虚ろになった動物や人間や建物たちの骸がのぞいていた。
あの時の物悲しさといったらなかった。
ものも言わない、でも秋頃には隆盛を誇り、鮮やかに騒がしかった侵略者の植物たちすら沈黙していた、あの冬は、まさしく、死の街のようだった。
秋頃には、僕に蔓や蔦を伸ばして、取り込もうとしていたあの植物たちも、茶色や灰色の棒切れとなって、沈黙していた。
あまりに酷たらしく静かな冬に、あの日の僕は思った。
本当に植物たちは生きているのだろうか。
このままこの街は、植物すらいない、無言の死の街になってしまうのではないか。
しかし、それは杞憂だったようだ。
現に、暖かくなった春のこの日、植物たちはまるで爆発したかのように、黄緑の葉を伸ばし、鮮やかなパステルカラーで着飾って、華やかに春爛漫を体現している。
そして、僕の体や機構にも、新鮮で鮮やかな植物が、ゆっくり、ゆっくり、着実に、絡みついている。
街は春爛漫を迎えている。
春が爆発したように、花が咲き乱れている。
植物だけが、ほのかな春の木漏れ日を浴びて、春爛漫を謳歌している。
静かな、静かな春が、この街には満ちている。
そして、僕すらも取り込もうとしている。
春爛漫が満ちている。
くすぐったい異物感を伴って、植物が、僕の体に生えていく。
僕ももうすぐ、春爛漫になる。
春爛漫に取り込まれる。呑み込まれる。
春が爆発したように、春爛漫がただ、ただ、春風に、柔らかく、そよいでいる。
暗い、暗い、昏い、海の中。
光も音も届かない、深い海の中。
いつの間にか、深い海の中にいた。
昏い海の奥には、音も光もなくて。
ただ海水の感覚だけが、身体中に纏わりついている。
ごぽごぽ
沈黙の中で、口が泡をこぼした。
海水はみんな沈黙を保ったまま、私をゆっくりと揺すり、運んでいる。
暗い、昏い、海の中だ。
頭上を見上げても、光は見えない。
波間も見えない。
足元を見下げても、底は見えない。
砂や砂利や海藻すら見えない。
海かどうかすら、視界からは分からない。
潮の匂いと、水の動きだけが海っぽい。
本当に海なのかは検討の余地があるはず。
しかし確信だけがある。
ここは天然の海で、しかも深いところだという確信が。
そして、私を運ぶこの海の意思には逆らってはいけないという確信が。
だから私は漂い続けた。
突然、私の視覚は、眼球の水晶体のその端に、実に何時間ぶりかに、何か光を捉えた。
それは鮮やかだった。
それは激しかった。
それは強かった。
そしてそれは、波が海が私をゆっくりと押し出すたびに、どんどん近づいてきた。
それで私は、それが目的地だと思った。
それは七色の光だった。
光の刺さない深い深海の中で、冴え冴えと、ギラギラと、強く、揺るぎなく、七色に輝いていた。
煌々と、存在を知らしめるかのように。
あるいは、何かを誘うかのように。
海の意思ある流れの先で、七色が煌々と、七方に光を振り撒いていた。
近づくにつれ、胸騒ぎがした。
怖い、そう思った。
脳を恐怖心が覆い尽くした。
七色の光は、視覚から体内に入り込んできた。
胃をひっくり返し、肺を満たし、脳を解いた。
私の身体は今や必死に、七色の光を拒否し始めていた。
しかし、目を逸らすことはできなかった。
美しい、と私のどこかが、おそらく眼球が、そう告げていた。
私は目を見開いて、七色の光を受け入れた。
受け入れざるを得なかった。
恐怖と不安とざわめきの洪水の中で、私は七色の光を見つめ続けた。
七色の光は、私の体内を占領しつつあった。
海の意思は、七色の光にゆっくり、ゆっくり近づいていった。
光は近づくにつれ、強くなった。
光はどんどん大きくなって、視界を埋め尽くす。
胃が捩れ、のたうつ。
肺が埋まり、喉まで満ちる。
脳が散り散りに伸びきって、弾ける。
身体が沈む。
私が溺れる。
七色が私に光を、手を、伸ばす
七色の光が私を受け止める。
七色が視界を埋め尽くす。
埋め尽くす。
埋め尽くす。
埋め……
そこで、目が覚めた。
びっしょりと寝汗で濡れたシーツの中で、私は目を覚ました。
いつものように朝が来ていた。
小鳥が囀り、朝日が窓から差し込んで、掛け布団にやわらかな光を投げ出していた。
光を…
光を……
吐き気が込み上げた。
胃が捩れ、肺が埋まり、脳が解れはじめた。
目の奥に七色の、あの光が散った。
あの、夢の中の、海の中の、あの七色が。
私の網膜を、粘液を、体内を、全身を。
あの七色が内側から焼き炙る。
のたうち、這いまわりながら、私はカーテンを閉めた。
それからというもの、私はここに籠っている。
ありとあらゆる光が、私の視界から入り込み、七色に変わって私を焼く。
だから、私はもう光を見ることは叶わない。
したがって、お前を招き入れるわけにはいかないのだ。
帰れ。
あの夢を見る前に。
好奇心なんぞ捨ててしまえ。
ああ、あの七色が、七色の光が、今も私の眼球に居座っている。
あの深海の、海の意思が運ぶあの光が、私を、私を…攻め立て、害する。
あの七色が
あの七色の
あの、あの人智を超えたあの光の怪物が!
暗い、暗い、昏い、海の中。
光も音も届かない、深い海の中だ。
あの七色が、七色が、今も光っている。光っているのだ。
記憶
一日一日の膨大な日常と
たまにある特別な日のイベントを
いくつもいくつも繋ぎ合わせて
夢と現実の狭間で
あるいはアルコールや幻想や理想の中で
ロードされすり減った
セーブデータのパッチワークで
作られた私たちの今まで
Memory
Day by day's life
Special day's life
made our memory date
It's our memory
Dream manifestion's memory
Drunkenness's memory
It's our memory that
Repeat loading my memory