薄墨

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暗い、暗い、昏い、海の中。
光も音も届かない、深い海の中。

いつの間にか、深い海の中にいた。
昏い海の奥には、音も光もなくて。
ただ海水の感覚だけが、身体中に纏わりついている。

ごぽごぽ
沈黙の中で、口が泡をこぼした。
海水はみんな沈黙を保ったまま、私をゆっくりと揺すり、運んでいる。

暗い、昏い、海の中だ。
頭上を見上げても、光は見えない。
波間も見えない。

足元を見下げても、底は見えない。
砂や砂利や海藻すら見えない。

海かどうかすら、視界からは分からない。
潮の匂いと、水の動きだけが海っぽい。
本当に海なのかは検討の余地があるはず。
しかし確信だけがある。
ここは天然の海で、しかも深いところだという確信が。

そして、私を運ぶこの海の意思には逆らってはいけないという確信が。

だから私は漂い続けた。

突然、私の視覚は、眼球の水晶体のその端に、実に何時間ぶりかに、何か光を捉えた。

それは鮮やかだった。
それは激しかった。
それは強かった。

そしてそれは、波が海が私をゆっくりと押し出すたびに、どんどん近づいてきた。
それで私は、それが目的地だと思った。

それは七色の光だった。
光の刺さない深い深海の中で、冴え冴えと、ギラギラと、強く、揺るぎなく、七色に輝いていた。
煌々と、存在を知らしめるかのように。
あるいは、何かを誘うかのように。
海の意思ある流れの先で、七色が煌々と、七方に光を振り撒いていた。

近づくにつれ、胸騒ぎがした。
怖い、そう思った。
脳を恐怖心が覆い尽くした。
七色の光は、視覚から体内に入り込んできた。
胃をひっくり返し、肺を満たし、脳を解いた。
私の身体は今や必死に、七色の光を拒否し始めていた。

しかし、目を逸らすことはできなかった。
美しい、と私のどこかが、おそらく眼球が、そう告げていた。
私は目を見開いて、七色の光を受け入れた。
受け入れざるを得なかった。

恐怖と不安とざわめきの洪水の中で、私は七色の光を見つめ続けた。
七色の光は、私の体内を占領しつつあった。
海の意思は、七色の光にゆっくり、ゆっくり近づいていった。

光は近づくにつれ、強くなった。
光はどんどん大きくなって、視界を埋め尽くす。
胃が捩れ、のたうつ。
肺が埋まり、喉まで満ちる。
脳が散り散りに伸びきって、弾ける。
身体が沈む。
私が溺れる。
七色が私に光を、手を、伸ばす
七色の光が私を受け止める。
七色が視界を埋め尽くす。
埋め尽くす。
埋め尽くす。
埋め……

そこで、目が覚めた。
びっしょりと寝汗で濡れたシーツの中で、私は目を覚ました。
いつものように朝が来ていた。
小鳥が囀り、朝日が窓から差し込んで、掛け布団にやわらかな光を投げ出していた。
光を…
光を……

吐き気が込み上げた。
胃が捩れ、肺が埋まり、脳が解れはじめた。
目の奥に七色の、あの光が散った。
あの、夢の中の、海の中の、あの七色が。
私の網膜を、粘液を、体内を、全身を。
あの七色が内側から焼き炙る。

のたうち、這いまわりながら、私はカーテンを閉めた。

それからというもの、私はここに籠っている。
ありとあらゆる光が、私の視界から入り込み、七色に変わって私を焼く。
だから、私はもう光を見ることは叶わない。
したがって、お前を招き入れるわけにはいかないのだ。

帰れ。
あの夢を見る前に。
好奇心なんぞ捨ててしまえ。

ああ、あの七色が、七色の光が、今も私の眼球に居座っている。
あの深海の、海の意思が運ぶあの光が、私を、私を…攻め立て、害する。
あの七色が
あの七色の
あの、あの人智を超えたあの光の怪物が!

暗い、暗い、昏い、海の中。
光も音も届かない、深い海の中だ。
あの七色が、七色が、今も光っている。光っているのだ。

3/26/2025, 3:31:29 PM