薄墨

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3/23/2025, 10:47:02 PM

ため息をついて、メガネを磨く。
メガネのレンズの白い曇りが、あっという間に透明に晴れていく。

雲との境目が曖昧な今日の空を見上げる。
思わずため息が漏れる。
メガネが曇る。
もう一度、メガネを外して、曇りを拭き取る。

マスクが欠かせなくなって、何年が経つだろうか。
この季節まで来れば、それほど用心はいらないにしても、私の場合、外出する時にマスクは手放せない。

しかし、このマスクというのは曲者で、ため息や長い息は全部鼻の隙間から上へ飛ぶ。
結果として、メガネがすごい頻度で曇るのだ。

また、ため息をついてしまう。
メガネを拭く。

メガネの曇りは、手間だが拭けばすぐに消えてしまう。
だから、拭くたびに、私の中に曇りが生まれる。

私は、他の曇りが羨ましくてしかたない。
メガネの曇りは、ひとこすりすればあっという間に見えなくなる。
透明に晴れて、視界は良好。
どんなに、なんども曇っても、拭きさえすれば、メガネのレンズはまた、透明に戻る。

天気の曇りだってそうだ。
今はこうして、雲と溶け合って、どんよりと重たく垂れこめているが、日が変われば、雲はすっかりくっきりと分けられて、空は清々しい青になる。
曇りはあっけなくなくなる。

それが羨ましい。
人の曇りも、そうやって清々しく消えてはくれないものか。
人の曇り…たとえば、罪とか、恨みとか、前科とか。
あとは…どうしようもなく煩わしい人間とか。

おかげで私はマスクが手放せない。
私は曇りを拭き取ろうとしたのだ。
けれど、それは曇りを深めただけだった。
これだから人の曇りは嫌だ。

私は曇りを拭っただけだ。
あのどんよりとした雨雲みたいにいけすかない、アイツを拭き取ってから、私は多くの曇りから、追われることになった。
罪、罰、恨み、前科。
そんな面倒で、濃い曇りに。

私は曇りが嫌いだ。
だから、マスクが欠かせなくなった。
曇りから逃げ切りたいのだ。

私は、曇りが嫌いだ。
不快なのだ。
小さい頃からずっと、白黒つけずにどんよりふわふわと視界を妨げる、曇り。
特に何をするでもなく、ただ黙って邪魔な曇り。
不快で、嫌いだ。
逃げているのだ。私は。
曇りから。
今も、昔も。

ため息が漏れた。
メガネが白く曇る。
鬱陶しい。
外して、曇りを拭う。

空は、雲と境界も曖昧に、曇っている。
嫌な日だ。
辺りを見回す。
今日は、足早に帰路を辿ることにしよう。
曇りから、逃げるために。

3/23/2025, 6:06:45 AM

むかしむかし、あるところに
きつねとうさぎが、おやすみなさいをいいあうような
さみしい、しずかなもりのなかに
ふしぎな子じかがおりました。

子じかにはおやはいませんでした。
木々さえもねむる、ちいさなもりに
子じかはふっと、わいたのでした。

子じかのうまれはだれもしらないのでした。
ものしりのふくろうも、うわさずきのうぐいすも
もりの王者のおおかみたちも、もりぜんたいが家のハイイログマも
だいかぞくのハツカネズミの一家も、ほんにんの子じかでさえも。
子じかのうまれはだれも、しらないのでした。

子じかにはふしぎな力がありました。
日がしずみはじめて、夕日にもりが、ほのかなあかねいろにそまりはじめると、
子じかはなんだか、むしょうに走りたくなるのでした。

子じかは毎日毎日、日がしずみはじめると、もりのすみずみまで、何かさけびながら、走り回りました。
そして、きがすむまで走り回ると、そのときにはもう日はすっかりしずんで、深いむらさきいろの空に、散りばめられた星がきらめいているのでした。

子じかは知りませんでした。
走り回るとき、子じかの口は「bye-bye」とたえず、今日とのおわかれをさけんでいることを。
そうして、その言葉をはなつ子じかが走り去った場所から、夜がはじまっていること。
子じかのbye-byeがきこえたもりのどうぶつの子たちは、みんな安心して、ここちよいねむりにつくこと。

子じかのこえは、よるをよぶこと。
子じかの走り回るくせは、おわった一日への、わかれのあいさつなのです。

きつねとうさぎがおやすみなさいをいいあうような、ちいさな、さみしい、しずかなもりで、今日も子じかは「bye-bye」と、こえをあげながら、走っています。

ほら、こうして今、いい子でお話を聞いているあなたも、しずかに、耳をすましてごらんなさい。
目をつむって、枕にあたまをつけて。
ようくよく、耳をすましてごらんなさい。
きっとじきに、子じかのこえがきこえてきますよ。

そうしたら、もう今日とはお別れの時間。
おやすみをいう、時間です。
かしこいぼうやも、やさしいおじょうちゃんも、みんなで目をとじて。
今日にバイバイしましょうね。

3/22/2025, 5:38:21 AM

黒々とした大地の、あちらこちらに燐光が燻っている。
焦土が、どこまでもどこまでも広がっている。
素晴らしい威力だ。

地下から実に何年かぶりに出た地上は、記憶よりもずっと広く、ずっと拓けていた。
当たり前だ。
その地上の破壊こそが、我々の長年の悲願であったのだから。

「お気に召した?」
いつの間にか出てきていた君が隣で、ひっそりした笑顔を浮かべる。
「もちろん。異論なしだよ」
長年、聞くことすら出来なかった君の声を隣で聞ける。
そんな喜びを噛み締めながら、そのことをバレないように顔だけは平然を保ちながら、君に返答を返す。

今立っているこの土地が私たちの故郷だった頃、私と君は親友だった。
あの時、あの二十年以上も前のここは、平和で穏やかな日常を持っていた。
私は君と、粗末で暖かいいつもの服をまとって、どこまでも広がる、黄金の麦畑と長閑に草を食む家畜たちの牧地。
私たちのような子供は、レンガと木材でできた村の中を駆け回り、遊び、無邪気に笑い続けていた。

しかし、そう、二十年前だ。
二十年前、ここは破壊された。
侵略され、私たちは家屋から引っ張り出されて、土地を追われた。
丈夫な大人はみんな連れて行かれ、弱い大人はみんな、土の中に叩き落とされた。

親を失い、大人を失い、頼るものを失い、村も土地も家も何もかも失った私たちは、村を壊滅させた張本人たちによって、保護され、働かされた。

あの二十年前のあの夜。
君と見た景色は、ずっと焼き付いていた。
村が、見覚えのある景色が、略奪に来た彼らによって、憎むべき景色に変わっていく。
ささやかな幸せと、人間らしいささやかな不満と、貧しくても豊かな日常があったあの村が、一夜で、私たちにとって憎むべき景色になったあの景色を。
私と君は、一緒に見ていた。

あれから二十年。
私は、奴ら敵に連れられて来た場所で必死に働いた。
耐えた。
希望を、憎しみを忘れずに。
奴らを、そして、奴らが奪い、もう私たちのものではなくなったあの村を、荒れ果てた平地にすることを夢見ながら。

それから、仲間を集め、人を集め、資材を集め、地下に隠れ住んだ。
奴らに復讐するために。

君は施設から逃げ出した。
私は最初、君が裏切ったと思ったんだっけ。
しかし、それは違っていた。
君は逃げて武器商人になった。
君も、希望を、憎しみを覚えていた。
そして君は、奴らを滅ぼすための兵器や武器を揃えて、戻ってきた。

君と再会を果たした時、私たちを、いや、我々を繋いだのはあの景色だった。
二十年前に君と見た景色。
あの耐え難い、恐ろしい、憎しみのあの景色。

あれから二十年。準備は整った。
整ったのだ。
私たちは、我々はこれから、景色を変えるのだ。
今広がっている景色を、世界全土に広げるのだ。

私は、君と、今こうして景色を眺めている。
奪われた村がすっかり焼き尽くされて、黒い土と不気味なメラメラと燃える燐光と燻りを上げる灰のみに成り果てたこの、殺風景な景色を。
我々の望む景色を。

君と見た景色を吹き飛ばして残った、美しい残骸であるこの景色を。

「良い眺めだ」
私はほとんど意識せずに、そう呟いていた。
「いい眺め」
君も隣で頷いた。

私は忘れないだろう。この景色を。
君と見たこの景色を。
二十年前のあの景色と同様に。

黒々とした大地のあちこちに燐光が燻っている。
焦土が、どこまでもどこまでも広がっている。

3/20/2025, 3:42:26 PM

今回の任務は簡単だった。
倒れ伏し、ただ血を流しているターゲットを見下ろして、つくづくと思う。

あっけなく終わってしまった。
こんなはずではなかった。
今回のターゲットは、扇動上手で、多くの人間を味方につけ、陣営を勝利に導くカリスマ的戦士…今回、私が殺すよう命じられたのは、そういう、歯応えのある敵軍の、凄まじい戦士だったはずなのだ。

生かしておけば、我が軍の兵士を何人殺し、基地や拠点を何個落とすかもしれない、恐ろしい、油断ならない、戦士であったはずなのだ。
だから、確実に殺すために、私は敵軍に忍び込んだ。
そして、ターゲットの伝令兼部下として、この数ヶ月間、共に戦場を駆けていたのだ。

しかし、それがどうだ。
そのターゲットは、私の銃撃をまともに受け、赤い血を無様に流れるままにして、今まさに死に向かっている。
私の手の中で、ターゲットの手は、ぬくみと血色を失って、冷たく白んでいっている。

なんの抵抗もなく。
なんの疑いもなく。

ただ、彼女は彼女のまま、私を味方として温かく迎え入れたあの馴染み深い人当たりのいい彼女のまま、死のうとしている。

私が憎むべきターゲットとしてではなく。
私たちを脅かす驚異的な戦士としてではなく。

彼女は私に手を伸ばした。
私に撃たれる前に、彼女ははっきりと私に言ったのだ。
「手を繋いで」
そして、銃弾を撃ち放った私に手を伸ばしたのだ。
もうすぐ体温も、柔らかさも失うはずの、その手を。

思えば、彼女はいつも優しかった。
味方を穏やかな笑みで迎え、抱きしめ、ミスを抱えて半泣きになった部下を慰めて律し、罪悪感に苛まれる熟練兵を宥めて前を向かせ、人を殺して震える新兵を勇気づけ導いた。
敵国のスパイとして、ちょいちょいミスと装って、妨害を行った私にも、彼女は優しく、毅然と、丁寧に規律を説いた。

負傷兵には手を差し伸べた。
逃亡兵にはタバコを差し出した。
そして、
そして、目の前で死地に陥る部下を、可能な限り救おうとした。

数日前だ。
彼女は私を救った。
あの日、私は寝起きだった。
仮眠でよく眠れなかった。
そんな鼓膜に、自国の言葉が聞こえて、私は思わず弾幕の前に頭を上げかけた。

彼女は、そんな私を渾身の力で、引っ張り込んだ。
その後、怒鳴られた。
「気を抜くな」と。
「自分の命を、自分くらいは大切にしろ」と。
「私の目の前で死んでくれるな」と。
彼女は、私に向かって叱った。

あの時、彼女はまっすぐこちらを見ていた。
彼女の手は、強く、私の手を握っていた。

私はさっき、彼女を撃った。
それが、私に課された任務であり、義務だったから。
どれだけ親切で、どれだけ優しくて、どれだけ私を守ってくれて、私のことを考えてくれていたって、

彼女は私の国の敵で、私たちの脅威だったから。

彼女はよく、人の手を握っていた。
初陣に出る新兵の手を握り、精神が疲弊した老兵の手を握った。

私たちのひとかけらの人間性を、彼女は握りしめていた。
手を繋いで、その手のぬくもりの中に、彼女は私たちの人間性を、込めていた。

私は彼女を撃った。
その手のぬくもりこそが、私の国の、私の仲間たちの脅威だと悟ったから。

彼女は、そんな私にも手を伸ばした。

彼女が、ターゲットが、私の上官が死んでいく。
私と手を繋いで。
私の手の中で。
ぬくみを、血色を、柔らかさを、体温を、失っていく。

今回の任務は簡単だった。
簡単だったはずだ。
戦況をひっくり返すために、敵軍に間違った情報を蔓延させるよりも。
疑り深い敵軍の英雄的戦士を暗殺するよりも。
闇夜に紛れて、敵の暗号や機密情報を盗み出すよりも。
敵軍に捕まって、好奇と憎しみの目と拷問に晒された時よりも。

ずっと簡単で、楽な任務だった。
任務だったはずだ。

手を繋いで、ターゲットが死んでゆく。
この数ヶ月間、幾度となく触れたその手が消えていく。
変わっていく。
あと数秒もすれば、この手はただの物質に変わる。

気づけば、強く手を握っていた。
強く、手を繋いでいた。

このまま、バレてしまえばいいのに。
このまま、彼女の仲間に殺されて死んでしまえたらいいのに。

そんな考えが脳に走ったのは、初めてだった。

手を繋いで、死んでいく。
ターゲットと、私の決意が。

繋いだ私たちの手には、人間性も温かさも残っていなかった。

3/20/2025, 6:13:22 AM

いない。
どこにも。
どこに行ってしまったのだろう。

目の前の、鏡の中を覗き込む。
いない。
私も。人影一つない。
私はどこ?

鏡の中には、無人の部屋が並んでいる。
平然と並べられた家具。
白いタオル。
奥の壁のタイル。
机の上に乱雑に並べられた瓶と液体。
汚れたコップ。

しかし、そこに私の姿はない。
窓の奥にも。
鏡の奥にも。
私の姿はどこにも見えない。

一体私はどこ?
どこへ行ってしまったのだろうか?
鏡の奥には、生活感のある、見覚えのある部屋だけが広がっている。
私の背後にあるはずの窓も、鏡からくっきりと見える。
その奥にある無数のビル群も。
無機質な街並みも。
私の姿以外のものは、はっきり、くっきりとその存在を主張している。

しかし、私はいない。
私だけは、鏡から閉め出されてどこにもいない。

私はどこだろう。
私は今、どこにいるのだろう。
鏡の前に立っているはずの私は、どこ?
私は存在しているのだろうか。
私は、今鏡の前で身支度をしているはずの私は、
私はどこ?
どこに行ってしまったのだろう。

そもそもの私は、私は、どこ?
平凡な、ただのありふれた人間だと思っていた自分は、こうして、鏡に認められず、写らず、ただ呆然と立ち尽くしている。
立ち尽くしているのかも、自分では認識できない。

私はどこ?
どこへ行ってしまったのだろう。
私は何者なのだろう。

鏡を、鏡の奥に写る、鏡に有ると証明された、家具たちを見つめる。
見慣れた部屋に、私の姿だけが見当たらない。
私だけが写らない。

私は、どこ?
私の、絶望的なそんな質問を。
私の存在を。
ただ鏡は、静かに黙殺し続けている。

私は、どこ?
鏡は、私を写さない。
私がいないことが正しいと、公然と言い放つ。

私は…どこ?
私のそんな困惑に、答えてくれるもの、
そんな存在を、認めてくれるものは、この部屋の、どこにも存在しなかった。

私は……
残酷な沈黙だけが、場を支配している。
鏡は、静かな部屋だけを写し出し続けている。

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