薄墨

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今回の任務は簡単だった。
倒れ伏し、ただ血を流しているターゲットを見下ろして、つくづくと思う。

あっけなく終わってしまった。
こんなはずではなかった。
今回のターゲットは、扇動上手で、多くの人間を味方につけ、陣営を勝利に導くカリスマ的戦士…今回、私が殺すよう命じられたのは、そういう、歯応えのある敵軍の、凄まじい戦士だったはずなのだ。

生かしておけば、我が軍の兵士を何人殺し、基地や拠点を何個落とすかもしれない、恐ろしい、油断ならない、戦士であったはずなのだ。
だから、確実に殺すために、私は敵軍に忍び込んだ。
そして、ターゲットの伝令兼部下として、この数ヶ月間、共に戦場を駆けていたのだ。

しかし、それがどうだ。
そのターゲットは、私の銃撃をまともに受け、赤い血を無様に流れるままにして、今まさに死に向かっている。
私の手の中で、ターゲットの手は、ぬくみと血色を失って、冷たく白んでいっている。

なんの抵抗もなく。
なんの疑いもなく。

ただ、彼女は彼女のまま、私を味方として温かく迎え入れたあの馴染み深い人当たりのいい彼女のまま、死のうとしている。

私が憎むべきターゲットとしてではなく。
私たちを脅かす驚異的な戦士としてではなく。

彼女は私に手を伸ばした。
私に撃たれる前に、彼女ははっきりと私に言ったのだ。
「手を繋いで」
そして、銃弾を撃ち放った私に手を伸ばしたのだ。
もうすぐ体温も、柔らかさも失うはずの、その手を。

思えば、彼女はいつも優しかった。
味方を穏やかな笑みで迎え、抱きしめ、ミスを抱えて半泣きになった部下を慰めて律し、罪悪感に苛まれる熟練兵を宥めて前を向かせ、人を殺して震える新兵を勇気づけ導いた。
敵国のスパイとして、ちょいちょいミスと装って、妨害を行った私にも、彼女は優しく、毅然と、丁寧に規律を説いた。

負傷兵には手を差し伸べた。
逃亡兵にはタバコを差し出した。
そして、
そして、目の前で死地に陥る部下を、可能な限り救おうとした。

数日前だ。
彼女は私を救った。
あの日、私は寝起きだった。
仮眠でよく眠れなかった。
そんな鼓膜に、自国の言葉が聞こえて、私は思わず弾幕の前に頭を上げかけた。

彼女は、そんな私を渾身の力で、引っ張り込んだ。
その後、怒鳴られた。
「気を抜くな」と。
「自分の命を、自分くらいは大切にしろ」と。
「私の目の前で死んでくれるな」と。
彼女は、私に向かって叱った。

あの時、彼女はまっすぐこちらを見ていた。
彼女の手は、強く、私の手を握っていた。

私はさっき、彼女を撃った。
それが、私に課された任務であり、義務だったから。
どれだけ親切で、どれだけ優しくて、どれだけ私を守ってくれて、私のことを考えてくれていたって、

彼女は私の国の敵で、私たちの脅威だったから。

彼女はよく、人の手を握っていた。
初陣に出る新兵の手を握り、精神が疲弊した老兵の手を握った。

私たちのひとかけらの人間性を、彼女は握りしめていた。
手を繋いで、その手のぬくもりの中に、彼女は私たちの人間性を、込めていた。

私は彼女を撃った。
その手のぬくもりこそが、私の国の、私の仲間たちの脅威だと悟ったから。

彼女は、そんな私にも手を伸ばした。

彼女が、ターゲットが、私の上官が死んでいく。
私と手を繋いで。
私の手の中で。
ぬくみを、血色を、柔らかさを、体温を、失っていく。

今回の任務は簡単だった。
簡単だったはずだ。
戦況をひっくり返すために、敵軍に間違った情報を蔓延させるよりも。
疑り深い敵軍の英雄的戦士を暗殺するよりも。
闇夜に紛れて、敵の暗号や機密情報を盗み出すよりも。
敵軍に捕まって、好奇と憎しみの目と拷問に晒された時よりも。

ずっと簡単で、楽な任務だった。
任務だったはずだ。

手を繋いで、ターゲットが死んでゆく。
この数ヶ月間、幾度となく触れたその手が消えていく。
変わっていく。
あと数秒もすれば、この手はただの物質に変わる。

気づけば、強く手を握っていた。
強く、手を繋いでいた。

このまま、バレてしまえばいいのに。
このまま、彼女の仲間に殺されて死んでしまえたらいいのに。

そんな考えが脳に走ったのは、初めてだった。

手を繋いで、死んでいく。
ターゲットと、私の決意が。

繋いだ私たちの手には、人間性も温かさも残っていなかった。

3/20/2025, 3:42:26 PM