監視カメラと目が合う。
ミネラルウォーターのペットボトルに手をかけて、キャップを捻る。
監視カメラは曇りない、透明な黒い瞳で、じぃっとこっちを見ている。
ペットボトルの中の透明な液体がたぽり、と揺れる。
ぷちり。
細く小さな音が、キャップとペットボトルのつながりが千切れたことを知らせる。
監視カメラの正面で、透明な水を喉に押し込む。
透明な水は喉に引っかかることもなく、ただ無難にするすると喉から胃へ落ちていく。
ごきゅっ。
喉が音を立てる。
私は人間だ。
生きている人間なのだ。
監視カメラの無機質に透明な目に、そう伝えるために、私は、カメラを睨みつけたまま、水を飲む。
透明なミネラルウォーターを、喉に流し込む。
機械が人を統治し、管理するようになって、もう随分と経つ。
…少なくとも、私が生まれた時には、もう人類の指導者は、機械だった。
彼らはあらゆる点で人間を凌駕していた。
人間より遥かに賢く、合理的で、公平で、正しかった。
彼らは人間を学び、定義付け、効率的に、幸せに、人を統治した。
そう、効率的に。
人類区分法が制定されたのは、最近のことだった。
人類を効率的に統制するために考えだされた法案だった。
機械曰く、現在の人類の統治は非常に非効率で難しいらしい。
個体差と思考の差、知能の差、育ちの差…。
人類には、個体差が高く、それによって起こす行動パターンも無数にある。
従って、増え続ける多様な人類の個体や団体の動きを全て予測し、統制することは、非常に重たく困難だ。
そこで機械に搭載された知能は考えた。
人類がその多様性によって統治しずらいのなら、人類の多様化を制限し、統治しやすい人類を次世代に繋げていけば良い。
そこで成立したのが、「人類区分法」
人類史のデータから統計上、もっとも人類らしい「普遍的」な人類だけを選定し、その個体同士のみを交配させることで、人類を普遍で管理しやすい群れに変えるという政策だ。
こうして、人類は区分された。
生殖を許された「普遍的人類」である、「人間」と、
隔離され、絶滅を運命付けられた「極的人類」である、「ヒト」に。
私は、ヒト、だった。
私は、進んで面倒ごとをやりたがった。
怒ることや腹を立てることはあまりなかった。
楽なことや楽しいことよりも、夢中で苦労することの方が好きだった。
誰かのために本気で身を滅ぼしたかった。
大勢のために命を投げ出したい、というのが、ごく小さい頃からの夢だった。
そんな私は、普遍的でも平均的でもなかったらしい。
善良スギマス、機械は言った。
アナタハ特異ダ、透明スギル。アナタハ「ヒト」デス。
市民対応型機が告げたその言葉が、今でも鼓膜の奥に焼きついている。
私は今、ヒト管理区で、こうして監視をつけられた指定地区で暮らしている。
しかし、私は自分を人間だと思っている。
機械がどう判断しようと。
他の人がどう思おうと。
こんな透明な私も人間だ。
水が水色だけではないように。
私は、そう思っている。
だから、今日も、監視カメラの前で水を飲む。
透明なミネラルウォーターを。
機械の前で。
機械の奥の人間の前で。
監視カメラは透明な黒々とした瞳で、じぃっとこちらを見ている。
私はペットボトルを傾ける。
透明な水が喉を落ちていく。
ごきゅっ。
喉が鳴る。
終わり、また始まる
朝露の中、自転車をこぐ。
いつものように
大通りを移送車が横切る。
ある日はブタの。
ある日は自衛隊の。
朝靄の中、目的地へ歩く。
いつものように
道端に目が留まる。
掘り起こされた土が。
じっと目を閉じた何かの死骸が。
朝晴れの中、ふらりと散策する。
いつものように
既に眠った繁華街にさしかかる。
乾いた吐瀉物。
打ち捨てられた紙屑ら。
終わり、また始まる、
私たちの気付かぬところで。
私たちが知ろうとしないところで。
終わり、また始まる
いつも、何かが。
The end and The begin
I pedalling bicycle
in morning like any other
Car pass by me
This was livestock carrier
This was soldier carrier
I walk to one's destination
in morning like any other
I look
soil like wild boar digging
corpse will never open eyes
I go for a stroll
in morning like any other
Sleepying drinking district unattended
old vomit
scrap paper
Those end and begin again
when we don't realize them
where we don't watch it
The end and begin again
everytime
someone
カノープス。
水平線スレスレで遠くを泳いでいるあの星は、カノープスと言う。
嵐の前触れとばかりに、さざなみを立てるあの水平線の上で、冷ややかに白く光る、あの星は。
私は砂浜からそれを見た。
明るいカノープスはただ一星、ぽつりと輝いて、海の上に見えた。
あの星は、父さんの船が沈んだあの一夜にも出ていた。
水平線の上を、ぽつりと光っていた。
あの星は、兄さんが恋人を連れて、この町から出て行った夜にも出ていた。
水平線の上に、白く光っていた。
あの星は、母さんがここから逃げ出したいと言って、一人で船に乗り込んでしまったあの夜にも出ていた。
波立つ水平線の奥に、くっきりと光っていた。
カノープス。
その名前を知ったのは、スマホを手に入れてからだ。
それまで、あの星にこんな洒落た名前がつけられているなんて知らなかった。
あの星は、大抵いつも、「めらぼし」とか、「なまけ星」とか、「凶星」とか、「呼び星」とか、そんないろいろな名前で呼ばれていたから。
婆ちゃんは言った。
うちん人たちはみんなあのめらぼしに呼ばれてち、行ってしまうんよ
うちん人たちはぁね、昔からずっと…
けんど、残されたち、わたしらぁは困るよぉね
そう言っていつも婆ちゃんは、目尻の皺を下げて、優しく、哀しく、困ったように笑った。
そういう笑顔を苦笑と呼ぶのだというのも、スマホを持ってから知った。
本当のところ、私はこの町から出たかった。
スマホの中から知る外の世界には、この町にない色々な物があって、自由があって、世界が広がっていた。
私は、あの星の向こうに行きたいと、いつからか、強く思うようになっていた。
そうして、そんな思いを反芻するその度に、婆ちゃんの、困ったような、悲しんでいるような、あの苦笑がチラついた。
うちん人たちはみんなあのめらぼしに呼ばれてち、行ってしまうんよ
婆ちゃんの、あの声が染み付いている。
外の空気を吸いたくて、ふらふらと浜辺に来た。
すると、あの星が水平線に見つかった。
白くて一つきりのあの星、カノープス。
めらぼしは、今日も輝いている。
ずっと遠くで。
本当に、叶ってしまった。
それだけで、その願いはもう、自分のものではないような気がした。
「願いが1つ叶うならば」
かつてはそんな問いを一笑に付した。
だってそうだろう。
悲願は自分で叶えるから初めて悲願となる。
何の努力もせずに叶って、あっさり手に入れられた願いに愛着なんて湧かない。
誰か別人に叶えられた自分の願いなんて保たない、大切にできない。
あぶく銭と同じように、儚く、浅い。
だから、「願いが1つ叶うならば」なんて問いに答えようなんて本気で思ったことがなかったんだ。
あの日までは。
あの日、私は見つけたのだ。
打ち捨てられた魔法のステッキを。
何故だか、一目見た時にそれが魔法のステッキだと分かった。
これは願いを叶えてくれるステッキだと、確信した。
つい、好奇心と誘惑が頭をもたげたのだ。
私はステッキを拾い上げて願った。
「もし願いが1つ叶うならば」そんな問いを冷笑しながら、心の裡でずっと温めていた願いを。
まもなく、その願いは叶った。
急にというわけでもなく、まるで自然に、初めからそうなるはずだったというように。
当たり前だ。
あれは一朝一夕の願いではなかった。
私はその願いを叶えるために、いろいろ考えて、動いてきたのだから。
だから。
だから、願いが叶ってしまった時、それが自分の努力によるものなのか、魔法のステッキの結果なのか、分からなくなってしまった。
私の今までの、人生の願いは、呆気なく叶ってしまった。
今までの努力も、思考もなかったみたいに。
魔法のステッキを振ったせいで。
願いが1つ叶うならば、なんて思ったせいで。
私の願いは叶ってしまった。
一つのちょっとした落とし物で。
願いは、叶ってしまったのだ。
その地に足を運ぶのは、いつも億劫だ。
蝉が五月蝿く鳴いている。
蜃気楼のような蒸した煩わしい空気が、体に纏わりつく。
他に人の気は無い。
先生の墳墓へ御参りする時分は、何時も斯様だ。
榊と駅前の饅頭を抱えて、敷石を踏み締める。
水を汲んだ薬缶が手首に重い。
旧盆の燃えるが如き日に灼かれながら、一歩を進む。
じっとりとした空気を、無数の蝉が裂いている。
先生の田舎は西の方であった。
だから、御墓参りも、此方で主流な新盆ではなく、炎天下に灼けつく様な旧暦のこの時期となるのだった。
これは非常に先生らしかった。
天土を全て灼かん盛りに空気は蒸し暑く、しかし人のおらぬ蝉の声だけが木霊すこの時期は、私の知る限りの先生の生き様の如く、凄惨で埒外で蕪雑で、相応しいと思う。
だからこそ、この謂い知れぬ彼の地、この時期の不穏な不快にも、如何にか逃げずに迎えるのである。
この地に漂い、「嗚呼」と呻く不穏の霊も、霊鬼や墓標の纏う不和の気も。
命の恩師たる先生の人生と苦悩の一部となればこそ、私は毎年、この参道を参って、如何にか先生に一年に一度の御挨拶申し上げ、恩をお返しすることが出来るのである。
先生は私を救ってくだされた。
精神の意でも、身体の意でも。
生れ付き、見えぬものに怯え、転んで擦った傷口の血さえ固まらぬ忌子の如き私を、先生は治療し、扶け、話してくださった。
先生は私に遭ったその日から、生涯を、私の延命に捧げてくださった。
先生の偉大な御力を以ってしても、私の血が固まることは無かった。
しかし、私が今もこうして生き永らえて居るのは、紛れもなく先生のお陰であった。
私の人生に於いて、先生は正に功徳と慈愛に満ちた、情け深き善人にて、恩師足り得た。
しかし、他の者をして、そうとは言わしめられぬ。
先生が亡くなって、私は初めて自らの無知を知った。
私は知らなかった。
私の病状を識る為、先生が手づから、多くの私と同遇の孤児を検べにかけたこと。
血液凝固剤を作る為、多くの死を間近にした人から血を抜いたこと。
先生は、私と出逢う二日前に、幼い我が子を亡くされ、失意の中、横暴にも妻に責任を負わせ離縁し、それから幼児を見る度に、攫い騒ぎを起こしていたこと。
私の生は、先生の無数の罪にて重ねらるものであったこと。
私は先生が亡くなられてから知った。
先生の遺産と功績に纏わりつく、「嗚呼」とのさばる先生の縁者様から。
死した先生を遠巻きに、「嗚呼」としたり顔で頷く、看護の者や病院の者の言によって。
先生の遺体と骨と墓に纏わりつく、「嗚呼」と呻く霊たちによって。
私にも先生にも、はっきりと聞こえて居るのだ。
「嗚呼」先生や私の利無きに失望し、恨む者たちの嘆息。
「嗚呼」惨状を見物する者たちの嘆息。
「嗚呼」私や先生に無念を背負わされ、苦しむ者たちの嘆息。
この時期に、先生の墓を御参りする時は、何時もそうだ。
「嗚呼」「嗚呼」「嗚呼」
無数の「嗚呼」を背負い、咎に追われつ、私は先生にお逢いす。
空気は冴えぬ。
どんよりとした蒸し暑い空気と罪とが、私と先生とを包む。
蝉が鳴いている。
五月蝿く鳴いている。
蝉の声だけが、粘性を持つ蒸し暑い空気を裂く。
私は今日、先生に御参りする。
霊鬼も蝉もないている。