薄墨

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2/22/2025, 7:07:58 AM

受話器越しに呟いた言葉は、私の口からこぼれ落ちるなり、踵を返して夜空を駆けていく。
墨汁で塗りつぶしたように真っ暗な夜空を、一体、今夜は幾つの言葉が駆けているのだろう。

終電の走っていない静かな夜だから、どの電話口では留守電の電子メッセージだけが響きわたっているだろう。
墨汁を塗りたくったような暗闇の夜空を見上げる。
受話器の向こうでは、相変わらず音信不通の電子音が鳴り続いている。

電話先の相手…アイツと、お互いに生き別れることを決めたのはもう五年も前のことだった。
喧嘩をしたわけでもない。
嫌いになったわけでもない。
ただ、お互いにとって、別々に生きていく方が都合が良かっただけなのだ。

だから、お互いに、お互いを自分の人生から切り捨てることにした。
自分のために。
自分の信ずるもののために。

アイツは、ずっと弱くて、優しくて、融通の効かない頑なな真面目さで、でもずっと粘り強くて、正しかった。
夜空を駆けるアイツの姿は、強くて、綺麗で、いつも私の心を支えてくれた。

アイツは、私を勇気づけてくれる頼もしい味方で、誰よりも気心の知れた大切な親友で、そして私の気を引き締めてくれる強いライバルだった。

アイツが大好きだった。

しかし、私の正しさは、昼の日光の中でこそ輝くものだった。
私の属する組織は、そのことを誇りとしていたし、私もそこを尊敬し、誇りとしていた。

闇夜に紛れて暗躍し、夜空を駆けることで成果を上げ続ける、アイツとアイツの組織と、私の組織は、目指すものは同じでも、その理念はかけ離れていた。

だからこそ、私とアイツは恋人でも仲間でもなかった。
私はアイツを「あなた」とも「貴方」とも呼べなかった。
私たちはいつまでも、ライバルで友人で、私たちはお互いに、永遠にアイツを「アイツ」と呼び続けなければならなかった。

だから、私たちの組織の関係性が徹底的に決裂したあの事件も抗戦も、いつかは起こり得る出来事だった。
いつか起こり得る、私たちが目を逸らしてきた出来事が、ただ、ちょっと早く起こっただけのことだった。

あの夜。
五年前のあの日、それが妥当で正しい、と最初から分かっていたから、私たちは口論になるほど、冷静に、烈しく相談しあった。
半日を潰した話し合いが終わるころには、日はすっかり沈んでいた。

あの夜。
最後にアイツは静かに出て行った。
相互で納得した、妥当な結果のはずだったのに、アイツのいないあの家は、想像以上に広くて、冷たかった。

それでも。
こんなに暗い夜には、真っ暗な夜空の日には。
どうしてもアイツのことが脳を掠める。
アイツに支えられていた事実が、アイツの一挙手一投足が、アイツの言葉が、夜を駆けるアイツの後ろ姿が。
そして、それにどれだけ私が助けられていたのか、それを思い知る。

もう私たちはお互いに連絡を取り合うことはないはずなのに。
アイツはとっくに電話番号を変えているはずで、私も携帯を変えたのに。
こんな、墨汁をぶちまけたみたいな夜空の日には決まって、私は、アイツに通じないはずの電話を恐る恐るかける。

真っ黒な夜空に、アイツに向かっての言葉を放ちたくなって。
私の指は、アイツの電話番号を呼び出す。

そして、我ながらどうしようもないくらいの弱々しい、呟きのような一言を、アイツに向かって夜空に放つ。
私の言葉は、電話線に導かれて、脇目も振らずに真っ直ぐに、真っ暗な夜空を駆ける。
仕事に出かけるかつてのアイツのように。

それを私は黙って眺める。
夜空を駆ける、弱い私。
自分から切り離したはずなのに、まだアイツを求めてしまう私の弱さが、夜空を駆ける。アイツを求めて。

頬を涙が伝う。

弱い私の呟きは、誰もいない受話器に向かって、夜空を駆ける。

2/20/2025, 11:05:54 PM

しのぶれど 色にでにけり 我が恋は

あなたと初めて話したのは、忘れもしません、あなたのもとに参内したあの日。
几帳越しにちらりと移る、すらりと淡い、氷魚のような美しい指に、すっかり見惚れてしまいました。

それから、私はあなたの声を、お姿を直接拝見できる、女官という自分の身分に初めて感謝したのでした。

優しく、誰にでも平等で、箱入り娘らしく世間知らずで無邪気なあなた。
世間知らずだけども、貴族の社会には非常に詳しく、油断ならない様子で、時に冷酷に懸命に世を渡ろうとしていたあなた。
家の行末を思い、お館様と奥様を心底尊敬なさっていたあなた。
あなたは琴と嘘を見抜くのが、素晴らしくお上手でした。

私はあなたをお慕いしておりました。
初めて打ち明けます、ひそかな想いにございます。
しかし、私の惚れたという主観を除きましても、あなたはまさしく、この華やかで儚い、都の理想の姫様でした。
皆、あなたが素晴らしい女性だということを、よく知っておりました。

だから、あなたが都から落ち延びねばならないと言われた時、私は迷わず、あなたのフリをして殺される役目に差し出がましくも、志願致しました。
誰よりも素晴らしいあなたをお救いするためなら、命も惜しくはない
そう思いましたので。

初めて袖を通す、あなたの衣服のその重たさに、ぼんやりと感嘆を覚えながら、私はあなたの身代わりとなりました。

あなたが男服に身を包んで、馬に乗って館を出立なさったすぐ後。
御簾を切り裂いて現れたのは、お館様があなたのお輿入れを相談なさっていた、あの分家に仕える者でした。
きっと今をときめく、あの家に唆されたのでしょう。
当時は、帝に入れ込んだあの家が、白といえば黒いものも白になるご時世でありましたから。
その家に圧力をかけられての裏切りであるということは、私にもわかりました。
あなた様の教育のおかげにございますね。

私は、問答も最期の挨拶も聞かぬ、無礼なその追手にかかり、胴と首とを切り離されながら、その追手のお顔をしかと見ました。
あなたの仇を、せめて最期まで憶えていようと、そういう、心持ちにございました。

しかし、何という不運か。
鬼のように斬りかかりながら、しかし、その若者の端正な顔立ちは、なんとも美しく、艶やかでありました。

心を奪われました。
その鬼のような冷酷さと、子供のように無邪気ですっきりとした表情に
…恐れながら、私は、あなたを見たのでございます。

私が絶命して、ばったりと倒れますと、その美しいお人は仰いました。
「この者を、その桜の木の下に埋めてしまえ。誰のお目にもかけるな」

私は、あなたの庭の桜の下に埋められました。
そして、その身は余す所なく桜に吸い上げられ、やがて木の体内を巡りながら花を咲かせ、恐れながらも宮中を見下ろせるようになりました。

私は、私を殺したあの追手が、あなたの縁者であることを知りました。
あなたがここに上がるため、あなたの家が参内するために貶めた、あなたの親族の長子であったということを、知りました。

私は、口のきけなくなった今では、ひそかな想いだけを頼りに、桜の中で生きております。
あなたに、あなたを殺した追手に憶えた、あの烈しく、温かなあの想いを、私は百年の間、ずっとそれだけを抱えて、生きていたのです。

だから。
だから、あなた様がここをお通りした時、
あなた様が…あなた様の魂が再びこの世で、あの追手であったあの人の魂を持ったあの子の手を引いてここに現れた時、
そして、お二人揃って、私の枝振りをお褒めになられた時、
私は動揺のあまり、ひそかに抱いていた想いを隠せませんでした。

そういうわけで、今宵の桜は、急に色付いたのでございます。

しのぶれど 色にでにけり 我が恋は

やはり、あなたに隠し事などできませんね。

2/19/2025, 10:56:00 PM

じっ、と目の中を見つめながら、聞く。
「あなたは誰」

こちらをじっ、と見つめていた目の前の顔の口が動く。
「あなたは誰」
見慣れたはずの、でも記憶を掠めることのない顔が、今も目の前でまばたきをする。

洗面台で毎朝、顔を合わせる上半身だけの顔に、そう問いかけ始めてもう一年が経つ。
気狂いになりたかったわけじゃない。
ただ、本当に、鏡に映るこの顔が、誰のものなのかを知りたいだけ。

正当防衛で、人を殺したあの日からは、もう二年だ。
血と汗に塗れて呆然と座り込んだ私の目前で、私が必死で殴りつけ、ただの物体と化した男を、警察が運び出していった。

しどろもどろに煩雑と話す私の代わりに、状況証拠と第三者の証言が、正当防衛を証明した。
事前の計画通りだった。

騒ぎたいだけか、それとも何かに気付いたのか、事件から一拍置いて、たくさんの報道が出た。
世間の俎上に載せられた実名写真付きの報道は、自分のものとはとても思えなかった。

弁護士、警察と検察、裁判所さえ、宥めるように、勇気づけるように私に「あなたの件は正当防衛です」と言い、やたらと世話を焼いた。
私が壊れてしまうことを、公的機関は必要以上に恐れた。
友達や家族や私の縁者は、報道に憤り、何かと私を心配した。
事情を知る者たちは、みんな私の正当防衛を信じて疑わず、乱暴な報道や世論で私が傷つくのを、怖くなるくらいに恐れた。
私を心配した。

しかし、私はそんな世間の動きには、清々しいほど何も感じなかった。
ただ、ぼんやりと連日積み重なる、私についてのニュースを眺めた。

そのうちに心の裡で、ある疑問がふっと湧いた。
私の名で、こうして新聞やニュースに出ている、この顔はいったい誰なのだろう。
テレビに、私の名義で映し出された顔写真を見て、そう思った。

今まで気づいていなかったのだが。
その翌日に、顔を洗いに洗面台へ行って、私は発見した。
私が鏡の前に立つと、鏡にテレビに出ていた誰のものか分からない顔が写し出されるということに。

なるほど、そうだったのか。
なんてことはない。メディアがこぞってこの顔と私の名前を結びつけたのは、私にこの顔が付き纏っているからだったのだ。
私がいればこの顔が写し出されるからだったのだ。
私は納得して、そして聞いた。

顔写真と名前の謎は解けたが、私にずっと付き纏っているはずのその顔の素性には、私は覚えがなかったから。
真っ直ぐに顔を見据えて、私は聞いた。
「あなたは誰」と。

しかし、その顔は私を真っ直ぐに見つめ返して、ただ口を動かした。
「あなたは誰」

それから私は毎日、その顔に素性を問うている。
しかし、顔は毎日、口の動きだけで、私と同じように私の素性を問うだけ。
「あなたは誰」

ひょっとするとあの顔は、気が狂っているのかもしれない。
ちょっと不安になる。

けれどもいつも、あの顔を前にすると、そんな不安より好奇心が勝つ。
だから、私は今日も聞く。
あの顔を真っ直ぐに見据えて。

「あなたは誰」

2/18/2025, 1:11:11 PM

親展 親愛なるあなたへ

 手紙の行方
 
  南から強い風が吹いた
  春一番だ
  誰かが言った
  風からの便りだ
  誰かが言った

  浜辺に打ち上がったプラスチック
  人類への警鐘だ
  誰かが言った
  海からの便りだ
  誰かが言った

  ぼくはあの子へ手紙を書いた
  ラブレターだ
  誰かが言った
  恋人からの手紙だ
  誰かが言った

  でも
  南風は本当に春を知らせたかったのだろうか
  海を漂うプラスチックは本当に人間宛なのだろうか

  きっと
  手紙の意図は誰も分からない
  書いた当事者にも
  読んだ当事者にも

  手紙の行方は誰も知らない
  届けた当事者も
  送り出した当事者も
  受け取った当事者も

  ぼくはあなたへ手紙を書いた
  でも本当は誰への手紙か
  この手紙はどこへ行くのか

  それは誰にも分からない

Dear you

 Lost letter
  Very south wind
  Said someone
  "Came spring!"
  Said someone
  "It's letter from wind!"

  Plastic washed up on the beach
  Said someone
  "A warning to human!"
  Said someone
  "It's letter from sea!"

  I wrote letter to her
  Said someone
  "It's love letter!"
  Said someone
  "It's letter from lover!'

  But
  I wonder if it's ture?
  That south wind announce spring
  That plastic to was sent to human

  No one known
  That true purpose of the letter
  Too witer
  Too reader

  No one known
  That true destination
  Too deliveryman
  Too sender
  Too receiver

  I wrote letter for you

  But,I don't know
  who is my letter to
  where will my letter end up

2/17/2025, 11:10:14 PM

眩しい。
眩しい眩しい眩しい眩しい!

あなたが私に手を差し伸べている。
今朝の夢だ。夢。分かっている。
でも、現実でも何度もあったことだ。

そうだった。
いつも…あなたが現実にいた過去も、夢の中の今でさえも、私はあなたのその姿に、感謝もせず、ひたすらその輝きの眩しさに発作を起こして、ただただそんなことを心の中で呟いていた。

目を眇めて見つめるしかなかった。
強い、強い、輝き。
忌まわしい、輝き。
憧れ。

それだけ…記憶の中で、目の前で、いつも格好良くて、頼もしくて、だから、まともに直視できずに、斜に構えて眺めるしかなかった。

屈託のない笑顔で、当然のように人に手を伸ばし、誰よりも人気者で優しいくせに、ひたすらに不甲斐ない、誰からも相手にされないような私のピンチにも、必ず駆けつける。
見返りを求めないみたいな顔で、いつも優しく、私に声をかける。

差を見せつけられたみたいで、必死に突っぱねる弱者にも何食わぬ顔で、スラリと形の良い手を差し伸ばす。
だからといって、私の僻みと苛立ちを分かったかのように、威張ってみせ、まるで恨まれることも織り込み済みのように、同じ土俵に降りてくる。
私の心の中を見通したように。
本当は助けられたがっていることを、分かってるかのように。

助けられた方は、それに気づいて、尚も手を伸ばせるあなたの余裕と大人な様子が、憎くて、憎くて、でも、有り難くて、だから、眩しさに目を細めるしかない。
それがどんなに屈辱的で、見たくなくても、私たちも光がなくては生きていけないから。

同期の中で、私を疎まずに話しかけてくれる、唯一の人だった。
努力も人への気配りも意欲さえない私に、最期まで期待してくれた人だった。
私のどうしようもない失敗も、根本的な問題も、一緒に向き合い、解決しようとする人だった。
弱みや欠点なんて一つも見つからない、隙のない人だった。

だから、誰にも気づかれなかった。

どこかで聞いたことがあった。
「光が強いほど、影も濃い」
「本当に助けが必要な人は、助けたいと思う姿をしていない」
ネットで見たその言葉を、私は自分の都合の良いように自分に言い聞かせるためにしか使って来なかった。
でも、その意味をようやく理解したのだ。

あなたが、頽れるようにして、私の前から去ってから。
この会社に出すための辞表を抱えたまま、電車に飛び込んでから。

私はあなたの何も知らなかった。
あなたの自宅も、出身も。
その生い立ちも、抱えたものも、苦しさも。
あなたにあんなに甘えて、あんなに突っかかって、あんなに論ったのに。

本当に助けが必要なのは、誰だったのだろう。
今日も、忙しい業務の中で、私は思う。

そして、輝きを直視できなかった、自分の目を恨み、強すぎる輝きだったあなたを、お門違いに恨むのだ。
あなたの穴を埋めようとして、かえって広げながら、私は今日もあの輝きを思う。

燃え尽きた輝きは、もう戻っては来ないのに。

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