薄墨

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じっ、と目の中を見つめながら、聞く。
「あなたは誰」

こちらをじっ、と見つめていた目の前の顔の口が動く。
「あなたは誰」
見慣れたはずの、でも記憶を掠めることのない顔が、今も目の前でまばたきをする。

洗面台で毎朝、顔を合わせる上半身だけの顔に、そう問いかけ始めてもう一年が経つ。
気狂いになりたかったわけじゃない。
ただ、本当に、鏡に映るこの顔が、誰のものなのかを知りたいだけ。

正当防衛で、人を殺したあの日からは、もう二年だ。
血と汗に塗れて呆然と座り込んだ私の目前で、私が必死で殴りつけ、ただの物体と化した男を、警察が運び出していった。

しどろもどろに煩雑と話す私の代わりに、状況証拠と第三者の証言が、正当防衛を証明した。
事前の計画通りだった。

騒ぎたいだけか、それとも何かに気付いたのか、事件から一拍置いて、たくさんの報道が出た。
世間の俎上に載せられた実名写真付きの報道は、自分のものとはとても思えなかった。

弁護士、警察と検察、裁判所さえ、宥めるように、勇気づけるように私に「あなたの件は正当防衛です」と言い、やたらと世話を焼いた。
私が壊れてしまうことを、公的機関は必要以上に恐れた。
友達や家族や私の縁者は、報道に憤り、何かと私を心配した。
事情を知る者たちは、みんな私の正当防衛を信じて疑わず、乱暴な報道や世論で私が傷つくのを、怖くなるくらいに恐れた。
私を心配した。

しかし、私はそんな世間の動きには、清々しいほど何も感じなかった。
ただ、ぼんやりと連日積み重なる、私についてのニュースを眺めた。

そのうちに心の裡で、ある疑問がふっと湧いた。
私の名で、こうして新聞やニュースに出ている、この顔はいったい誰なのだろう。
テレビに、私の名義で映し出された顔写真を見て、そう思った。

今まで気づいていなかったのだが。
その翌日に、顔を洗いに洗面台へ行って、私は発見した。
私が鏡の前に立つと、鏡にテレビに出ていた誰のものか分からない顔が写し出されるということに。

なるほど、そうだったのか。
なんてことはない。メディアがこぞってこの顔と私の名前を結びつけたのは、私にこの顔が付き纏っているからだったのだ。
私がいればこの顔が写し出されるからだったのだ。
私は納得して、そして聞いた。

顔写真と名前の謎は解けたが、私にずっと付き纏っているはずのその顔の素性には、私は覚えがなかったから。
真っ直ぐに顔を見据えて、私は聞いた。
「あなたは誰」と。

しかし、その顔は私を真っ直ぐに見つめ返して、ただ口を動かした。
「あなたは誰」

それから私は毎日、その顔に素性を問うている。
しかし、顔は毎日、口の動きだけで、私と同じように私の素性を問うだけ。
「あなたは誰」

ひょっとするとあの顔は、気が狂っているのかもしれない。
ちょっと不安になる。

けれどもいつも、あの顔を前にすると、そんな不安より好奇心が勝つ。
だから、私は今日も聞く。
あの顔を真っ直ぐに見据えて。

「あなたは誰」

2/19/2025, 10:56:00 PM