受話器越しに呟いた言葉は、私の口からこぼれ落ちるなり、踵を返して夜空を駆けていく。
墨汁で塗りつぶしたように真っ暗な夜空を、一体、今夜は幾つの言葉が駆けているのだろう。
終電の走っていない静かな夜だから、どの電話口では留守電の電子メッセージだけが響きわたっているだろう。
墨汁を塗りたくったような暗闇の夜空を見上げる。
受話器の向こうでは、相変わらず音信不通の電子音が鳴り続いている。
電話先の相手…アイツと、お互いに生き別れることを決めたのはもう五年も前のことだった。
喧嘩をしたわけでもない。
嫌いになったわけでもない。
ただ、お互いにとって、別々に生きていく方が都合が良かっただけなのだ。
だから、お互いに、お互いを自分の人生から切り捨てることにした。
自分のために。
自分の信ずるもののために。
アイツは、ずっと弱くて、優しくて、融通の効かない頑なな真面目さで、でもずっと粘り強くて、正しかった。
夜空を駆けるアイツの姿は、強くて、綺麗で、いつも私の心を支えてくれた。
アイツは、私を勇気づけてくれる頼もしい味方で、誰よりも気心の知れた大切な親友で、そして私の気を引き締めてくれる強いライバルだった。
アイツが大好きだった。
しかし、私の正しさは、昼の日光の中でこそ輝くものだった。
私の属する組織は、そのことを誇りとしていたし、私もそこを尊敬し、誇りとしていた。
闇夜に紛れて暗躍し、夜空を駆けることで成果を上げ続ける、アイツとアイツの組織と、私の組織は、目指すものは同じでも、その理念はかけ離れていた。
だからこそ、私とアイツは恋人でも仲間でもなかった。
私はアイツを「あなた」とも「貴方」とも呼べなかった。
私たちはいつまでも、ライバルで友人で、私たちはお互いに、永遠にアイツを「アイツ」と呼び続けなければならなかった。
だから、私たちの組織の関係性が徹底的に決裂したあの事件も抗戦も、いつかは起こり得る出来事だった。
いつか起こり得る、私たちが目を逸らしてきた出来事が、ただ、ちょっと早く起こっただけのことだった。
あの夜。
五年前のあの日、それが妥当で正しい、と最初から分かっていたから、私たちは口論になるほど、冷静に、烈しく相談しあった。
半日を潰した話し合いが終わるころには、日はすっかり沈んでいた。
あの夜。
最後にアイツは静かに出て行った。
相互で納得した、妥当な結果のはずだったのに、アイツのいないあの家は、想像以上に広くて、冷たかった。
それでも。
こんなに暗い夜には、真っ暗な夜空の日には。
どうしてもアイツのことが脳を掠める。
アイツに支えられていた事実が、アイツの一挙手一投足が、アイツの言葉が、夜を駆けるアイツの後ろ姿が。
そして、それにどれだけ私が助けられていたのか、それを思い知る。
もう私たちはお互いに連絡を取り合うことはないはずなのに。
アイツはとっくに電話番号を変えているはずで、私も携帯を変えたのに。
こんな、墨汁をぶちまけたみたいな夜空の日には決まって、私は、アイツに通じないはずの電話を恐る恐るかける。
真っ黒な夜空に、アイツに向かっての言葉を放ちたくなって。
私の指は、アイツの電話番号を呼び出す。
そして、我ながらどうしようもないくらいの弱々しい、呟きのような一言を、アイツに向かって夜空に放つ。
私の言葉は、電話線に導かれて、脇目も振らずに真っ直ぐに、真っ暗な夜空を駆ける。
仕事に出かけるかつてのアイツのように。
それを私は黙って眺める。
夜空を駆ける、弱い私。
自分から切り離したはずなのに、まだアイツを求めてしまう私の弱さが、夜空を駆ける。アイツを求めて。
頬を涙が伝う。
弱い私の呟きは、誰もいない受話器に向かって、夜空を駆ける。
2/22/2025, 7:07:58 AM