精悍な背中を見ていた。
がっしりとした健康そうな肩。
しなやかに長い腕。
均衡の取れたすらりと逞しい脚。
爽やかな風を靡かせながら、私の前に躍り出た、精悍で美しい背中。
私を追い抜いていく背中。
ああ、君の背中はこんなにも、美しかったのだ。
私を追い抜き、走り去っていく君の背中を見て、私は確かにそう思ったのだ。
私を追い抜いた瞬間の、君の、驚いたような戸惑ったような複雑な横顔が危惧していたような、暗い感情は湧き上がらなかった。
ただ、遠くなる君の背中の美しさに、私は見惚れてしまったのだ。
私はきっと、これから君に並ぶことはできないだろうから、君がそれを知ることはないかもしれないが。
私は今まで、君の背中を見たことがなかった。
誤謬がある。正しくは、私がずっと、君の前を走っていたのだ。
この世界に君が入って来たのは、私が世界に飛び込んで一年経った頃だった。
まだ無名の新人である私の作品に、憧れた、と瞳をキラキラ輝かせて君は、この世界で走り出した。
それから、私と君は、この世界で走り始めた。
勉強に励み、結果に向き合い分析して、創意工夫を重ねて。
お互いに、感想を話し合い、アドバイスをしあって、私と君は走り続けた。
仲間が、一人また一人と減っていっても。
私と君は、少しずつ、少しずつ、努力を重ねて、徐々に、成果を、数字を、積み重ねた。
少しずつ、少しずつ、スピードを上げて、私と君はいつも走り続けた。
私も君もこの世界が好きだったから。
この世界でいたかったから。
私が君の一歩前を走り、君は私の背中にぴったりと追い縋っていた。
振り返れば君がいて、君は私の背中をずっと追っていてくれた。
君と私は、互いに理解者であり続けた。
走り疲れた時、私は振り返って、君の顔を見た。
君は顔を上げて、私の背中を目指してくれた。
しかし、いつからだろう。
私は、君の顔に、いつからか余力を見るようになった。
君のペースの上げ方に、噛み合わなさを感じた。
それは、私も君も、すっかりこの世界の軸まで上り詰めて、それなりに名の売れた頃のことだった。
それは、時間を経る毎に、どんどん気になり始めた。
君のペースと私のペースが噛み合わないのは、君の方が、私よりずっと楽に加速できるようになったから。
君の顔に、動きに、余力をバネを感じるのは、君が私よりタフで、強靭になったから。
私と君の距離が近いのは、君が私よりも速くペースを上げられるようになったから。
私は悟った。
自分の才能の限界を。君の素晴らしい才能を。
私の背中だけに憧れ続けていた、君は気づかなかったようだけど。
私はもう、一年も前から、この瞬間を予測していた。
そしてその瞬間は、今、訪れた。
君は、遂に、私を抜いた。
私より速く、私より上手く、私より上等なことができるようになったのだ。
君は憧れを追い抜いた。
私を追い抜いた。
私は負けた。
負けたはずなのに、誇らしかった。
私を追い抜いた君の背中は、ずっと美しかった。
君が私を追い抜いた時、私は嬉しかった。
君が、自由に遥か彼方へ駆けていくこれからが、どうしようもなく嬉しかった。
君の不意を打たれたような顔さえも、眩しかった。
君は走り去る。
君の背中は遠ざかる。
もう、私は君に追いつけないだろう。
これから、私と君の距離は離れて、きっと将来私は君の背中を見ることも叶わなくなる。
それでも。
それでも、私を追い抜いた君の背中があんなにも美しかったから。
憧れを、追い抜いていく背中の美しさを、間近で網膜に焼き付けたから。
今日の、今のこの一瞬の記憶だけで、一生走り続けて行ける気がした。
君の背中は遠ざかる。
振り向いて見ていたあの時より、ずっと大きくなった体で、もう私には真似すらできないような美しいフォームで、君は駆けていく。
それが、愛おしくて、懐かしくて、誇らしくて、眩しい。
悠然と駆けていく、君の背中を見送る。
息を切らせて、足を引き摺りながら。
胸が熱い。自然と笑みが溢れてしまう。
君の背中が遠ざかっていく。
私は今、本当に幸せだ。
「やまのあなたのそらとおく さいわいあるとひとのいう」
口の中で、いつ覚えたかも知らない言葉の残滓を転がす。
「やまのあなたのそらとおく さいわいあるとひとのいう」
もう意味すらもわからない。
音とリズムだけが、私の体に染み付いている。
「ああわれひとととめゆきて」
続きを口の中で転がしながら、一歩を踏み締める。
踏み込んだ傾斜の表面で、落ち葉がかさり、と音を立てる。
「なみださしぐみ かえりきぬ」
かさり、かさり、と落ち葉ごと傾斜を踏み締める。
結構、急だ。
体の重みが、ぐっと靴底を圧迫する。
「やまのあなたのなおとおく」
さいわいすむとひとのいう
一歩一歩、歩くという動きを感じながら歩く。
言葉はもう死んだ。
言葉を媒介とした奇病が流行って、人の言葉は見る間に駆逐された。
言葉の中身は、奇病によって食い尽くされ、言葉の意味は空虚に転がった。
言葉はもうこの世には、ひとかけらも残っていない。
ただ、鳴き声のような言葉の響きだけが、言葉の残骸だけが、この世には転がっている。
「やまのあなたのそらとおく」
言葉のない世界で、私は遠く…遠くを目指して、歩いている。
意味はない。
目標もない。
ただ、遠く…遠くへ歩きたかった。
「やまのあなたのそらとおく さいわいすむとひとはいう」
言葉の残滓を繰り返しながら、私は歩く。
遠く…遠くへ…
それは、公然の秘密だった。
皆が気づいていながら、晒されていながら、知っていながら、“誰も知らない秘密”として振る舞うことで、成り立っていた。
繭の中で、自らの首を絞めることになる真綿に包まれて眠りこける蚕のような、そんな不安定な安寧と秩序だったのだ。
それは誰もが薄々気づいている、“誰も知らない秘密”だった。
だから、時折、そんな空気を読めない旅人が、町はずれの峡谷で、青い毛皮を煌めかせたシカを見ただとか、銀の美しい毛並みを持ったキツネが居ただとか、虹色の不定形が這い回っていたとか、そんな噂がたった時には、見間違いだとか伝説だとかと言って、根も葉もない嘘に作り替えて秘密を守るのが、この町の秘密だった。
その峡谷には、確かに夢のような動物がうろついていた。
昔々、何処からかこの町に現れた虹色の繭が孵ってから、この峡谷には度々、そんな夢のような獣が駆け回るようになったのだ。
繭がこの町に現れたその時代、まことしやかに囁かれていた噂があった。
遠い遠い東の国、強い強い軍帝国が、生物兵器を発明し始めたと。
その研究は隣国には秘匿され、失敗作は、その帝国から遠く遠く西のある地へ捨てられたという、そんな噂だった。
この町の峡谷に、奇妙な獣が居るということは、昔から公然の秘密だった。
公然の、誰も知らない秘密だった。
この地にかの帝国からの戦闘機が、辿り着くまでは。
今はこの町の噂も、あの帝国の生物兵器の噂も、もう誰も知らない秘密になった。
誰も知らない秘密に。
燻った町に、燻った峡谷が今も広がっている。
そしてその峡谷を、美しい青い毛並みのシカが、今も元気いっぱいに駆け回っている。
遠くの空が白む。
崩れかかった建物の柱の奥から、まん丸い太陽の頭が見える。
ぐずぐずになった家宅の、床板の上に立っている。
床の上には、まだ赤い血痕がぽつぽつと残っている。
もう誰もいないのだ。
頭の中ではぼんやりと覚悟していたのに、具体的な理解は何一つ追いついていなかった。
でも、本当に終わったのだ。一夜で。
建物も木も地面も、燻っている廃墟で立ち尽くす。
昨日までは、ここに、賑やかな集落があった。
小さな建物の中に、わらわらと人が住み、道の外れでは、家畜が草を食んでいた。
小鳥や野鳥が空を飛び回り、番犬や鼠取りの猫が悔しそうにそれを眺めていた。
美味しそうな食べ物の香りがあちらこちらに満ち、手入れの行き届いた植物たちの葉が朝露に濡れていた。
鮮やかな色が、あちらにもこちらにも溢れ、人の往来と喧騒が、明るい朝に溢れていた。
ここはそういう集落だった。
私が来た時には、鮮やかで賑やかな、人類たちの集落だった。
人類に対して、魔族の侵略を始めるとなった時、真っ先に候補に上がったのがここだった。
遠い昔、かつて人類が、私たち魔族に対して、侵略戦争を行ったその最初の地が、この集落だったからだ。
この地に住む人の集落は、なんとしても全滅させる。
それが、昔から人間に虐げられてきた、魔族たちの宿願だった。
私は、その計画を成就するために、人に化けてこの集落で、ちょっとの間、暮らした。
その間、人間たちはどの人もみな、優しかった。
ようやく集落に辿り着いた旅の人間という“設定”の私に、人間たちは笑いかけ、温かい食事と柔らかな寝床を掻き集めた。
素晴らしい暮らしだった。
しかし、私はこの集落を滅ぼすつもりだった。
集落の人間が親切であるほど、ここを確実に滅ぼさなくてはいけなかった。
その親切が種族問わずに発揮されるものであったなら、そんな優しく甘い気持ちを持った人間たちには、魔族の侵略戦争という未来には、辛い仕打ちしか残っていないであろうし、
この親切が私が人間という種族の形をしているから発揮されるのであれば、そういう人間たちはえてして、親切にしなくていい人でなしには、恐ろしく残酷な仇であるからだ。
だから、私はこの集落を完璧に調べあげ、仕事をやり終えた。
集落への攻撃は、計画通りに達成された。
魔族の総攻撃を、一夜に受けたこの集落は、もはや原型を保たぬ荒野として、今目の前にその姿を晒している。
静かな夜明けだ。
溢れていた子の声も、動物の声もしない。
瑞々しい命と生活の気配は、跡形もなく焼け爛れて、燻っている。
しん、とあたりは静まり返っている。
朝の爽やかな風だけが、廃墟と瓦礫に埋もれた荒野を吹き荒ぶ。
私は、朝の空気を腹いっぱいに吸い込む。
空に朝日がゆっくりと昇っていた。
腹なんて到底割れそうにない小さなナイフで、ハツを切り分ける。
一口サイズのそれを口に運ぶ。
まさに今食事をしているというのに、腹が「くぅ」と情けない声を上げる。
心筋の弾力を噛み締めながら、自分の手に目をやる。
白く血色の悪い指が、ナイフとフォークを握りしめている。
心臓を食べるようになった。
心臓が止まって、その心臓があなたのものに変えられてから。
私は、心臓を、食べなくてはならなくなった。
私は友達だと思っていた。
丸い目をきょとんと光らせ、ニコニコと屈託なく話す親友だった。
厚い防弾ガラス越しにいろんな話をした。
施設の中で、唯一、腹を割って話せる親友だった。
先生に怒られたことも、外出制限がかかった愚痴もよく話したし、彼女の、喧嘩の言い分やちょっとした冒険の話を聞くのも好きだった。
「ドナーになったらね、移植者にその人の癖や意識が時々現れることがあるんだって。きっとね、ドナーの内臓はバラバラになっても、その人として生きてるんだね」
「だから私、楽しみなんだ。ドナーになるの!」
彼女はそう言って、笑った。
彼女は臓器移植ドナー用に、ゲノム情報を加工された、特殊な人間だった。
社会的地位としては、家畜となんら変わりのないヒトだった。
彼女は、その和やかで無邪気な笑顔の内側で、普通の人間の倍の臓器を養いながら、楽しそうに生きていた。
彼女たちの寿命は、ガラスの外側で暮らす移植者の成長に依存していた。
彼女たちが、自分の人生を生きることは絶対にない。
でも、彼女はいつも楽しそうに笑った。
「バラバラになって、いろんな人の人生を一度に生きるのも、楽しそうだよね」
そう言って、まだ見ぬ未来に期待していた。
一緒に私と彼女は大人になって、それが彼女の寿命だった。
産まれてからずっと弱々しく不規則にしか脈打たなかった私の心臓は、強靭にリズム良く脈打つ彼女の心臓に置き換わった。
それだけだった。
最後に彼女が残した遺言は、術後のベッドの片隅に置かれていた。
見たことない彼女の字で、「heart to heart」そう書かれていた。
そういや最近、彼女は、英語にかぶれていた。
あの子らしい遺言だった。
きっと彼女は、今も私の心臓で、誰かの肺で、誰かの眼球で、誰かの肝臓で…誰かのどこかで、しぶとく、生き続けているのだろう。
そして、私と彼女は本当に、「heart to heart」、腹を割った親密な関係になったのだ、文字通りに。
術後の食事制限明け、パパは私に何が食べたいか、聞いた。
「心臓。」私は答えた。
彼女が、「いつか内臓を食べてみたい。そうしたら私の内臓はもっと強靭になりそうだし」みたいなことを言っていたことを思い出したからだ。遺言を見て。
初めて食べたハツは、鉄臭くて、弾力があって、私にとっては、良さのわからない珍味だった。
しかし、それからも私は、定期的にハツを食べている。
あまり美味しくなかったはずなのに、どうもクセになってしまった。
彼女を感じるのは、そういう時だ。
ハツを切り、口の中に入れる。
相変わらず鉄臭くて、硬い。
心臓が力強く、どくん、と脈を打つ。
私は、ハツの心筋を噛み締める。
私の、彼女の心臓は、元気に生きている。