薄墨

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「やまのあなたのそらとおく さいわいあるとひとのいう」
口の中で、いつ覚えたかも知らない言葉の残滓を転がす。

「やまのあなたのそらとおく さいわいあるとひとのいう」
もう意味すらもわからない。
音とリズムだけが、私の体に染み付いている。

「ああわれひとととめゆきて」
続きを口の中で転がしながら、一歩を踏み締める。
踏み込んだ傾斜の表面で、落ち葉がかさり、と音を立てる。

「なみださしぐみ かえりきぬ」
かさり、かさり、と落ち葉ごと傾斜を踏み締める。
結構、急だ。
体の重みが、ぐっと靴底を圧迫する。

「やまのあなたのなおとおく」
さいわいすむとひとのいう
一歩一歩、歩くという動きを感じながら歩く。

言葉はもう死んだ。
言葉を媒介とした奇病が流行って、人の言葉は見る間に駆逐された。
言葉の中身は、奇病によって食い尽くされ、言葉の意味は空虚に転がった。
言葉はもうこの世には、ひとかけらも残っていない。
ただ、鳴き声のような言葉の響きだけが、言葉の残骸だけが、この世には転がっている。

「やまのあなたのそらとおく」
言葉のない世界で、私は遠く…遠くを目指して、歩いている。
意味はない。
目標もない。

ただ、遠く…遠くへ歩きたかった。

「やまのあなたのそらとおく さいわいすむとひとはいう」
言葉の残滓を繰り返しながら、私は歩く。

遠く…遠くへ…

2/9/2025, 3:46:28 AM