薄墨

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それは、公然の秘密だった。
皆が気づいていながら、晒されていながら、知っていながら、“誰も知らない秘密”として振る舞うことで、成り立っていた。

繭の中で、自らの首を絞めることになる真綿に包まれて眠りこける蚕のような、そんな不安定な安寧と秩序だったのだ。

それは誰もが薄々気づいている、“誰も知らない秘密”だった。
だから、時折、そんな空気を読めない旅人が、町はずれの峡谷で、青い毛皮を煌めかせたシカを見ただとか、銀の美しい毛並みを持ったキツネが居ただとか、虹色の不定形が這い回っていたとか、そんな噂がたった時には、見間違いだとか伝説だとかと言って、根も葉もない嘘に作り替えて秘密を守るのが、この町の秘密だった。

その峡谷には、確かに夢のような動物がうろついていた。

昔々、何処からかこの町に現れた虹色の繭が孵ってから、この峡谷には度々、そんな夢のような獣が駆け回るようになったのだ。

繭がこの町に現れたその時代、まことしやかに囁かれていた噂があった。
遠い遠い東の国、強い強い軍帝国が、生物兵器を発明し始めたと。
その研究は隣国には秘匿され、失敗作は、その帝国から遠く遠く西のある地へ捨てられたという、そんな噂だった。

この町の峡谷に、奇妙な獣が居るということは、昔から公然の秘密だった。
公然の、誰も知らない秘密だった。

この地にかの帝国からの戦闘機が、辿り着くまでは。

今はこの町の噂も、あの帝国の生物兵器の噂も、もう誰も知らない秘密になった。
誰も知らない秘密に。

燻った町に、燻った峡谷が今も広がっている。

そしてその峡谷を、美しい青い毛並みのシカが、今も元気いっぱいに駆け回っている。

2/8/2025, 8:50:43 AM