薄墨

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腹なんて到底割れそうにない小さなナイフで、ハツを切り分ける。
一口サイズのそれを口に運ぶ。
まさに今食事をしているというのに、腹が「くぅ」と情けない声を上げる。

心筋の弾力を噛み締めながら、自分の手に目をやる。
白く血色の悪い指が、ナイフとフォークを握りしめている。

心臓を食べるようになった。
心臓が止まって、その心臓があなたのものに変えられてから。
私は、心臓を、食べなくてはならなくなった。

私は友達だと思っていた。
丸い目をきょとんと光らせ、ニコニコと屈託なく話す親友だった。
厚い防弾ガラス越しにいろんな話をした。
施設の中で、唯一、腹を割って話せる親友だった。
先生に怒られたことも、外出制限がかかった愚痴もよく話したし、彼女の、喧嘩の言い分やちょっとした冒険の話を聞くのも好きだった。

「ドナーになったらね、移植者にその人の癖や意識が時々現れることがあるんだって。きっとね、ドナーの内臓はバラバラになっても、その人として生きてるんだね」
「だから私、楽しみなんだ。ドナーになるの!」
彼女はそう言って、笑った。

彼女は臓器移植ドナー用に、ゲノム情報を加工された、特殊な人間だった。
社会的地位としては、家畜となんら変わりのないヒトだった。
彼女は、その和やかで無邪気な笑顔の内側で、普通の人間の倍の臓器を養いながら、楽しそうに生きていた。

彼女たちの寿命は、ガラスの外側で暮らす移植者の成長に依存していた。
彼女たちが、自分の人生を生きることは絶対にない。
でも、彼女はいつも楽しそうに笑った。
「バラバラになって、いろんな人の人生を一度に生きるのも、楽しそうだよね」
そう言って、まだ見ぬ未来に期待していた。

一緒に私と彼女は大人になって、それが彼女の寿命だった。

産まれてからずっと弱々しく不規則にしか脈打たなかった私の心臓は、強靭にリズム良く脈打つ彼女の心臓に置き換わった。

それだけだった。

最後に彼女が残した遺言は、術後のベッドの片隅に置かれていた。
見たことない彼女の字で、「heart to heart」そう書かれていた。

そういや最近、彼女は、英語にかぶれていた。

あの子らしい遺言だった。

きっと彼女は、今も私の心臓で、誰かの肺で、誰かの眼球で、誰かの肝臓で…誰かのどこかで、しぶとく、生き続けているのだろう。
そして、私と彼女は本当に、「heart to heart」、腹を割った親密な関係になったのだ、文字通りに。

術後の食事制限明け、パパは私に何が食べたいか、聞いた。
「心臓。」私は答えた。
彼女が、「いつか内臓を食べてみたい。そうしたら私の内臓はもっと強靭になりそうだし」みたいなことを言っていたことを思い出したからだ。遺言を見て。

初めて食べたハツは、鉄臭くて、弾力があって、私にとっては、良さのわからない珍味だった。

しかし、それからも私は、定期的にハツを食べている。
あまり美味しくなかったはずなのに、どうもクセになってしまった。
彼女を感じるのは、そういう時だ。

ハツを切り、口の中に入れる。
相変わらず鉄臭くて、硬い。
心臓が力強く、どくん、と脈を打つ。
私は、ハツの心筋を噛み締める。

私の、彼女の心臓は、元気に生きている。

2/5/2025, 10:52:46 PM