薄墨

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1/29/2025, 2:48:45 PM

「知ってるか?マンリョウってのは日陰でも育つらしい」
喫煙所でスマホをいじりながら、先輩が言った。

「いや、世の中ってのは、意外に上手いこと言うよなあ」
そう言いながら彼の手は、紙タバコに火をつける。
白いタバコの先から、灰色の煙が立ち上る。

「そうですね」
とりあえずの相槌をうちながら、電気タバコを口に咥える。
喫煙所、喫煙場所の減少と制限、それから年々の価格の高騰で、紙タバコはすっかり貴族の娯楽と化している。
タバコ休憩に出て、紙タバコを喫煙所でゆっくり吸うなんて、今のご時世では、金と暮らしに余裕のある者しかできない。

「いや、ヤベー世の中だよなあ。日陰で自分を痛めつけんのさえ、金がいる時代だぜ?日向の奴らは、何を楽しくて生きてんだろぉな」
電子タバコのこちらを気遣ってか、彼はゆっくり煙と共にそんな言葉を吐き出した。

「まあ、日向にはいろいろあるみたいですよ、娯楽は」
こちらの世界に落ち着いてからもう久しいので、詳しい事は言えない。
だから、私も電子タバコの煙と一緒に、軽く返す。
甘い煙の味が口の中に満ちる。

しばらく沈黙が続く。
お互いタバコ休憩のつもりだったのだから、当たり前だ。話すことがなければ、静かにタバコを味わうのみ。
この、粗暴な仕草で紙タバコを味わう仕事の先輩をぼんやり眺めながら、私もゆっくりと煙を吸い込んだ。
彼は、紙タバコを咥えつつ目を落とし、スマホをしきりにいじっている。

「…お?なあ、奴等、タバコ飲まねえくせに、タバコの銘柄に関しては詳しいらしいぞ」
そう言って、彼が見せたスマホの画面には、タバコの銘柄とそのイメージや吸っている人の傾向について、好き勝手まとめてある投稿やサイトが映し出されていた。
「呑気なもんだよなあ。今、日向の世界でタバコなんて人前じゃ、まともに吸えねえだろって。何がこの銘柄、推しに似合うだよ。よくわかんねえけど、日向の人間は今じゃ、紙タバコなんて吸わねえだろうよ、なあ」

「そうですね、吸えないでしょうね。健全なタバコ専門店なんてもう一軒も見当たりませんし」
思ったことをそのまま言って、それから、ふと気になったことを口に出してみる。
「ところで、先輩がライトヴェブ見るの珍しいですね。なんかありましたか?」

「別になんもねえ。ダークヴェブ、飽きんだよ。いつものアカウントで見てると仕事連絡うるせえし」
「なるほど……って、仕事の連絡はちゃんと目を通しといてくださいよ」
「ダルい。どうせお前、チェックしてんだろ」
「…チェックしてますけども。宛先確認もありますし、注意事項だってあるんですから、一応、読んでもらわないと」
私が期待と非難の意を込めて言い返す。

私たちの仕事。それは、日陰…すなわち、違法行為の蔓延る裏社会…そこでの清掃員だ。
依頼を受けたら死体や証拠もろとも、ピカピカに清掃するのが、私たちの仕事だ。
どんな血まみれの惨状だって、丁寧にピカピカに磨き上げる。
証拠品や家具の回収なんてオプションだってある。
この稼業はなかなかリスクがあるが、なかなか、かなり儲かる。
日向…一般社会…では、日の目を見られないような、親に捨てられた中卒の先輩が、今こうして紙タバコを吸えているのも、この仕事のおかげであった。

だが、仕事に失敗すれば、命に関わることもある仕事。
だからこそ、事前に依頼を知ることやスケジュールを管理することは大切なはずだが…
しかし、先輩はむしろ得意そうに笑って煙を吐いた。
「だってよぉ。…ほら、今日のこれからの予定は?」

つい、反射で真面目に答えてしまう。
「dirty dogのボスからの依頼説明が、19:00からあります。前金受取を忘れずに…ですね」
しまったと思ったがもう遅い。

先輩はニヤニヤと笑みを浮かべながら、肩をすくめる。
「ほらな。俺がわざわざ記憶しとく必要はない」

ため息が漏れた。
ため息にすら、電子タバコの甘い味と匂いが混ざる。

「さ、じゃあ、行くか。dirty dogに」
タバコの火を灰皿で揉み消しながら、先輩が言う。
もうタバコ休憩は終わりのようだ。
「行きますか」
私も電子タバコをしまい込む。

一瞬でタバコをしまい終えた私を見つめて、先輩はポツリと、ニヤニヤと言う。
「お前さあ、そろそろ紙タバコにしろよ。箔がつくぞ」

「ふふ。…生憎、ずっとこれなので」
私は電子タバコを振ってみせる。
「私が生まれた時代は、まだ日向じゃ、電子タバコの規制が緩かったんです」

先輩がわざとらしく顔を顰めて、おどける。
「やれ、大卒は育ちが宜しくて困るねえ」
「はいはい、クライアント対応はこちらでやるんで、他は頼みますよ」
「へいへい」

二人で歩き出す。
日陰へと、闇へと、私たちの居場所へと。
日陰ではステータスであるニコチンの香りが、ほのかに香った。

1/28/2025, 11:01:41 PM

荘厳の分厚い扉の前で、帽子をかぶった。
この先の部屋に、帽子をかぶったまま入室する事は、一度もなかった。
今までは。ずっと。
この先の部屋の最奥には、王座が堂々と座っている。
この広間には、いつも皇帝がいらっしゃる。

まだ王太子であられた皇帝に近侍として拾われてから、もう20年間も通った、おなじみの部屋。
私は、近侍から、頭の回転と武力を認められて武官となって、正装に帽子を頂いてからも、皇帝がいらっしゃる時は、帽子をかぶる事はしなかった。
名君で、私たちを惜しみなく労わってくださる皇帝には、どんな小さな敬意でも、払いすぎるということはなかったからだ。

この部屋での着帽は許されていたが、現皇帝の前で、そんなことをする者はほとんどいなかった。
みな、皇帝を心の底から敬い、好いていた。
皇帝は、臣民にも臣下にも、深い愛を持っておられた。

皇帝は、稀代の名君であられた。
7つの地域を平らげ、8つの小国を守り、12の山賊の拠点を落とされた。
臣下の言うことに耳を傾けるのはもちろん、どんな卑しい身分の臣民の言うことにも耳を貸し、信頼のおけると思った時には、敵の捕虜の言うことでさえ、取り入れた。

自分の至らなさを知り、他人をよく知る心構えを持っていた皇帝は、我々にとって、まさに理想の君主でおられた。

その皇帝のお気が乱れ始めたのは、3ヶ月前のことだった。
ある日、皇帝と長年連れ添った愛馬が死んだ。
ある人間の、卑劣な裏切りによって、病気となったのだ。

さらに、愛馬が亡くなったしばらく後に、今度は、皇子殿も亡くなられた。
皇帝の長子であり、愛らしい少年であった皇子様も、先日に亡くなった愛馬と同じように、同じ病で亡くなられた。

それから、皇帝は理に叶わぬことばかりやるようになった。
勝ち目のない戦争を始めようとしたり、真面目な臣民を処刑しようとしたり、寝台や王座で刀を抜き放ち、いきなり人や物を斬りつけたり。

最初は、お気を乱された皇帝を宥めすかし、手を焼きながら、我々は、「ああ、この方もやはり人間であったのだ」と安心さえ覚えたものだった。
いつか立ち直るまで、ご一緒しよう。
そう心から思った。

しかし、皇帝のご乱心は酷くなるばかりだった。
ある日、皇帝はとうとう、暴君となられた。
その日、皇帝は、王宮の官僚になろうと試験にやってきた、純朴で賢い子どもを、死刑にしようと言い始めた。
その時、その場に立ち会った近侍は、皇帝をなんとか諌めようと子の前に立ちはだかった。

皇帝なら、ここで臣下の話を聞こうとしたはずであった。
しかし、あの日の皇帝は止まらなかった。
ご乱心を諌めようとした忠臣を、その子諸共酷い処刑にかけ、私たちに宣言した。
「これから朕に楯突こうとするものは、もはや皆こうなると思え」

私たちは沈黙するしかなかった。
もはや人が変わったように思えた。

その時、無力感に俯いた私の脳裏に閃いたのは、皇帝にかけられた言葉であった。
皇帝がまだ名君であられた時に、臣下に口癖のようにしみじみと言われていた、いつもの言葉であった。

「朕がもし間違ったことをしようとしたら、皆必ず止めてくれ。遠慮なく、朕に意見するのだ。…そして、それでも止まらなくなり、朕が暴君となった時には、お前たちが朕を殺してくれ。朕は、この国を貪りたくはない。この国の民たちを苦しめたくはない。そうでなくとも、皇帝というものはもともと国益に寄与すべきなのだ。国を思いやれぬ皇帝など皇帝ではない。…朕を殺したとしても、暴君から国を救った者になら、臣民たちも、惑うことなく、素直に従うだろうて…。…だから、その時は頼むぞ。お前たち」

稀代の名君であられた皇帝のあの、愛の深い、しみじみとした語り口を、私は思い出したのだった。

だから、私たちは帽子をかぶって、ここまで来た。
武官の帽子をかぶって、廊下を歩くのはこれが初めてであった。

帽子をかぶり直す。
扉の向こうには、今も皇帝がおられるはずだ。
私たちの愛すべき、愛しく賢明な皇帝が。

私たちは帽子をかぶって、扉を押し開けた。
錦の絨毯が、きゅっと音を立てた。

1/27/2025, 1:55:05 PM

小学校と、家から歩いていける、自宅から半径500メートルが世界の全てだった頃の話だ。
大人の言うことをよく聞き、友達もたくさんいて、でもごくごく普通のよく居る影の薄い小学生だった私が、あんなにも先生の耳目を集めたことは、夏休みの宿題の自由作文に、この作文を提出したあの時が、最初で最後だった。


小さな勇気

お父さん、お母さんはぜったいで、二ばん目にえらいのは、ぼくたちの中で一ばん大きいあの子。
ランドセルをげんかんにほうって、自てん車のカギをつかんだ。
今日も、クラスのみんなは、あの子にさそわれたから、当たり前に、公えんにいく。
みんなであそぶから。

公えんについたら、いろんなおもちゃがある。
学校よりも、家のへやよりも、ずっとらくにあそべる。
ぼくたちは、公えんにいったら、虫さんをつかまえる。
一ばん、かっこよくて、たのしいおもちゃだから。

つかまえた虫さんたちをたたかわせたり、バッタさんやちょうちょさんの足や羽をちぎったり、できかけのアリさんのすをつま先でうめたり。

つかまえた虫さんがいなくなったら、ヒーローごっこをする。
みんなで足のふみあいっこをして、一ばんよわい子をわるものにする。(だって、正ぎのヒーローはいつもかつからね。強い子がならなきゃ、お話どおりにならない)

元気のない友だちや、おとなしい女の子がとおりかかったら、みんなでからかう。
わるいとか、すきとか、きらいとか、大人たちはいつもそんなことをいうけど、ぼくたちには分からない。
ぼくたちの中では、それが当たり前で、いつものあそびだから、そうする。

だから、今日も、そうやってあそぶつもりだった。
みんなと、虫さんとあそぶんだって思った。

公園についた。
もう、なん人かの友だちは来ていて、みんな、虫さんとあそんでいた。

それはカマキリさんだった。
カマキリさんの羽はむしられていて、カマキリさんは、青みどりのかまを、うんどうかいでおどるみたいに、むちゃむちゃにうごかしていた。

みんながわらってみてた。

そのとき、ぼくは、カマキリさんと目が合った。

きゅうに、カマキリさんがかわいそうに思えた。
カマキリさんは、くるしそうに、なにもない空気をひっかいていた。
むちゃむちゃだった。
かなしそうだった。

ぼくは、つばをのみこんだ。
止めなきゃって思った。
やめて!って思った。

でも、ぼくのこえは出なかった。
だって、みんなはたのしそうだったから。

そのとき、ぼくのあたまの中で、きゅうに、道とくの時間のはなしがうかんだ。
「小さな勇気がだいじ」って、先生がいってたこと。

ぼくは、かすれた、ふるえるこえでいった。
「やめようよ。ぼくはもうやらない」
みんなはつまらなそうに、ふふくそうに、カマキリさんをにがした。

きっと、これからぼくはみんなとあそべなくなるだろう。
みんなは、まだ、カマキリさんとあそぶのがたのしそうだったから。
ぼくは、みんなとちがってしまったから。
これから、みんなは、ぼくをちょっときらいになる。
だって、ぼくたちは、そういうものだから。

でも、大人はきっとそれに気づかない。
大人はみんな、小さいころにしたいいことは、ぜんぶおぼえているのに、小さいころにしたわるいことは、みんなわすれてしまっているから。
だから、大人はみんな、赤ちゃんも、ぼくたち子どもも、かわいいっていう。
ぼくたちが虫さんとあそんでいることには、気づかない。

だから、ぼくは、ちょっとこうかいした。
でも、なんか、カマキリさんがさっていくのがうれしいのが、大人になった気分だった。

先生が読んでくれた道とくのきょうかしょの、カエルをいじめたくないのにけったあの主人公の気もちが、はじめてわかった気がした。


こんな作文を読んで、さぞ当時の担任の先生は、困惑したことだろうと思う。

あの時振り絞った“小さな勇気”は今も覚えている。
そして、その小さな勇気の果ての顛末さえも、大筋は覚えている。

あの作文を提出した次の日、昆虫採集の遊びは禁止になり、道徳の時間が増えた。
その対応は、当時の私にとっては随分と意外で、見当外れに思えたことを記憶している。

大人は、小学生の私の予想よりはずっと子どもを気にかけていて、行動的で、でも結局、当時の私が予想した通りに、子どものことを覚えていなかったのだ。

だから、私は、自分が大人になった今も、こういう自論を持ち続けている。
「大人は、自分が子どもの頃にした良い事は、はっきりと覚えているが、自分が子どもの頃にした悪い事、犯した罪は、すっかり忘れてしまうのだ」と。

1/26/2025, 3:24:38 PM

濃霧の中に、青い影が見える。
高く、大きく聳え立っている。

唾を飲み込み、踏み出す。
一歩一歩、湿った白い水蒸気の中を進む。
青い影が、ゆっくりと輪郭を定め、近づいてくる。

やがて、影ははっきりと形を保つ。
白い霧の中に、青銅の色をした石畳の塔が、細く高く、ぽつりと独立している。

「わぁ…!」
思わず感嘆の声が漏れた。

塔は、静まり返った白銀の霧の中に、冴え冴えと鈍重の色を湛え、静かに佇んでいる。
荘厳に。ぴくりとも動かずに。
温かみも生命の動きも音もなく、死のようにただひっそりと、不気味に塔は聳えている。

塔をゆっくりと見上げる。
濃い霧と荘厳な空気が、重たく頭上に立ち込めていた。
その重さを押し上げるように、ゆっくりと顔を上げる。
青い塔が、高く、高く続いている。
塔の遥か上の方には、青金色の重たそうな鐘が鈍く輝いている。
恐ろしいほどの静寂の濃霧の中に、恐ろしいほど脆弱で美しい塔が聳えている。

ここだ。
目指していたのはまさにこの地だった。

そう確信した。
出し抜けに、鐘がゆっくりと空気を震わせる。
ごぉん、ごぉん
低い音が、霧を掻き分けるように、響き渡る。
白い霧が一層深さを増して、冷たい空気が、ゆっくりと広がる。

「…わぁ!」
身震いするような冷たく重苦しい霧たちに、嘆息のような声が出た。
神々しさと荘厳さに、足がすくみ、かちりかちりと歯が鳴る。
とうとう辿り着いたのだ。
畏れと共に込み上げたのは、そんな達成感と、ワクワクした得体の知れない喜びだった。

私は、神を探していた。
自分をこの絶望から救ってくれるなら、なんでも良かった。
誰も守れない、大切な人も仲間もだれ一人守れなかった、この不甲斐ない自分の実力不足を忘れさせてくれるのなら。
たとえそれが怪物でも、悪魔でも、魔物でも、人間の子悪党だったとしても。

忘却の塔。
その塔の話を耳にしたのは、今から三年も前のことだった。
人生の恐るべき転換期、信じられないほどの大事件に巻き込まれて、そして、その作戦に完膚なきまでに大失敗して、庇われて、独、生きながらえてしまった命を持て余していたあの時に、私はこの塔の噂を聞いた。

曰く、「濃霧の深い森の最奥にある、“忘却の塔”は、入ったら最期、絶望も希望も過去も名前も、何もかも記憶から消されてしまう」そういう話だった。

その噂を聞いてから、私は件の“忘却の塔”をずっと探し求めていた。
存在ごと消えてしまいたかった。
私は逝きそびれた。
そして、私は仲間の元にいく資格なんてない。
忘却の塔が見つかれば、すぐにでも頂上に登り詰めて、存在ごとなくなってしまいたかった。
何者でもないただの人間になりたかった。

だから、私はここに来た。

目の前の景色は、陰気で荘厳で、無機質で、美しかった。
鐘の音も。壁の色も。濃い霧も。
心に不安と畏れと、それから妙な希望が胸に迫ってくる。
「わぁ!」
思わず、声が漏れる。
それだけに、小さい時に拾い集めた宝物のように、美しく見えた。
ずっと眺めていたいくらいだった。
触れてはいけない気さえした。

しかし、私は、消えてしまいたい。
その気持ちは、今も私の理性を支配していた。

だから、私は一歩踏み出した。
陰気で、畏ろしいその塔に。

本能は、強く後ろ髪を引いた。
感動は、強く袖を引いた。
感情は、強く足を止めた。
しかし、私の理性は、それらを許容することはできなかった。

私は足を引き摺り、体を引きずって、歩き始めた。
霧はみるみる深くなり、進むたびに、辺りの空気は冷え始めた。
でも、自分と記憶以外の全てを失った私の足は止められなかった。

冷たくなった白い霧の中で、白い息を吐いた。
「わぁ!わぁ…」
白い息はまだ感嘆を含んでいた。
子どものような無邪気な憧憬と畏れを含んでいた。

しかし、灰色の大人の私は、足を止めなかった。

私は一歩、一歩、足早に進む。
霧はどんどん濃くなる。
青い塔の輪郭も、自分の輪郭さえも曖昧になる。
「わぁ!」
口から息が漏れる。

寒さが身に染みる。
死の、消去の冷たい気配がじわじわと迫ってくる。
青い塔の、頑丈な青銅の扉が、ゆっくり、ゆっくりと近づく。
白い霧が、また増した。

1/26/2025, 12:39:02 AM

キジバトの鳴き声が聞こえる。
茂みの中で。
鳩が鳴いている。

冬の澄んだ朝。
広場の中央には、金メッキも宝石も剥がされた王子の像の残骸が、錆びついてでこぼこに凹んだ茶色い金属製の肌を晒して突っ立っている。
おそらく、この街の貧民層が剥がしていったのだろう。
見窄らしい像の現状を嘲るように、王子像の足元には、燕がひっくり返って死んでいた。

キジバトが鳴いている。
今日も街は賑やかで、王子像や燕の死骸に注意を向けるものはいない。
貴族も平民も乞食も、みな忙しそうに通り過ぎていく。

昨日は寒さがひどかった。
その証拠に、街の道端のあちこちに、溶けかけた雪がこびりついている。
この調子なら、今日も大通りの外れの路地には、行き倒れている命があるだろう。
一昨日の朝は、貧しいマッチ売りの娘が死んでいた。
今日も誰か、倒れているだろう。

ひんやりした空気に手を擦り合わせて、掃除用具を取り出す。
石畳の地面を一掃きして、息を吐く。
一掃きして、また息を吐く。
今日も、街の街に繰り出して、掃除をする。
それが私の仕事だから。

この街は、永遠と平和の街、と呼ばれている。
高い壁が、この街を取り囲んでいて、それが永遠と平和の街と呼ばれる謂れだ。
この高い壁は、広場の像のモデルとなった王子が作り出したものだ。
この王子は生まれつき魔術の力を持っており、この街をより素晴らしく、より安全な街にするために、この街の住人の幸せを想いながら、高い壁を建てて、街に二つの魔術をかけた。

一つ目の魔術は、平和の魔術。
外からくる天災や災害を遠ざける魔術だ。
だから、高い壁の内側にあるこの街には、戦争も災害も疫病もない。
絶滅もない。
飢饉さえない。
壁の内側のこの街は、恐ろしいほど平穏だ。

二つ目の魔術は、永遠の魔術。
この街が永遠に繁栄する魔術だ。
この街では、人口が減ったり、家や店が減ったりすることはない。
子どもが死ねば、新しく子どもが産まれる。
大人が死ねば、同い年くらいの放浪者がやってくる。
乞食が死ねば、乞食が現れ、貴族が死ねば、貴族がやってくる。
子どもも、大人も、動物も、鳥も、王族さえも。
この街の命は、みんな代えが効く。

それがこの街。永遠と平和の街。
王子が自分の命と引き換えに、この街に捧げた魔術は、今もひたすらに続いている。
そんな名君の王子を讃えて、街の中央広場には、金と宝石で彩られた、王子の像が置かれた。

それから200年。
この街は、あの頃から何も変わらずに、永遠に続いている。
周りの数々の国や街が終わりを経験し、滅び、勃興し、新しくなる。
この街の周辺では、数々の物語が終わり、新しい、前よりももっと進化した物語が紡がれてきた。

しかし、この街だけは終わらない。
王子が作った、王子の時の物語が続いている。
たった一人の、名君と呼ばれた愚かな王子の、終わらない物語が。

私が死んだとしても、きっと私の代わりに掃除屋がやってくる。
同じように考え、同じように生きて、同じように死んでいく、そんなたわいもない掃除屋が、私の代わりに道路を掃除する。
この街の街角で誰が死んでいようと、その代わりがやってくる。

この街は時代に取り残されながら、永遠と続く。
同じ物語を、役者を変えて、繰り返し、繰り返し紡ぎながら。
終わらない物語を、何度も何度も繰り返しながら。

私たちの物語は終わらない。
今日も200年前から終わらない青い空の下で、200年前から終わらない物語が、一本調子で続いていく。

キジバトが鳴いている。
錆びついた王子の像が、高い壁を見つめている。
私は今日も、終わらない掃除に手を出す。
私の一掃きが、今日も永遠に続く。

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