荘厳の分厚い扉の前で、帽子をかぶった。
この先の部屋に、帽子をかぶったまま入室する事は、一度もなかった。
今までは。ずっと。
この先の部屋の最奥には、王座が堂々と座っている。
この広間には、いつも皇帝がいらっしゃる。
まだ王太子であられた皇帝に近侍として拾われてから、もう20年間も通った、おなじみの部屋。
私は、近侍から、頭の回転と武力を認められて武官となって、正装に帽子を頂いてからも、皇帝がいらっしゃる時は、帽子をかぶる事はしなかった。
名君で、私たちを惜しみなく労わってくださる皇帝には、どんな小さな敬意でも、払いすぎるということはなかったからだ。
この部屋での着帽は許されていたが、現皇帝の前で、そんなことをする者はほとんどいなかった。
みな、皇帝を心の底から敬い、好いていた。
皇帝は、臣民にも臣下にも、深い愛を持っておられた。
皇帝は、稀代の名君であられた。
7つの地域を平らげ、8つの小国を守り、12の山賊の拠点を落とされた。
臣下の言うことに耳を傾けるのはもちろん、どんな卑しい身分の臣民の言うことにも耳を貸し、信頼のおけると思った時には、敵の捕虜の言うことでさえ、取り入れた。
自分の至らなさを知り、他人をよく知る心構えを持っていた皇帝は、我々にとって、まさに理想の君主でおられた。
その皇帝のお気が乱れ始めたのは、3ヶ月前のことだった。
ある日、皇帝と長年連れ添った愛馬が死んだ。
ある人間の、卑劣な裏切りによって、病気となったのだ。
さらに、愛馬が亡くなったしばらく後に、今度は、皇子殿も亡くなられた。
皇帝の長子であり、愛らしい少年であった皇子様も、先日に亡くなった愛馬と同じように、同じ病で亡くなられた。
それから、皇帝は理に叶わぬことばかりやるようになった。
勝ち目のない戦争を始めようとしたり、真面目な臣民を処刑しようとしたり、寝台や王座で刀を抜き放ち、いきなり人や物を斬りつけたり。
最初は、お気を乱された皇帝を宥めすかし、手を焼きながら、我々は、「ああ、この方もやはり人間であったのだ」と安心さえ覚えたものだった。
いつか立ち直るまで、ご一緒しよう。
そう心から思った。
しかし、皇帝のご乱心は酷くなるばかりだった。
ある日、皇帝はとうとう、暴君となられた。
その日、皇帝は、王宮の官僚になろうと試験にやってきた、純朴で賢い子どもを、死刑にしようと言い始めた。
その時、その場に立ち会った近侍は、皇帝をなんとか諌めようと子の前に立ちはだかった。
皇帝なら、ここで臣下の話を聞こうとしたはずであった。
しかし、あの日の皇帝は止まらなかった。
ご乱心を諌めようとした忠臣を、その子諸共酷い処刑にかけ、私たちに宣言した。
「これから朕に楯突こうとするものは、もはや皆こうなると思え」
私たちは沈黙するしかなかった。
もはや人が変わったように思えた。
その時、無力感に俯いた私の脳裏に閃いたのは、皇帝にかけられた言葉であった。
皇帝がまだ名君であられた時に、臣下に口癖のようにしみじみと言われていた、いつもの言葉であった。
「朕がもし間違ったことをしようとしたら、皆必ず止めてくれ。遠慮なく、朕に意見するのだ。…そして、それでも止まらなくなり、朕が暴君となった時には、お前たちが朕を殺してくれ。朕は、この国を貪りたくはない。この国の民たちを苦しめたくはない。そうでなくとも、皇帝というものはもともと国益に寄与すべきなのだ。国を思いやれぬ皇帝など皇帝ではない。…朕を殺したとしても、暴君から国を救った者になら、臣民たちも、惑うことなく、素直に従うだろうて…。…だから、その時は頼むぞ。お前たち」
稀代の名君であられた皇帝のあの、愛の深い、しみじみとした語り口を、私は思い出したのだった。
だから、私たちは帽子をかぶって、ここまで来た。
武官の帽子をかぶって、廊下を歩くのはこれが初めてであった。
帽子をかぶり直す。
扉の向こうには、今も皇帝がおられるはずだ。
私たちの愛すべき、愛しく賢明な皇帝が。
私たちは帽子をかぶって、扉を押し開けた。
錦の絨毯が、きゅっと音を立てた。
1/28/2025, 11:01:41 PM