電話よ、無線よ、鳴らないでくれ。
いつもそう念じながら芋を剥く。
この仕事に就いてから、もう5年が経とうとしている。
5年。5年だ。
俺が仕事を始めた年に生まれた赤ん坊が、もう一端の口を聞くくらいの年数。
その間、俺はただ前線にも行かず、この通信中継地で芋を剥き、電話と無線をとる仕事をしている。
ここで働き始めてから5年ということは、護国大戦が始まってからはもう8年も経つ、ということだ。
この天変地異の如く降ってきた戦争に、8年。
暮らしが戦時一色になってからもう8年だということだ。
この戦争は、突然始まった。
予兆はいくらでもあった。
隣国が他国を侵攻して増大を始め、うちの国もまた、大きくなろうとしていた。
そして、10年前、ついに隣国の侵攻地と我が国の侵攻地がぶつかった。
こうして、国の総力を結集した、血泥沼の戦争は幕を開けた。
うちも隣国も、技術を重んじる大国であった。
もっとも、国土や肥沃な土地がないために、そうなるを得なかった地域であったための特徴だが。
しかして、技術大国同士の戦いは、激化し、時ばかりを消費して、犠牲と憎悪ばかりが膨れ上がった。
もうどちらも後へは引けなかった。
侵攻権を得るために侵攻地でいざこざした戦いはたったの2年で、あっという間に国の存続をかけた、互いに互いの国の土を踏み躙る、生存戦争へと変わった。
“侵攻戦争”が“護国大戦”となった。
あれから8年、ずっと護国大戦が続いているのだ。
俺たち若者が前線に志願するようになった頃は、国を護るために兵士になるものがほとんどだった。
俺は友人達と一緒に、前線の兵になりに行った。
国を護る戦士になりに行ったのだ。
しかし、俺は兵にはなれなかった。前線へはいけなかった。
俺は軟弱だったのだ。
昔から肺が悪かった。
それでも国を、家族を護りたい。護国に貢献したい。そうゴネてゴネて、ようやく手に入れた仕事はこれだった。
人的資源損害報告員。
またの名を、戦死告知員。
前線で死んだ兵士の戦死をその兵が残した大切な銃後の人たちに伝えるため、そして、お偉方が戦地の人的資源損害を知るため、戦死者を把握して、自国まで伝える仕事。
俺はそんな連絡無線の中継をしている。
戦争では、人の死なない戦地はない。
従って、戦争の死者を伝えるこの中継地で、電話や無線の鳴らない日はない。
俺は仕事のためにメモを持って電話を取り、その時に知るのだ。
俺と同い年の男が母を遺して死んだこと。
懲罰部隊でいた身寄りのない囚人が孤独に死んだこと。
俺より二回りも年上の人が子供を遺して死んだこと。
何百人もの人を助けた看護婦が死んだこと。
捕虜から救い出された女性兵が不審死したこと。
俺よりずっと若い誰かが泣きながら死んだこと。
もうたくさんだ。
電話よ、無線よ、鳴らないでくれ。
そう思いながら起きて、飯食って、それでも詰所の電話は鳴る。
Ring Ring…
広げた手を眺めて、メモもペンも触りたくない、ノートなんて開きたくない、なんて思っても無線は鳴る。
Ring Ring…
それで俺は鈍い腰を上げて、せめて最期の時や生死くらいは残されたやつに伝われって、そう思いながら、受話器を取る。
できるだけ注意深く、仔細に聞いて、メモを取る。
そんな時にも、無線や電話のベルは鳴る。
Ring Ring…ってな。
嫌な仕事だ。気が狂いそうな毎日だよ。
だからここにこんなダサい独白を残すんだ。
こんな馬鹿げたことがこれからないようにな。
俺は名もない、武功もない、勲章もない、ただの通信員だ。
だが、そういう奴の戦記も悪くないだろう?
じゃあ、これを読む誰かよ。これは出来るだけ長く、いろんな奴に読ませてやってくれ。
こんなことが起こらないように。
こんな馬鹿げたことをする男が、俺以外に出ないようにな。
頼むぜ!
ある通信中継基地に残された手記
風に背中を預けてゆっくりと進む。
背を押す風は強い。
ちょっと痛すぎるほどに。
眼前には、青い海と青い空が広がっている。
荒くれた波が打ちつけている。
鳥人が飛べるというデマが広がって、もう随分と日が経つ。
そう、デマ。
僕たち鳥人は確かに翼を持っているが、空を飛ぶことはできやしない。
僕たちのご先祖さまは、空で鳥の一員になることを諦め、人類の一員となることを選んだのだから。
鳥のような軽い骨では、重力に逆らって、人間のように真っ直ぐ立つのは難しい。
僕たちはせいぜい、空を滑るように落ちることができるだけだ。
しかし、ある日、滑空して落ちる鳥人を見た他の人類は、鳥人もまた、鳥のように飛べると思い込んだ。
ソイツの投稿はあっという間に世界に広がって、世界中の人が、その勘違いを正しいことだと思い込んだ。
おかげで鳥人は、偏見という厳しい風当たりに晒され始めたのだった。
しかし、鳥人族というのは、風を読むのが上手い。
強かな鳥人族は、その勘違いをうまく利用して、人類社会での活動範囲を広げていった。
航空に関する仕事を請け負ったり、風を読む仕事に就いたり。
飛べなくても、他の人類より空と親しい僕たちは、空のスペシャリストとして生き続けた。
しかし、それも数十日前に終わった。
「鳥人は空を支配することで、人類のトップにのし上がり、他の人類を迫害しようとしている」
今度はそんな噂が流れたのだ。
人の噂は七十五日というが、まだこの噂はなくなる様子がない。
こうして、僕たちは人類から憎まれ、追い立てられるものとなった。
そして今、僕はこの崖から飛び降りろ、飛んで見せろと追い立てられてきたのだった。
今日の風は、内陸から海へ向かって吹いていた。
強く、冷たい風が、背中を強く押している。
僕たちを追い立てた後ろの追っ手にとって、そして今、落ちていこうとする僕にとって、この風は追い風だ。
僕は風に背中を預ける。
強く冷たい追い風に。
足元の海は波立っていた。
強く冷たく渦巻いている。
風に背中を預けて、僕はゆっくり足を踏み出す。
波が、風に煽られて強く打ちつけていた。
肉の甘さを噛み締める。
ああ、素晴らしい生活だ。
時間をかけて味わう。
纏わりつくような肉の甘さも、口の中で反発するような弾力も、はち切れんばかりの舌触りも。
君と一緒にいる証だから。
しっかり味わわないと。
私が動けるスペースもだいぶ狭くなった。
体が大きくなったから。
君の食べる量も、動く量も増えた。
もうすぐだ。
もうすぐ私は、日の目を見れる。
私と君の関係は逆転する。
私は君と一緒に、外の世界へ出ていける。
皮膚に酸素が張り付くこともなく、足や体が十分に伸ばせないこともない、自由で明るくて厳しい、外の世界へ。
そのために私は大きくならなくてはならない。
だから、私は食事を続ける。
肉を食いちぎり、丁寧に、丁寧に、君を取り込む。
君と一緒に、広い空の下に出るために。
君と一緒に、大人になるために。
君と逢えたのは運命だと思う。
私は、生まれて、君に卵を産みつけられた時から、君が好きだった。
あの、みずみずしい鮮やかな緑と、てちてちと規則正しく動く、あの足が好きだった。
体の中の、温かくて優しいあの振動が好きだった。
私は君の隅々まで好きだった。
だから私は君の中で羽化をする。
君の願いも、苦悩も、悲しみも。
君の肉も、血も、酸素も。
全部噛み締めて、君の中身をすっからかんにして、君の希望を願いを叶えてあげる。
キャベツ畑から飛び立ちたいという、君の夢を。
一緒に叶えよう。君と私で。
私は今日も君を噛み締める。
君の体内の中で、君の肉の甘さを噛み締める。
君の吸った酸素に生かされて、君の気持ちに共感しながら。
私は君と一緒に私になる。
君と一緒に、成虫になる。
私は肉の甘さを噛み締める。
ああ、素晴らしい生活だ。
でも、そろそろ変化が欲しい。
私と君の生活に、青い空が、新鮮な空気が、君を体内に収めたという満足感が、華が欲しい。
私は君の甘さを噛み締める。
羽化の季節はもうすぐそこまで来ている。
雲ひとつない空が広がっている。
葉がすっかり落ちた、やせ細った枝の上で、カラスが鳴いている。
日が出ていて、風がなければ、冬晴れの昼は暖かい。
暖かい太陽は、真っ青な空に高く登っていて、金色の煌めきを、地面の真っ白な雪たちに投げかけている。
嵐の前の静けさ、とは、こういうことを言うのだ。
手袋ごしに悴んだ手で薪を拾い上げて、ため息をつく。
この星が雪と氷に覆われてはや10年。
気温は下がり続け、夜の吹雪はだんだん酷く残酷になっている。
今夜も酷い吹雪になるはずだ。
研究棟の気象予報士のみんなが、口を揃えて吹雪を予報しているのだから。
今夜はいったい何人が、寒さで眠れなくなるだろう。
いったい何人が、寒さの中で永遠の眠りにつくだろう。
世界がずっと吹雪で、ずっと薄暗い雲に覆われた寒い寒い世界なら、私たち人類も、諦めて滅ぶことができたのだろう。
しかし、太陽は暖かい。
こんな寒くて凍える世界でも、日中、特に晴れの日は、すこし暖かい。
だからこそ、夜が、吹雪が、雪が。
私たちはまだ怖いままなのだ。
少しでも寒さを凌げるように、私は寒さの中で薪を拾う。
カチカチに凍りついた小枝を、藁束を。
厚い厚い雪の中から。
そうでないと、寒さと吹雪の恐怖にどうにかなってしまいそうだから。
太陽が雲ひとつない空の上で輝いている。
痩せ衰えた木の上で、カラスが鳴いている。
氷点下の世界でも、日の光は厚い雪の上に煌めいていた。
また始まった。
石炭を溶鉱炉に放り込みながら、ため息をつく。
「幸せとは!」
今日も幸せを説く外の人たちがうるさい。
ガラガラと音を立てながら、重い歯車がゆっくりと回っている。
水蒸気が回してくれているのだ。
石炭を投げ入れながら、煙を吸い上げてしまって、慌てて咳き込む。
この職場は、喉と肺に優しくない。
石炭の燃える煙が、ありとあらゆるところで黒煙をあげて、立ち込めているからだ。
「美味しい空気を吸うのが幸せ!」
外で何かがそう叫んでいる。
大抵、昼のこの時間帯に外で幸せを説くことができるのは、仕事を持たない者、仕事をしなくても暮らしていける者たちのみで、昼間にのうのうと幸せを説けるだけ、奴らは少なくとも、こうして昼に肺と喉を犠牲に働いている私らよりは幸せだろう、と思う。
…とは思いつつも、今の現状に不満があるわけではない。
毎日の仕事は体力を使うが、街を支えているというやりがいで心は満ちているし、肺や喉をやられていても、家族がみんな楽しく暮らせている。
空を汚しているこの石炭が生み出した機械の技術で、先の戦争で足を失った父さんも、義足をつけて自由に歩き回れている。
あの黒煙が上っているおかげで、私たち人間はキツい肉体労働を全て機械にさせることができる。
この街では、綺麗な空気を吸うのが幸せなんて話はこの街で働いたことのない、一部の“幸せ”な人たちの戯言で、だからこそ、労働者階級の私たちは、彼らを無視していた。
この街の空は今日も黒い。
でも私たちは、今日も幸せだ。