たった六文の年越し蕎麦を啜る。
今年も終わる。また一歳年をとる。
「良いお年を」はよく忘れてしまう。
話しているうちに、これが今年最後の出会いだということを忘れてしまうのだ。
代金を払ったり、近況報告をしたり、そういう、細やかなあれやこれやの前では、年が終わるだなんて大局的で大雑把なことは忘れてしまう。
そして、見送った後に、(良いお年を、と言えば良かった)と一人で反省をしながら、隙間風に身をすくめる。
最近の数日間はそうやって過ごしてきた。
きっと、ここ近年は、貧乏神や福の神にさえ、「良いお年を」を言い忘れているのだろう。
毎年毎年、改善もしないが、悪化もしない、そんな年末を細々と暮らしている。
そして、今年の決済をすっかり終えた後、屋台を呼び止めて、たった六文の年越し蕎麦を啜る。
年越しはいつもそう。
そして、屋台のおっちゃんにさえ、「良いお年を」を言い損ねるのだ。
蕎麦を啜り、かき揚げを齧る。
年末でも蕎麦は変わらず美味い。
いつもと同じ夜闇。
いつもと同じ蕎麦の味。
いつもと同じ屋台の色。
けれど明日は今日とは違う。
明日は新しい年が来る。
良いお年を。
そんな言葉と一緒に酒を飲む。
もうすぐ年が明ける。
今年が、終わる。
マイ、プレジデント
一年が終わります
今年の書類をまとめて、端を揃える。
もうあと数時間で今年が終わる。明くる年がくる。
メディアでは、すでに“一年間を振り返る”という言葉が、どこかしこで聞こえる時期になっている。
年末になっても、我がプレジデントに仕事納めは来ない。
公の長と呼ばれる立場たるもの、年末年始にも休むわけにはいかないのだろう。
私はこたつで、そんなプレジデントの働きぶりを見ながら、自分の家の書類整理をしている。
本当は年末年始も仕事をするつもりだったのだが、無理矢理休みを入れられてしまった。
「きちんと休んで、きちんと自分の一年間を振り返りなさい。私込みの仕事のことだけでなく、私生活をね」
プレジデントはネクタイを絞めながらそう言って、私に休みを押し付けた。
こうして私は、家に帰って、家の大掃除に精を出しながら、この一年を振り返る。
プレジデントの言い付けに従って。
書類整理は一年間の振り返りにはぴったりの作業だった。
なにしろ、今年はプレジデントにつきっきりで仕事をした仕事の年だったのだから。
これは、今年の健康診断の案内。今年は特に問題なかった。
これは、家の近くにできた新しいエステの広告。あまりエステとかは行かないので、不要だ。
これは、今年の水道代の明細。廃棄が追いついてないからたくさんあるが、値段は大したことない。
今年は家を空けることが多かったからだ。
ハガキをハサミで切り刻みながら、こたつ布団に鼻を埋める。
もう12月も後半となるとさすがに寒いものだ。
つけっぱなしのテレビでマイプレジデントが、インタビューを受けている。
「この一年間を振り返って、コメントお願いします」
年末年始を返上して仕事をするテレビ局のインタビュアーが、明るい声で質問する。
私は耳を傾けながら、今年の書類に書かれた個人情報を切り刻む。
新年がもうすぐそこまで来ている。
やっちまった。
鼻に皺を寄せつつ、段ボールの中を覗いて、ため息をつく。
はち切れんばかりのフレッシュな甘い柑橘の香りを、香水の如くに振り撒きながら、ぱっつり膨れたまん丸のみかんが詰まっている。
ぽってりとした濃度の高い橙色が、目に眩しい。
生き生きとした、瑞々しい橙、橙、橙、の中に、さりげなく紛れて、はさはさと毛羽だった白と青錆の塊が、隅の方に顔を出す。
腐らせてしまった。
みかんを。
しかも発見が遅れた。
この塊の大きさなら間違いなく4個は感染している。
またあの子に怒られる。
みかんの腐敗は進みやすいし、うつりやすい。
腐ってしまったものはさっさと引き上げないと、接している周りのみかんは全滅してしまうのだ。
とりあえず、腐ってカビに覆われてしまった奴らを処分しなくては。
キッチンにビニール袋とゴム手袋とマスクを取りに行く。
正直、腐ったみかんの感触は苦手なのだ。
ぶよぶよでだるだるで掴めるだけの弾力はあるのに、掴みどころのない、あのじゅくじゅくの柔らかさ。
皺のよったじゅぶじゅぶの皮と、それを覆う、白青錆。
この感触には、いつまで経っても慣れない。
握るたびにゾワッと総毛立つ。
もし、腐ったみかんを回収してくれる業者があるのだとしたら、ぜひお願いしたい。
一回1000円とかでも全然許容範囲。有料オプションで、傷ついたみかんの検分とかもしてほしい。
でも、一回5000円とかならちょっと躊躇するかも。
まあでも、現実、少なくとも今僕が生きているこの世界線には、そんな職業存在しないのだから、腐ったみかんを回収し、箱の中で腐敗を免れたあまねくみかんたちを救い出せるのは僕しかいない。
なんてことだ。
僕はみかんなんて好きでもないのに。
むしろ嫌いだ。
匂いですら嫌い。
しかしやらなくてはならない。あの子のために。
しっかりしろ。
僕は泣く子も黙る博士様にして技術者なのだから、この難問も、華麗にクリアしなくてはならない。
こんなみかんも回収できないようじゃ、時間軸と世界線の関係性を解明し、時間も世界線も自在に移動できるようにした世紀の大博士、二代目シュレディンガーの名が廃る。
僕は耳をイカのエンペラのようにすくめつつ、再びみかんの箱の中身に向き合う。
それにしても、みかんが好きだなんて、あの子はなんて変わっているんだろう。
まあ、仕方ない。
真人間_ホモ・サピエンスは、雑食の中でもとりわけ悪食で、工夫次第でなんでも食べてしまうのだから。
この柑橘系の総毛立つようなゾッとする匂いも、あの子から見れば(正確には嗅げば)、口に唾が溜まるくらい美味しそうな香りなのだろう。
僕、猫人間_フェルス・サピエンスには、全く良さなど理解出来ないが。
しかし、僕はあの子_みかんが好きなホモ・サピエンスの子どもの養父なわけで、そのために、彼女の健全な心身の生育のため、幸せな子ども期を形成する義務が生じている。
だから、僕はみかんを回収しなくてはいけないのだ。
可及的速やかに。この、みかん箱にたっぷり詰まったみかんたちを救い出さなくては。
僕は意を決して、ゴム手袋を履く。
ビニール袋を構えて、手を伸ばす。
みかんの柑橘の香りが箱から立ち上った。
「今度の冬休みは地球に行こう」
パパの提案に乗っかって、今年は年越しを地球で過ごすことになった。
なんでも今年は地球旅行にはぴったりの年らしい。
今年の年越しは、奇しくも地球の年越しとぴったり時期が合うらしい。
こんなことは数万年に一度のことなんだって。
ということで、私たちは急遽、星間旅行の準備をすることになった。
宇宙船を予約して、星間パスポートを申請することになった。
旅の準備、服とかおもちゃとかは各自ってことになって、私はプーイのぬいぐるみを連れていくことに決めた。
心配性なママは、通信機と武器を新調した。
楽観的なパパは、旅行ガイドに印をつけた。
お姉ちゃんが、原地生物の混乱防止にって、催眠用のンジャラホが必要なんだよって、検索機の画面を突きつけながら説明した。
お兄ちゃんが、原地生物を一匹くらいお土産にしたいから、確保用のンジャラホも欲しいって言った。
地球は初めてだから、みんなワクワクしていた。
ワクワクしてた…のに。
地球についた途端、攻撃に遭った。
なんで
地球は比較的安全な異星のはずなのに。
私たちの地球侵入は原地生物には見つからないはずだったのに。
誰かが私たちを騙したんだ。
旅行会社の誰か?レンタル宇宙船会社の誰か?お隣さん?
絶対に許せない。
私以外の家族はみんな捕まってしまった。
地球の原地生物に。
何をされてるか、どこへ連れて行かれたのかも分からない。
幸い、宇宙船の攻撃機構は無事だし、武器もある。
そして、私は無傷。
私の代わりにプーイが連れていかれちゃったから。
だから、私は戦える。
原地生物に脅しだってかけられる。
ここの生物は存外小さいし、私は戦闘性だから。
ケンカは強い方なの。どうにでもできる。
だから私が連れ返さなきゃ。
そして、裏切り者を、私たち家族を騙した奴を捕まえて、倒してやるんだ。
私の楽しい冬休みを返してもらうんだ。
もしこれを翻訳している原地生物がいるなら、私の要求を書いておく。
プーイを返して。
家族を返して。
私の冬休みを返して。
それが達成されるまで、私はこの星で暴れるつもり。
いざという時に原地生物を襲うのは、大丈夫だったはず。
お姉ちゃんが検索機を触りながらそう言ってた。
だから、怒らないでね。
私の冬休みを返して、ヒト。
じゃなきゃ、つぶしちゃうんだから!
水たまりの中に、赤い何かが沈んでいた。
それは金魚のヒレのように、水の中でぶわっと広がって、水面の奥に沈んでいた。
一人きりで、大きな蝙蝠傘の中で、僕はそれを見た。
雨はぼつぼつと降り続いていた。
コンクリートから湿ったアスファルトの香りが立ち上った。
通りすがりの誰かが水を跳ね上げた。
太い雨が降っていた。
傘の取手を掴む裸の手が、ひんやりと冷たい。
雨の中に佇んでいると、周りの音がやけに大きく聞こえる。
自動車のエンジン音。タイヤの軋む音。
雨粒が地面を叩く音。
誰かの喋り声。足音。
跳ね上げられた水の音。
動かない水たまりの中の赤い塊は、音を立てなかった。
立ち尽くす僕もまた、音を発していない。
無数の雨の音の中で、僕と水たまりに沈んだ…水をたっぷり吸い込んだ手ぶくろは…黙って佇んでいた。
右手の手ぶくろが水たまりに沈んでいる。
誰かが落として、そのまま拾われずに沈んでしまったのだろう。
持ち主に気づかれることもなく。
通行人に気づかれることもなく。
手ぶくろはただ、声を上げることもできないで落ちていて、雨に濡れてずぶ濡れに膨れてしまったのだ。
手ぶくろは泥の混じった水を吸って、醜く膨れていた。
僕は手ぶくろを見つめ続けた。
なんだか、僕みたいに思えたから。
結婚まで考えていた恋人に、捨てられた僕。
就活を始めたけど、箸にも棒にもかからない僕。
単位を落としすぎて、友達にも先生にも見捨てられた僕。
水たまりの底に、手ぶくろが沈んでいた。
片手分の手ぶくろが。
雨が降り続いている。
雨雲は、雨を地面に叩きつける。
アスファルトに。水たまりに。地面に落ちているゴミに。水たまりの中の手ぶくろに。
水を吸った手ぶくろのは、ぶくぶくにほつれ、醜く、汚く膨れていた。