薄墨

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水たまりの中に、赤い何かが沈んでいた。
それは金魚のヒレのように、水の中でぶわっと広がって、水面の奥に沈んでいた。

一人きりで、大きな蝙蝠傘の中で、僕はそれを見た。
雨はぼつぼつと降り続いていた。
コンクリートから湿ったアスファルトの香りが立ち上った。
通りすがりの誰かが水を跳ね上げた。

太い雨が降っていた。
傘の取手を掴む裸の手が、ひんやりと冷たい。
雨の中に佇んでいると、周りの音がやけに大きく聞こえる。

自動車のエンジン音。タイヤの軋む音。
雨粒が地面を叩く音。
誰かの喋り声。足音。
跳ね上げられた水の音。

動かない水たまりの中の赤い塊は、音を立てなかった。
立ち尽くす僕もまた、音を発していない。

無数の雨の音の中で、僕と水たまりに沈んだ…水をたっぷり吸い込んだ手ぶくろは…黙って佇んでいた。

右手の手ぶくろが水たまりに沈んでいる。
誰かが落として、そのまま拾われずに沈んでしまったのだろう。
持ち主に気づかれることもなく。
通行人に気づかれることもなく。

手ぶくろはただ、声を上げることもできないで落ちていて、雨に濡れてずぶ濡れに膨れてしまったのだ。

手ぶくろは泥の混じった水を吸って、醜く膨れていた。

僕は手ぶくろを見つめ続けた。
なんだか、僕みたいに思えたから。

結婚まで考えていた恋人に、捨てられた僕。
就活を始めたけど、箸にも棒にもかからない僕。
単位を落としすぎて、友達にも先生にも見捨てられた僕。

水たまりの底に、手ぶくろが沈んでいた。
片手分の手ぶくろが。

雨が降り続いている。
雨雲は、雨を地面に叩きつける。
アスファルトに。水たまりに。地面に落ちているゴミに。水たまりの中の手ぶくろに。

水を吸った手ぶくろのは、ぶくぶくにほつれ、醜く、汚く膨れていた。

12/27/2024, 3:05:25 PM