煤まみれの足跡が点々と続いている。
底冷えのする冷たい雪の寒さが、冬の朝を包む。
飯を炊いた竈には、汗が光っている。
火かき棒で、灰を掻き出す。
もったりと乾燥した黒いさら粉が、こんもりと山になる。
開け放した扉から見える雪とは、全く反対の質感だ。
昔から、この灰を見ていると雪に落としてみたい気持ちがうずうずと湧いてくる。
しかし、いつもそれを諌めるように、北風が吹き付けてきて、断念する。
今日も、冬の風の寒さに思わず体を丸めて、慌てて竈の片付けを再開した。
冬の土間は冷える。
こういう山奥の木造一戸建ては特にだ。
あらかた灰を掻き終わったので、火かき棒を置いて、竈の上の鍋を開ける。
白い米をしゃもじでかき混ぜて、味噌汁におたまを落とす。
ぽしゃん、おたまの丸い部分が音を立てる。
湯気が上がる。
朝飯の香りがふわふわと広がる。
朝が来るまで竈に潜っているほど寒さに弱いのに、この山で暮らしているとは、大した根性だ。
山奥に続く煤まみれの足跡を眺めながら、うちの竈猫に感心する。
姿を見たことは一度もない。
奴は冬にうちの竈に必ずやってくるが、こちらにはいつも姿を見せない。
白飯を盛った椀に、味噌汁をかける。
雪の降った寒い朝の土間で、こうやって食べる朝飯が一番美味い。
ばあさんが存命していたなら怒られそうだが。
土間に突っ立ったまま飯をかき込みながら、三年前にいなくなったばあさんのことを思い出す。
街出身だというのに、毛皮と蓑でおしゃれなど思いつかない粗暴な暮らしにも動じない、変わった奴だった。
大雑把だが、三度の飯と睡眠にだけはまめで、朝起きてみれば、もう温かい飯が炊いてあって、鍋に豆腐を手でちぎって投げ入れながら、ハキハキと朝の挨拶をしていたものだ。
早起きだったから、奴はうちの竈猫と顔を合わせたこともあったかも知れない。
…そもそも、うちに竈猫が来ていると発見したのは、ばあさんだったような気がする。確か出汁をとったいりこをやったのだ、なんとか言っていたような。
つまり、儂とあの竈猫は、共にばあさんに餌付けされていた同じ穴ならぬ同じ釜のムジナなわけだ。少なくとも冬の間は。
起きるのが遅い儂には、竃猫の奴が生きているか知れるのは冬しかない。
冬の煤の削れ具合と、雪に残された煤の足跡にしか分からない。
竈猫にほんの少し置いてやる残飯も、食っているのは鼠か猫か虫か、すぐに奥にこもってしまう儂には分からない。
儂と竃猫の奴は、お互い独り身なのだ。
お互い、今は、あくまで一人でいたいのだ。
冬は一緒に越すが、それぞれ一人。
それが、儂と竃猫の距離。
飯を食べ終わる。
味噌汁のおかげでつるりと空になった椀だけが残る。
儂は椀を上り口に置いて、しゃもじとお櫃を準備する。
飯を移して冷ましておこう。
一人分はあの竈猫に。
あとの分は握って昼飯に。
儂と竃猫は、冬は一緒に越す。
お互い寄り添うことはなく、でもお互いの生きている余韻は感じながら。
ばあさんを思いながら。
儂は今年も、顔も知らない竈猫と一緒に冬を越す。
口語自由詩。
ノートに、そう書く。
良いデタラメって難しいものだ。
文章にしても、絵にしても、言葉にしても、何にしても。
水。
銀紙。
エビフライ。
ネズミの尻尾。
腕を動かして、とりあえず言葉を並べる。
とりとめもない言葉。とりとめもない話。
役に立たない。実用性のない。とりとめもない。
でも、意識的にしようと思えば、それも難しい。
とりとめもないは難しい。
何にしたって。
理解するのも、作るのも。
でも、理解はしなくていいはずだ。
だって理屈で説明できるのなら、説明文で良いから。
理屈では、言葉では説明できないものを、感覚でわかってもらうために、人はとりとめもない話をするのだ。
とりとめもないことを書くのだ。
そして、それは芸術になる。
そんなことを考えながら、私は今日も、ペンを取る。
今までの話をまとめると、私は芸術とは“とりとめもない”ことだと思っているかもしれなかった。
絵や詩を見た時に、最もらしい講釈をインテリ気取りで必ずする人にうんざりしながら。
芸術に意味を見出そうとする人間に、憐れみを感じながら。
こう書くと、文は意味を持つ。
とりとめもないは失われて、私は「あーあ」と思う。
とりとめもないは難しい。
特に雑談っていうものは、その中でも一番難しい。
雑談というとりとめもない話は、とりとめのなさを一人じゃ完結できないから。
合作なのだ。あれは。
とりとめもない話は難しい。
昨日友達としたぎこちない雑談や、スマホの画面に表示されているLINEの画面を見ながら、心からそう思う。
とりとめもないは一人の方が、ずっと楽に完成できる。
意味のない会話は、私には難しい。
だから、誰とでもとりとめもない話ができる友達が、私は羨ましい。
友達のあの子が、私の成績や描いたものを見て、「羨ましい」というのと同じくらいに、私はあの子が羨ましい。
たくさんの人と、とりとめもない話をして、意味はなくても何かは分かり合える、あの子が。
すごいと思う。
口語自由詩。
私はノートに書く。
雑談の方が難しい。
あの子には言わない、そんなことを思いながら。
のど飴をひとつ、口の中に入れる。
すうっとした清涼感が、腫れぼったい喉を抜けていく。
空は青い。
風は寒い。
マスクを直して、マスクをもごもご蠢かせて、口の中で飴を転がす。
柑橘系の香りがマスクの中に立ち込めて、鼻に抜けていく。
こののど飴は結構美味しい。また買おう。
冬はどうしてこんなにも喉に過酷なのだろうか。
乾いた空気は、喉の水分を否応なく奪っていくし、冷たい突風は、容赦なく喉に体に突き刺さる。
今日だって、ふと起きてみたら、喉が腫れぼったくてなんだか痛いような気がしたから、わざわざコンビニに寄って、急遽のど飴を買ったのだ。
巷では今、風邪が流行っているらしい。
あの悪名高い、インフルエンザと共に。
学級閉鎖、という単語を、世間話で頻繁に聞くようになり、学生や通行人がこぞってマスクをして歩く。
この時期の風物詩だ。
私の喉のこの違和感も風邪だろうか。
のど飴を転がす。
喉をすうっと飴の柑橘味が通り抜けていく。
風邪だとしたら、あまり悪化させたくない。
私の場合、風邪を引くと喉に来る。
喉がカスカスに乾いて、ゴロゴロとした咳のたびに、声の密度がボロボロと抜けていき、最終的には声が出なくなるのだ。
咄嗟に声が出ないのは、本当に不便だ。
会議の時に返事はできないし、ぶつかりそうになった時に相手に言葉もかけられない。
タバコを買うのだって一苦労だし、会話も難儀だ。
去年、風邪を拗らせた時は酷かった。
待てよ。
思い返してみれば、この時期の風邪は、年々酷くなっている気がする。
だとしたら、今年の風邪は、去年より声も出ないし、しんどいのか?それは嫌だ。
抗議の意を込めて、のど飴を歯の内側に軽くぶつける。
のど飴は、素直にコロコロと可愛らしい音を立てる。
のど飴はこんなに美味しくて、素直で、優しいのに、風ときたらどうだろう。
風邪ひきかもしれない私の頬を遠慮なく、冷たくはたいて去っていく。
刺すような冷たさに、思わず肩をすくめる。
風邪も風も、もう少しまあるく、優しくなってくれないものだろうか。
それこそ、飴玉のように。
風が急に強く吹く。
頬に、耳に、鋭く冷たい風が吹き荒ぶ。
私は慌てて襟を合わせて…それから思わず、風の方を見返した。
「いやなやつだね。そんなこと言うなんて」
囁くようなその声が、風と共に私の耳朶をくすぐって、そのまま抜けていったような気がしたから。
…風が一陣、吹き抜けていく。
そこには誰も立っていない。
頭がくらりとした。
熱だろうか。
もしや、風邪が悪化したのだろうか。
となると、あの声は?
風邪の見せた幻聴だったのか?
私は首を捻りながら、とりあえず、当初の目的に向かって歩き出す。
風が強く、風邪に揺れる私の背を押した。
雪は汚いものを隠してくれる。
濁った水たまりも、腐った道草も、放り出された犬のフンも、捨て置かれたベタベタの空き缶も。
白くて冷たくて重い雪で、全てを覆い隠してくれる。
汚い地面を、ふわふわな純白で覆ってくれる。
見窄らしい木と枝と土だけが跋扈する冬を、幻想的な冬に変えるのはいつだって雪だ。
だから、私は雪を待っていた。
灰色の雲を睨みつけて。
重苦しい鈍い灰色の空から、真っ白いふわふわの雪が降るのを待っていた。
汚いものを隠してくれるから。
春がくるまで、冷たい雪の中に凍らせて、閉じ込めて、ずっと隠してくれるから。雪は。
山奥の、この道端で。
私は、私を覆い隠してくれる雪を待つ。
私は醜い。
ある日、醜くなってしまった。
顔は茶色く引き攣り、四肢は弛んで長細く伸び、指は鋭い爪に支配された。
ふかふかの綿のような内毛と、ゴワゴワと猛獣らしい茶色い外毛が絡み合って、埃と毛玉の塊のように思える。
足はゴツゴツと大きくて、水も氷も冷たくない。
血も、猛獣も怖くない。
お腹が減る。何か生き物を貪り食べる。
喉が渇く。何かの血を飲み下す。
私はバケモノになってしまった。
どくどくと脈打つ臓器と、生暖かくぬるりと流れる血液とで、生きていこうとするバケモノになってしまった。
腕や爪には、まだ赤いドロリとしたものが絡みついている。
口や頬には、屑が引っかかっている。
私は醜いバケモノだった。
食欲にうなされて、何かにかまわず、生き物を喰らおうとする醜いバケモノ。
私は、そんな私が嫌だった。
見たくない。
殺したくない。
だから、私はここへ来た。
飢えを必死に押さえつけて。
獰猛に牙を向く唇をかみしめて。
雪なら私を覆い隠してくれるだろう。
醜いあれやこれやを全て飲み込んでしまう雪なら。
雪で包まれれば、まだマシな美しい死体になれるだろう。
水で膨れることも、酸化して真っ黒になることもなく、雪と氷に閉じ込められるのだから。
だから私は雪を待つ。
誰もいない、金属血と呼ばれる、山の奥深くで。
雪を待つ。
全てを覆い隠してしまうような、白い白い雪を。
灰色くにごった厚い雲を見上げる。
冷たい風が、頬の茶色い毛を跳ね上げる。
空は沈黙していた。
私は、雪を待つ。
星月夜は秋の季語らしい。
月の出ていない満点の星空が、乾き始めた夜の空気によって美しく見える。
そんな秋の夜を、星月夜というらしい。
今日も月は出ていない。
黒く染まった夜空の下に、星がいくつも落ちている。
建物や街路樹につけられたイルミネーションだ。
青や黄や赤や緑に、キラキラと、光り輝いている。
今は真冬。
どんよりとした暗い雲が、空を覆っている。
こんな夜も、星月夜と呼べるだろうか。
そんなことを考えながら、地上の星…イルミネーションを眺める。
冷たい風はカラッと乾いていて、空気は鋭く乾いている。
秋の星月夜は、貴方と一緒に見た。
昼間に貴方と、紅葉を狩って、秋晴れの空を眺めて、それから二人で星月夜を見た。
ひんやりとした人肌恋しい空気に、貴方との会話が暖かかった。
そんな貴方はもういない。
私の隣には、乾いた冴えた冬の空気が抜けていく。
乾き、冴えた空の空気は、イルミネーションを美しく輝かせている。
冬の星月夜は地に落ちた。
イルミネーションは、今日も美しい。
乾いた空を見上げる。
黒い黒い夜空が一面に広がっている。
冬の冴え冴えとした空気の中を、イルミネーションが、くっきりと光っていた。