僕が今住んでいるこの町には、雪が降らないらしい。
今日、バイトの先輩から聞いた。
秋の冷たい空気が、この小さな町を包んでいた。
変わりやすい秋の空から、しとしとと細い雨が、銀色に煌めきながら落ちてきていた。
僕は体を伸ばす。
お疲れ様です、お先に失礼します。
それだけいい置いて、上着を羽織る。
それから傘をさして外へ出る。
地元で使っていた、耐雪用の、重くて頑丈な、無骨な傘だ。
ここの町の天気なら、この傘じゃまず絶対に濡れない。
地元の山中の小さな町を逃げ出して、いろいろな町や村を転々として、もう二年になる。
山の中で、あの神様と友達になってから、僕は歳を取らなくなってしまった。
いつまで経っても成長しない僕は、少しでも長居すれば、奇異の目に囲まれてしまう。
だから、僕は根無草のように、転々と色々な地域に移動して旅暮らしをしていた。
地元はとても寒いところだった。
どれだけ寒いといえば、秋も終盤に掛かれば、雪がちらつくほど、寒いところだった。
きっと地元なら今頃、雪が降り始めているだろう。
この町はだいぶ南にある。
秋も深いこともあって、一応、冷たい風は吹いていたことには吹いていたが、僕に言わせれば、取り繕ったようにしか見えなかった。
冬は厳しく寂しい季節だ。
冬の近づいたこの時期の雨は、地元の雪が恋しくなる。
すっかり慣れてしまったこの生活の中でも、冷たく湿ったこの時期の風に当たると、幼い頃が思い出される。
まだあの神様と会う前に、同級生の人間の友達と、雪合戦をしたこと。
大人に内緒でお菓子を持ち寄って、かまくらに潜り込んだこと。
秋のうちに集めておいた木の実や木の枝で、雪うさぎや雪だるまを作って、見比べあったこと。
クリスマスまでに少しでも良い子になりたくて、両親と早起きして雪かきを手伝いに出たこと。
雪のある町に住んでいる時なら、雪かきや雪だるま作りをして、その想い出を弔うことができた。
そんな時は、胸の痛みも、少し和らいだ。
辛いのは、この町のように雪が降らない町で過ごす冬だった。
真っ白な雪が何処にもない日常は、あの普通の人として暮らした僕のあの人生が、どこにもないのだと言われているようで、キリキリと冷たかった。
しかし、僕も旅暮らしが長い。
そんな町にいる冬の過ごし方も、僕は見つけてあった。
冬になったら、ミルクパズルを買うのだ。
あの真っ白に塗りつぶされた、難しいパズルを一面、買うのだ。
冬になったら、僕はミルクパズルをする。
一面を真っ白く塗りつぶす、地元の雪を偲ぶために。
雪がないと塗りつぶされてしまって、輪郭も分からなくなる、遠い、遠い、人間だった頃の僕の記憶を偲ぶために。
僕は、冬になったら、ミルクパズルをするのだ。
僕の想い出を、僕の雪を偲ぶため。
そうして、一冬に一つのミルクパズルが出来上がれば、僕はまだ人間でいられる。
記憶を辿って、過去を抱きしめて生きていく、人間でいられるのだった。
だから、冬になったら、ミルクパズルを買おう。
冷たく湿った、秋雨が、さらさらと降っていた。
大袈裟なほど大きな傘の下から、僕は空を見上げた。
冬になったら、ミルクパズルを買おう。
僕の独り言は、銀の秋雨の灰色な根元に、静かに吸い込まれていった。
アイスコーヒーの氷が鳴った。
氷はもう半分溶けかかっていた。
とある街角の寂れたカフェの喫煙席に、体格の良いふくよかな体に、場違いな高いスーツをピシリと着こなした男が、座っていた。
男は退屈そうに、アイスコーヒーのグラスを傾けて、ぼんやりと氷を覗き込んでいた。
男は、コーヒーに手をつけようとしなかった。
職業柄、依存物の恐ろしさとそれに取り捕まった人の愚かさを知っている男は、自身のプライベートな生活の中では、依存物の類を嫌悪し、遠ざけていた。
それは、ニコチンやアルコールのみならず、砂糖やカフェインといった悪名低い低依存物質も例外ではなかった。
依存物を避ける生活を送っている男の日常では、喫煙席に座ることはおろか、カフェに訪れると言うことも、非日常なイレギュラー的行動であった。
「あの痩せ狐、いったい何処で油を売ってるのでしょうかね」
男は、コーヒーの中の溶けた氷にも辟易して、グラスを置きながら、溜息混じりに毒吐いた。
彼は商売敵の狐顔の男を待っていた。
商売敵…といっても、彼とその男の個人的折り合いが悪いだけで、実際には、同じ穴の狢、ともすれば男の商売が彼の顧客の資金源にもなり得るという、謂わば共同他社のような関係性であった。
さる男は、約束への異常な執着と手段を選ばぬ卑劣さを除けば、欲望に忠実で楽しみを求める、一歩踏み違えれば勢いよく坂を転げ落ちてゆくような、ある種平凡な、人間らしい人間であり、そして、この界隈を寝ぐらとする大抵のステレオタイプの例に漏れず、喫煙者であった。
彼は狐顔の男と会話をするのはあまり好きではなかった。
しかし、かの男とこの男は、恐ろしく因縁が深いらしく、度々顔を合わせ、渋々協力し合うのが常であった。
彼と男は、謂わばはなればなれの関係性であった。
友人でも、完璧な敵でもなく、利害関係で親しくなったと思えば、すぐに別れる、そんなはなればなれの縁。
それが、彼らだった。
だから、親愛さはともかく、彼とかの男の付き合いは、長いものだった。
狐男は、組織の足であったために、この辺の近況情報はかなり握っていた。
その情報目当てに、彼はその男との付き合いを切らずに置いていた。
そして、今日のように、この界隈にちょっと気になる異変があった時には、暇な時間に、男の出そうなところで時間潰しをするのが、彼の習性だった。
いつもはこの時間帯のこの場所なら、すぐに出くわせるはずだった。
煙たいヤニの香りに鼻を顰めながら、男は狐男の身を怪しんだ。
「まさかサツにつけられたのではないでしょうね。あの低脳狐」
彼は、警察及び国家権力が苦手だった。
普通に持ち歩いているものでさえ、法に触れるからであった。
彼は、そういう煩わしい面倒事で騒ぎになるのが嫌いであった。
彼は、手元のグラスを覗いた。
氷はもう殆ど溶け切って、グラスの外側に結露が滴って、洒落たテーブルを濡らしていた。
溜息を一つ吐き、彼は立ち上がった。
「やはり、噂は本当だったのかもしれませんね」
噂というのは、二週間ほど前、この辺りをシマとしていた、取り立てやの細面の男の死体が見つかった、というものだった。
その男は、路地裏で背側の腹部に刃物を突き立てたまま、狐によく似た細い目を瞑り、冷たくなっていたらしい。
ともかく、彼はカフェを出た。
どうやら今度こそ本当にあの狐と私ははなればなれになれたらしい、と思いながら。
秋の風が、大通りを抜けて細い路地の方へ、吹き抜けていた。
黄金の稲穂が頭を傾いでいる。
赤く焼けた空に、実った穂が一斉に頭を下げていた。
音は全くない。
不自然なほどに静まり返っている。
不安だった。
不安だけが、漠然とこの世界を覆っていた。
私は、その静寂の只中に、ぼうっと立ち尽くしていた。
さっきまで、冷たく冷えた夜闇の中を、家路を辿っていたはずだった。
繁忙期の残業を終えて、ガチガチに覚めてしまったかすみ目で、コンクリートの道を歩いていたのだ。
確か、あの時、どこからともなく子猫が呼んでいるような声がして、ああ、子猫がいるんだ、どうしたのだろう、と道を外れて辺りを探し回ったのだ。
子猫の呼び声はまだしていた。
私はその声を頼りにして、子猫を探して、探して、スマホのライトをつけて、辺りを見回して…
…それで、結局、子猫はいたのだっけ?
思い出せない。
ここはどこだろう。
急に足元がざわめいた。
周りで頭を傾けていた稲穂たちが一斉に、ピンと背筋を跳ね上げた。
足元が不安定と分かると、漠然とした恐怖が、漠然とした不安の中から急速に頭をもたげてきて、激しく混ざり合った。
低い、低い、轟くような声が、遥か上から聞こえた。
小さく、甲高い、驚くような声が、足元の地から湧き上がるように上がった。
その声を聞いてハッとした。
記憶の中にある、あの子猫の呼び声にそっくりだったから。
しかし、なぜ?
私の思考回路は、もうぐちゃぐちゃだった。
さざめくように周りの黄金の何かが伏せって、地が大きく揺れ騒いだ。
不安と恐怖が、私を強く苛んだ。
私は何処にいるのだろう。子猫は何処にいるのだろう。
だってこの地には、動物の気配など私以外には、とても感じられないのに。
風を切って進んで進んでいく末に、また上から、包み込むような声が聞こえた。
「あらあ、みぃちゃん。何処行ってたの?」
「にゃあん」
甘えたような声が、私と黄金の毛皮を包む。
その時、私は、閃光のように気づかされた。
私は、子猫の毛の最中にいるのだ。
子猫の、ふわふわで天鵞絨のように滑らかな、あの滑らかな毛皮のコートの中に立っているのだ。
立ち尽くしているのだ。
その証拠に、外の声とは裏腹に私の周りは、なんの音も立てない。
気づけば、静かな、静かな空気と微かな獣の香りが、ふわふわの中に立ち込めている。
みぃちゃん、というらしい子猫は、餌を食べていた。
あの声の主に貰った、高い高い餌を食べていた。
私がここにくる前に、誰が買うんだ、と悪態を心の内でついた、あのキャットフードを、当たり前のように食べているようだった。
ああ、あの声は罠だったんだ。
子猫の、自分の武器を惜しみなく生かした巧妙な罠だったんだ。
そう悟って、悟った途端に、糸が切れたように恐怖も不安もなくなった。
ただ、安らかな、謎の心持ちがたっぷりと、私の心も思考も満たしていた。
薄のごと 流る秋波は 多かれど
この文のみは 透垣の蔦
蔦育ち 透垣ふみて 越え行けば
蔦の頭は 秋風に向く
よのなかに 流る秋風 躱しつつ
変わらぬものは 透垣の蔦
秋風は 野分のごとく 吹き荒ぶ
枯れた蔦取り いとさぶしもの
野分にも 勝ちし蔦には 寄る辺あり
君の添木に 勝るものなし
根の強し 蔦とや見るや 君が蔦
我が木の下へ 居懸からんや
寄り合って 見る望月の 影優し
冷たき秋風も 温き東風
望月の 下寄り合った 蔦と木を
誰か裂かるや 野分も秋風も
秋恋の 言葉思ひて 夜を明かす
一人の蔦は 心許なし
秋風の 便りのみ聞き 夜を明かす
蔦のみぞ待つ 秋の長夜
今日の月 送れよ風よ 君がもと
我が心根の あまた全てを
君が来ず 文運びくる 風の音は
冷たく柔く 秋風のごと
秋風に 吹かれぬものなど あらざれば
頼るべきなし 蔦も文も
その日の麻婆豆腐は会心の出来だった。
ピリッと辛い豆腐を飲み下して、しばらく、さっきの言葉の意味を考えていた。
目線の先では、あなたが無表情で食事を頬張っている。
チェーン店から取り寄せた、一人分のフライドポテトとパンケーキセットを齧りながら、あなたはさっきの言葉を繰り返した。
「…そういうことだから。やっぱり私たち、合わないよ。さよなら。…また会いましょう、いつか」
尚も喋り続けるあなたが、遠く遠く思えた。
私とあなたが出会ったのは、少し昔のこと。
ちょうど、今日と同じように暖かい秋の日で、雨が降っていた。
私が差し掛けた傘に、あなたが柔らかく微笑んで入って、二人で取り止めのない話をしながら、帰路を一緒に歩いた。
自動車が、秋風と雨を掬い上げながら通り過ぎて、「なんで今まで話したことなかったんだろうね。こんなに話が盛り上がるのに」と、笑い合った。
あの日から、私とあなたは仲良くなった。
私たちは友達になり、親友になり、自立する段には、一緒に暮らし始めるほどの仲になった。
けれども、私たちは正反対だった。
ご飯は辛いものが好きで自炊中心。食べ物はなんでも食べて、ちょっと素敵な食器を買って、キチンと三食、たくさん食べる私。
甘いものが好きで料理は苦手。食へのこだわりと偏食少食で、食事よりも趣味や生活が大切なあなた。
毎日、朝早く起きて日光を浴びたい私。
出来るだけ長く眠って、のんびり過ごしたいあなた。
課金やサービスに使うお金は節約する私。
課金やサービスにお金を使うために日常生活を切り詰めるあなた。
服は身だしなみを整える程度でいい私。
少しでも綺麗になりたいあなた。
私たちはよくよく知れば何もかも正反対で、一緒に暮らすにはあまりにも噛み合わなかった。
きっと、人と人が一緒に過ごせる時間には限界がある。
私たちは、きっと、一緒に長く居すぎたのだ。
最近は、私とあなたは顔を合わせると、すれ違いと喧嘩ばかりだった。
顔を合わせたあなたは、いつも眉間に皺を寄せていて、ついつい私もしかめ面になる。
あなたの行動に、私がイライラしてしまう。あなたも負けじと言い返して、ひとしきり水掛け論をして、最後には、冷たい沈黙だけが、私たちの間に横たわる。
分かってる。
あなたの提案が正しいことも。
私たちの関係は、もう終わりだということも。
…それでも。
それでも、私の中にはあなたと過ごした、楽しい日々が満ちている。
あなたがくれたもの、あなたがしてくれたこと、あなたと笑ったこと。
冷め切ったこんな仲になった二人でも、もう合わない方が良いのだとわかっていても、本当に終わりなんだと知っていても。
どうしても、心の奥で望んでしまう。
また、あの日に戻りたい。
もう一度、笑い合いたい。
もう一度、賑やかに会話をしたい。
もう戻れないと知っていても。
だから、これが一緒に食べる最後の食事なのだとしても。
あなたの、ジャンクでおやつみたいな食事に、どれだけ辟易していたとしても、私は言ってしまう。
「…うん。また会いましょう」
今日はきっと、私とあなたが絶交する、二人の最後の日。
それでも、最後でも、私たちの別れの文言は変わらない。
私もあなたも変えられないのだ。きっと。
たとえもう二度と会えないとしても。
「「また会いましょう」」
私とあなたはそれだけ口を揃えて、それから別々に、歩いていくのだ。