白光りする刃物の下を潜り抜ける。
追いつかれる訳にはいかない。
必死に足を動かして、体をすくめる。
屈んだ頭上を、ピカピカに磨かられた刃渡りが、一線の光を描いて、通り過ぎていく。
食事前のスリル満点の追いかけっこ。
この暮らしを始めることになってからの日課だ。
テーブルの大きさや、ナイフの間合い。
もうすっかり体に染み付いている。
ここは、とある商船の中。
いつでも人間がいて、猫が飼われている商船上は、僕たちのようなネズミには、危険がいっぱいの、恐ろしい棲家だった。
しかし、僕が前までいたところに比べると、そんな危険はスリルと呼んで楽しめるくらいの危険だと笑い飛ばせる。
ここに来る前、僕は研究施設、とやらにいた。
スリルなんてものじゃなかった。
あそこはここ以上に、恐ろしい場所だった。
食事は出るが、その食事に何が入っているか、分かったものではない。
それだけではない。
いきなり乱暴に掴み出されて、追いかけ回されたり、激痛の走る何かを皮膚に押し付けられたり、突然電気に追い立てられたり…
あそこは地獄だった。
立派な寝床はあったけれど、気が休まる時は一時もなかった。
だから僕は逃げ出した。
研究施設から外へ出るのは、“セッケン”などと呼ばれるあの包み紙たちだった。
あの時。
僕はあの仲間たちの中で唯一、上手く包み紙に逃げ延びた。
包み紙は段ボールに積み込まれ、この船に乗せられた。
これは幸いと、僕はこの商船に転がり込み、棲みつくことにした。
猫に気づかれないように、包みと段ボールを齧るのは、スリル満点な上に大変だったが、あの施設で変な迷路に押し込まれて、電気に怯えながら彷徨った時と比べれば、ずっと楽しい、スリルの範疇だった。
それから僕はずっとこの船にいる。
初めは、適当な陸地で船を降り、田舎に棲家を探そうと思っていたのだが…。
船旅というのは、案外楽しいものだ。
何処かの港に停まるたび、積荷は変化する。
物珍しいものや面白いもの、変わった味のもの、一風変わったもの、極上のもの…。
船に乗り込んでくる人や生き物も変わる。
痩せ細ったのや動きの鈍いの、キビキビと動くもの、賢いの、優しいの…
いろいろなものや人が見られるのは、新鮮で楽しかった。
食べ物は、人間のをくすねれば、日替わりで豪華で良いものが食べられる。
食前食後に、命懸けの追いかけっこも、慣れると良い運動になって、楽しかった。
暇な時は、人間や猫やカモメを揶揄かうといい。
大きな生き物が、僕を追い回した挙句に間抜けな面を晒すのは、とても面白かったし、上手く逃げ延びた時の満足感や愉しさは、ちょっと中毒になりそうなくらいだった。
というわけで、僕は今も海の上で、船上生活を行っている。
賢い旅ネズミとして。
ここの危険は、楽しいスリルで、僕の生活のスパイスになっている。
おおっと、危ない。
僕は人間の刀を交わして、人間の視界を切るために素早く梁に登る。
猫がやってくる音を耳にとらえながら、一気に登り終える。
それから猫の目の前に出し抜けに飛び出し、そのまま勢いで、壁の隙間に体を捩じ込む。
猫の爪が尻尾の先に掠めて、空振った。
やれやれ。
僕は丁寧に尻尾を点検し、毛皮を撫でながら落ち着く。
スリルはやっぱり良いものだ。
壁の外からは、間抜けな生物たちの騒ぐ音が聞こえる。
僕はそれを肴に、ゆっくりと取り上げたチーズを齧る。
スリルは、楽しい生活に欠かせない良いスパイスだ。
青く冴え冴えとした水面の上で、白鳥が眩く白い翼を、羽ばたいていた。
飛沫が上がって、水面は歪む。
しかし、いくらその立派な翼が羽ばたいたとしても、白鳥の体が、その青い水面から浮き上がることはなかった。
私は伸びをして、中庭に歩み出した。
中庭に大きく作られた、青い池に、白鳥や水鳥がのどかに浮いていた。
池に浮いている鳥たちは、どれも、とても美しく大きな翼を持っていた。
しかし、奴らはこの屋敷で飼われている鳥だ。
風切り羽が切り取られている鳥たちで、その美しい翼が彼らの体を空へ浮かすことは二度とない。
飛べない翼を煌めかせた美しい鳥たちだ。
空を見上げる。
人面を顔に貼り付けた鳥が、小さな翼を目一杯広げて飛び交っていた。
呪術師が使役する呪獣たちだ。
おそらく主人から言伝を賜って、届ける最中なのだろう。
彼らはしゃがれた羽をはためかせて、それでも空を舞っていた。
目の前を、ずんぐりとした蜂が飛び過ぎていった。
不恰好な体に見合わなぬ、ちぢれた小さな翅をうるさく動かしながら、飛び去っていく。
うん、いい暮らしだ。
王家お抱えの呪術師一族が治める、呪術師の地に、二ノ妃として嫁いで、そろそろ二週間が経とうとしている。
呪術師の家に嫁ぎたがる娘は、なかなか居ないらしい。
しかも、その家の第二の嫁としてなど。
よっぽどの変わり者しか行きたがらないというので、この家に嫁ぐ娘を出す家は、持ち回りで決まっていた。
私の家は、ちょうどこの世代にあたっていた。
一ノ妃は、ぽってりとした唇とスッキリとした目鼻立ちが美しく、夫にも大切にされて、煌びやかで、私よりもずっと美しかった。
だから、私にはちょうど良かった。
私は変わり者だった。
お洒落にはあまり興味がなく、自由を愛していた。
人に幸せにしてもらうなど、真っ平ごめんで、夫に普通の人を当てがわれるのも、真っ平だった。
だからこの縁談を父から頼まれた時、一も二もなく受けた。
私は、あの池に浮いている鳥たちのような、綺麗な大きな翼は欲しくなかった。
ちょうど目の前を飛んで行ったマルバチや、空をしきりに飛び交う呪鳥のような、醜く小さな羽が欲しかった。
飛べない翼なんていらなかった。
だからワクワクしながらこの地へ来た。
実際、この地での暮らしは楽しい。
当たり前の教養として語られる呪術の話は、どれも目新しくて、好奇心を満たしてくれる。
二ノ妃ということもあり、身分はそこまで上に扱われないため、自由はよく効く。
呪獣の世話や書籍の読破や散歩や…構う人のいない時間は、そうやって有意義に充てられる。
私用の館の一角、二ノ館は私が管理するよう承っていた。
一ノ妃には補佐がつけられたらしいが、妾にあたる私にはそれがない。
が、それも楽しい。
なんやかんやとやりくりをし、使用人たちの人間関係を鑑み、時には一緒に雑用をするのも、暇ごなしになって、達成感もいっぱいだった。
豪奢で美しい一ノ妃とのお話は、初めは気を悪くされるのではないかと不安だったものの、杞憂だった。
一ノ妃は美しく、優しく、しなやかな、良い方だった。
真綿に包まれるように育ち、呪獣に触れないように守られた方ではあったが、その分、文化的な機転が素晴らしい人で、話していて飽きがこなかった。
私がうるさく飛び回るマルバチだとすれば、この館では最上の身分と傅かれ、非常に大事にされる、一ノ妃は、あの青い池とこの広い中庭で主として、翼を広げて暮らす、白鳥だった。
飛べない翼。しかし、眩く美しい翼を大きく広げていた。
その姿は素晴らしく気高くて、美しかったし、尊敬の対象だ。
しかし、私には真似できないと、素直に思うし、私はそこまで大きな翼を欲しいとは思わなかった。
そんな私たちだったので、待遇の差で絶妙に噛み合わない会話も、さして不満を持たない私たちの間では、ただ面白い話のタネである。
中庭を歩いて、まっすぐ一ノ館へ向かう。
今日は、その一ノ妃と、一緒に朝の散策に出る約束をしているのだ。
今日はどんな話をしようか、そんなことを考えながら、中庭を突っ切る。
日がゆっくりと照り始めている。
国中で一番恐れられている、呪術の地の領主館の朝は、平和に過ぎていく。
朝日が、穏やかに輝き始めていた。
実るほど 頭を垂れる 稲穂かな
いつぞや聞いた、そんな俳句が頭をよぎった。
それほどに、そのススキは撓んでいた。
鈴生りに実ったススキの穂が、昨日降った秋の雨粒をいっぱいに含んで、大きく、茎が折れ曲がるほど、頭を垂れていた。
すっかり秋のひんやりとした空気が、辺りに満ちていた。
自転車を押しながら歩く。
太陽が地平線すれすれまで沈み、赤々とした光を、空いっぱいに広げていた。
「ススキ、みんな濡れてるね。昨日の雨、やばかったからなあ」
隣を歩く先輩が、乾いたススキの穂みたいな、嘘みたいに軽やかな声で言った。
河川敷のススキは、どれも濡れて、ずっしりと重たそうに頭を垂れていた。
何を返すか迷ったが、とりあえず、自分の思ったことをそのまま口に出す。
「そうですね。…なんか有名な俳句を思い出しました」
「…ああ!『実るほど…』ってやつ?」
「え、なんでそんな分かるんですか?先輩、エスパー?」
「はっはっは、私ほどの先輩力ともなれば、後輩の考えていることなんてお見通しなのだよ。どうだ?私の有能さが怖いだろう?」
「怖いというより、気持ち悪いです」
「ひどい!なんて可愛げのない後輩!!」
先輩は目を剥いて、それから大袈裟に嘆いてみせる。
それは正しくいつものノリで、だから私は笑って受け流す。
「で、そんな冗談はさておき、ホントはなんで分かったんです?」
先輩は一息を呑んで、それから妙に軽く、ススキを折りとった時の、手に感じる拍子抜けなほどの重さみたいな、不自然なほどの軽さで、続けた。
「…だって、顧問がいつも言ってたじゃないか。説教とか訓示垂れる時に。礼儀なんかの」
私は、呆然となって。
ちょっと立ち尽くして、まじまじと先輩の顔を見つめてしまった。
先輩は、先輩の顔を眺めている私の視線に気づいて、節目がちに目を逸らした。
微かな、息混じりの小さな声で先輩が呟く音が、遠く聞こえた。
「そっか。これも…」
先輩は、私の憧れだったらしい。
先輩とは、小さい頃からずっと仲が良くて、一緒に試合に出るのは、私の密かな憧れだった。
だから、私は先輩と同じ部活で、どんな厳しい練習も、一緒に乗り越えてきた。
でも…。
あれは、先輩の引退試合の日だった。
あの日、試合会場に向かっていた私は、事故に巻き込まれてしまった。
気づくと、病院のベッドに運び込まれていた。
病院で起きた私には、私がなんのためにあの道に居たのか、覚えがなかった。
どうやら、記憶障害が起きていますね。記憶のことは、まだ科学的に解明されているものでもないので、はっきりとは言えないのですが、おそらく脳の損傷があったことと、事故のストレスの影響でしょう。
医者はそう私に告げた。
事故が起きて、遅ればせながら私が病院に運び込まれた時、先輩の試合は始まっていて、先輩は、悔いのない部活の締めくくりを果たした。
試合をやり遂げ、華々しい引退を飾った矢先に、先輩は私のことを聞いたらしい。
私は、部活を辞めることにした。
部活について、積み上げたはずの記憶を全部忘れてしまったから。
顧問や先輩はは休部でも…と勧めてくれたが、憶えてないことにショックを受け、遠巻きに、優しく私に話しかけてくれる部員たちに気が引けて、結局、辞めてしまった。
しかし、この先輩は、こんな私にも変わりなく接してくれた。
跡を濁してしまった後輩を、先輩は一後輩として、幼い頃からの友人として、普通に接してくれた。
しかし、時折、先輩の顔は陰った。
会話の節々で。私の表情を見て。
私は、先輩との想い出を幾つか忘れてしまっているのだから、当たり前だ。
なんで先輩はこんな私と一緒にいてくれるのだろう。
想い出も恩も忘れてしまったこんな私に。
罪悪感を生む存在の、こんな私に。
先輩の、あったはずの悔いのない青春を奪ってしまった私に。
視界の端で、ススキが重そうに揺れている。
花言葉には「悔いのない青春」というのがあるらしい。
でも、今日のススキは見窄らしくて湿ってしまっていて、とてもそうは見えなかった。
まるで、先輩の青春のようで、私が濡らしてしまったようで、とても見ていられなかった。
「…あ、これから夜、雨だって。濡れたら嫌でしょ?早く帰ろ」
先輩のその声で我に帰る。
先輩が私の手首を握っている。
ただの先輩のように。ただの友人のように。
私は、先輩に手を引かれるままに歩き出す。
「ごめんなさい」
言っても詮無いことで、自己満足だから言おうとしなかったそれが、零れ落ちる。
先輩は振り向かなかった。
ただ柔らかく手を握って、強く手を引いて。
「早く帰ろ」
明るく乾いた先輩の声が、私の耳を優しく撫でる。
私たちは、黙って歩き始める。
ススキが頭を垂れて見守る、その道を。
月が煌々と輝いている。
青白い光が懐かしい。
蹴飛ばした石が転がって、足はその後をそっとなぞって歩いていた。
夜はいい。
賑やかで、あちらこちらに生命が溢れるこの星でも、この時間帯だけは、静かで大人しくて、穏やかだ。
心から落ち着く時間だ。
この星の動物の脳裏は、まあまあの過ごし心地だ。
特にこの動物の脳は、ずっしりと重くて豊かだ。
この星のこの動物の脳裏なら、背景や思い出や景色を焼き付けて、保存することさえ出来た。
住み心地は抜群だ。
私たちは、もともとは月の衛星に住んでいた生き物だった。
しかし、この星はもう無くなった。
遠い、向こうの空から、燃え上がったどこかの星のかけらが、衝突したからだ。
かなりでかい星のかけらだった。
この星のかけらによって、私たちの星は瞬く間に砕き去るのは間違いないだろう。
そして、そのカケラが、月に大きなクレーターを残すだろうことは、私たちの中で、もはや疑いようのないことだった。
私たちには、別の棲家が必要だった。
他の星で生きていく術が必要だった。
そこで、私たちは最寄りの星に目をつけた。
地球。
幸い、私たちの最寄りの星は、宇宙のどこにも増して、生きるのには豊かな星だった。
しかし、私たちは強くなかった。
身体は大きくなく、鉤爪も牙も、武器になるようなものは何も持ち合わせていなかった。
私たちは、結果的に、共感性のみに長けた進化を遂げた種族だった。
太陽の光には、そこまで強くなかったし、他の生物との生存競争には勝てない。
そこで私たちは考えた。
そんな星で、どこへどうやって住みつけば、私たちは生き残れるのか。
ところで、この星には非常に脳が発達した生物がいた。
二本足で、大きな頭を抱えてヨチヨチと歩く、生物だ。
この生物には、隙があった。
彼らには、私たちと同じような共感性が発達しており、想像力が発達しており、私たちが忍び込み、住み込む間隙があった。
私たちは、ヒトの脳裏に棲むことにした。
大成功だった。
この星でどうしてだか、無類の強さを誇り、大量に生きているこの生物たちの脳裏は、私たちにとって、最高の器だった。
彼らは多かれ少なかれ、想像力と共感力を持ち合わせており、その思考は非常に面白く、楽しく、美味しかった。
しかも賢い器は、時にはこちらを認知した。
運が良ければ、彼らとも友人になれたりもした。
そういった賢いヒトの中に住む私たちを、ヒトは、イマジナリーフレンド、と呼んだりした。
私たちが、器にしたヒトに危機を知らせることを、器たちは、虫の知らせと呼んだりした。
私たちが印象深くて記憶した内容を保存し、時たま思い出すことを、器たちは、脳裏に焼き付いた、脳裏に浮かんだ、と呼んだりした。
ヒトとの共存は、楽しい日々だ。
私たちは、ヒトの脳裏に棲みつくようになったのだ。
しかし、時には故郷が懐かしくなることがある。
私たちの本能には、月の向こうの懐かしい昔の棲家が、しっかりと刻まれている。
たとえ、新世代の地球生まれだったとしても。
私たちは脳裏を棲家とし、脳裏で楽しく生きている。
そんな私たちには、あの月の向こうの景色が、脳裏に焼き付いている。
月が煌々と輝いている。
器のヒトの視界越しに見る月は、一層輝いて見える。
脳裏に焼き付いた月の向こうが、私たちの心に浮かぶ。
この星の夜は美しい。
足は依然として前に進んでいた。
視界は、私の気持ちに応えるように、月夜を眩しそうに眺めている。
器の脳裏で幸せを、今までの苦労と、今の楽しさを噛み締める。
月光は冴え冴えと、私たちを見守っていた。
たんぽぽが咲いている。
瓦礫と灰に埋もれた世界の片隅で。
ボロボロの灰色に覆われた町中の角で、たんぽぽだけがくっきりと鮮やかに色づいて見えた。
手に抱えた銃火器が、ずしっと重みを持った。
歌を歌おうと思った。
平和な時に、大切なあなたと一緒に歌ったあの歌を。
小さい幸せを描く、きらきらとしたあの歌を。
でも、肝心の歌詞が、メロディが出てこない。
わたしの口をついて出てくるのは、軍歌だけだ。
もはや骨の髄まで染み込んでしまった戦場の、軍歌だけ。
侵略者がやってきたその日から、この町は変わった。
ここを守るために兵が集められ、自由や警備を強化して、意味のないことは意味のあることに置き換えて、無駄を極力無くして、強くなる。
守護戦を行うための準備が進んだ。
全てはこの町を守るために。
…だが、よくよく考えれば、わたしたちの仕事に意味など、生産性などあるのだろうか。
守護者と町を守り、取り締まり、縛り付けるだけのわたしと、町の人の権利という、目に見えない微妙なものを主張するあなた。
守護者の下で、本来、生存には関係ないものを守って、感謝されようとする。
命を存続させるには意味のないこと、必要のないことを、わたしもあなたも、命を賭けて、行ってきた。
あなたとの別れは辛かった。
でもそれはただの私情でしかなかった。
わたしとあなたにとって、自分個人のひとときの感情なんて、意味のないことだった。
わたしもあなたも確信していた。
この選択は正しいと。
この選択こそ、それぞれの人生に、未来に意味のあることだと。
しかし、わたしが守りたかったものも、あなたが守りたかったものも、呆気なく滅びた。
この町は、瓦礫と灰に埋もれている。
結果的に、わたしたちの行動は、決断はそれぞれ、意味のないことだったのだ。
わたしとあなたは愚かだった。
でも、あなたよりはわたしの方がずっと愚かだ。
だって、わたしはあの歌を忘れてしまった。
思考を統制する側に回り、自らも周りにも自由を制限したわたしに、あの歌はもう歌えなかった。
わたしの記憶は、あなたと暮らしたあの幸せな日々のことが、戦場のみで力を持つ今では意味のないことに、すっかり置き換えられてしまった。
わたしもあなたも愚かだった。
意味のないことを争って、意味のないことのために戦った。
でも、あなたの方が賢かった。
最良ではなかったけど、少なくともマシな方を選べたのだから。
わたしはあなたを探している。
わたしより、少し賢いあなたなら、きっとあの歌を歌えると思ったから。
わたしは愚かだから、もしかしたらもう何もかも遅いかもしれないけど。
これだって、振り返ってみれば、意味のないことかもしれないけど。
でも、わたしはあなたに会いたかった。
あなたともう一度だけでも、話したかった。
このひっそりと逞しいたんぽぽを、あなたに見せたかった。
わたしは歩く。
家も店も道さえも崩れ去ったこの町で、無謀にも足を踏み出し、アテもなくあなたを探す。
あなたに謝るために。
歌を聴かせてもらうために。
一陣の風が、灰を巻き上げる。
しなやかなたんぽぽの茎は、強かに風を受け流す。
黄色く鮮やかなたんぽぽの花が、ふわりと揺れた。