角を曲がったら、広場に出る。
かつて、子どもたちが対向者にお構いなく、はしゃぎながら曲がっていた広場だ。
紅茶の香りが匂い立ち、はしゃいだ明るい声と深みのある大人たちの爽やかな声が行き交っていた通りだ。
硝煙の香りが立ち込めている。
石レンガの瓦礫を蹴飛ばしながら歩く。
人の気配はない。
町は静まり返っている。
町は、すっかりぐちゃぐちゃな芸術作品のように、不気味な雰囲気を纏っていた。
この町は航空中だった。
かつて、戦争に敗れた我が国は、敵帝国の残忍な軍の支配下に置かれることが決まっていた。
敵帝国は、本や思想に制限をかけ、近隣の国を次々と同化している国だ。
我が国の文化は風前の灯だった。
我が国の文化と歴史を守るため、我が国の支配者は考えた。
そして一つの結論を出した。
国は町を…都市に近いが、辺鄙で、昔ながらの小さな集落を…つまりはこの町を、逃がすことにした。
どこに逃がすか。
空だ。
敵帝国に対してはほとんど役に立たなかった気球部隊と飛行船部隊の技術が存分に使われた。
こうして、この町は町ごと、空に逃げ出した。
先回りされないように、風に任せて飛び続ける、空中都市。
この町はそんな特殊な町として、繁栄を続けていた。
いつか陸に降り立つのを夢見て。
この町は風の向くままに飛んでいた。
…あの海域に来るまでは。
最初に見えたのは、ぽっかりと空いた、黒い雲だった。
先に見えてきた海の上空、つまり町の前に、黒い雲が見えた。
縦に細長く、奥深く層になって、紫煙のように深い色をしていた。
町は、早朝を終えたところだった。
家が俄かに活気付き、通りに朝の挨拶が溢れ出て、パンを焼く匂いが立ち込めていた。
やがて、町のどこでも、朝ごはんのふっくらと香ばしい幸せの香りと、温かで上品な紅茶の香りに包まれていた。
長閑しいこの朝の町は、雲の近くを通り抜けるはずだった。
はずだったのだが。
雲の方へ、町が進んで、海へ入ったその時、町が大きく揺れた。
白い眩しい光が閃いて、みんな目を瞑った。
それから意識は薄くなっていった。
気がついた時には、幸せな香りはたち消えていた。
紅茶の香りは、パンの香りは、硝煙と味気ない何かの香りに塗り潰されていた。
そして、人がめり込んでいた。
壁に、地面に、窓ガラスに。
バラバラな人の破片が、彼方此方で無機質と繋がって、前衛的なアートと化していた。
半透明な足が、そこらに転がっていた。
パンも紅茶も香りを失って、怪物みたいな町の風景の一部にのめり、文字通り、溶け込んでいた。
この町が今、何処にいるのか。
この惨状は、何なのか。
それは全く分からない。
空も、町も、人も、プロペラさえも。
沈黙を貫いて、町は声のない静寂に包まれていた。
なぜか私は生き残った。
でも、ただそれだけだった。
誰も、何も、私を相手にしてくれず、ただ沈黙だけがそこにあった。
瓦礫を蹴り上げる。
ふっと悟った。
毎朝香る、あの私が大好きな紅茶の香りは、平和の香りであったということを。
町は何もかもが沈黙を守っていて、何もかもが滅茶苦茶だった。
紅茶の香りは、もうしなかった。
「空といえば?」
「雲。あとハロー現象」
そっけなく返ってきたその言葉を聞いて、思わず頬が緩む。
気づかれないように引き締めてから、小会議室の扉を開ける。
いつもの、取り澄ました仏頂面がいる。
「買い出し、ありがとう」
お礼を言って、手元に幾つもぶら下がっているビニール袋の一つを手に取る。
文化祭前日。
私たちは、展示の準備をしていた。
自然科学部。
文系学科に進学しておきながら、気象学への憧れを捨てられなかった私が立ち上げたサークルだ。
理系大学では競争率と年季の高そうなこの名称を、こんな新サークルが冠しているのも、この学校が数学理科アレルギー蔓延る、文系大学だからだった。
当然、活動も変わってくる。
オープンキャンパスからの頻繁な勧誘が功を奏したのか、サークルにはそこそこのメンバーがいたが、専門的に気象学をやろうとする人間は少なく。
もっぱら、空専門の写真部のような活動になっている。
そんなサークルだったから、文化祭の出し物も、天気や空の変化を流す動画の上映会と写真展示会ということになったのも、当然の成り行きだった。
このサークルの居心地は良い。
サークルメンバーたちとの会話は楽しいし。後輩も可愛い。
愛言葉と称して、各々が各々の好きな空や空に関する言葉を持っていて、それをサークルで教室に入る時に、「空といえば?」「〇〇」と答える、副部長考案の慣習も、とても素敵だ。
ところが、不意に寂しさを感じることがある。
理詰めで討議することが出来ない不自由さが、ふっと胸に込み上げて、その度にもう一人の私が問いかける。
「私、本当にここにいていいの?」
それを覆してくれるのが、私の後からビニール袋を下げて入ってくる、あの仏頂面だった。
彼との話は楽しい。
サークルの他の人たちとはまた違った楽しさだ。
愛嬌がないがしかし、勉強もサークル活動もそつなくこなす頼れる彼は、生真面目な性格とその不器用な仏頂面で、嫌厭されがちだったが、私には大きい存在だった。
彼となら、気圧計算の答えを比べることが出来た。
彼となら、明日の天気の予測について討議することが出来た。
彼となら、天気図が書けた。
彼の愛言葉を聞くのが、いつの間にか、空きコマ一番の私の楽しみになっていた。
「これ、明日の天気図?」
黙って運び込んだ荷物を、机に下ろしながら、無愛想に彼が言った。
胸が高鳴る。
そう。いつだって彼はそう聞いてくれるのだ。
展示の写真の話よりも、明日の動画の出来の話よりも前に、そうやって、私に話しかけてくれるのだ。
だから私は…。
浮き上がってきそうな単語を丁寧に折りたたんでしまい込む。
「そうなの。なんか気になるとこある?」
いつも通りそう言って、私は彼の横から、わざと未完成にした天気図を覗き込む。
写真に収められた個性的な雲たちが、私たちを見下ろしていた。
コーラガムを口に入れた。
くにゃん、くにゃんとした感触がする。
安っぽいまがいもののコーラの甘さが口内を支配する。
絶対にコーラじゃないけど、コーラとしか言いようがないあの味だ。
電車は混んでいた。
二人組や三人組や五人組やらがわらわらと密集して、各々が各々で、時間を潰していた。
異常な盛り上がりを見せ、顔を見合わせて、笑い転げる三人組。
付かず離れずでぴったり身を寄せ合って、穏やかに話し込む二人組。
はしゃぐ声を弾ませて、慌てて、シーッと目を合わせる五人組。
そわそわと落ち着きがなく、どことなくぎこちなさが漂う五人組。
ツンケンとした奴らの顔色を忙しなく伺いながら、焦ったように会話を繋ぐ、仲介がいる三人組。
やたら一方だけが言葉を捲し立てている二人組。
いろいろな友達が、車内には溢れている。
僕はガムを噛みながら、それをじっと観察していた。
電車は混んでいた。
しかし、この電車の中には、友達しかいないみたいだった。
みんな誰かの友達で、友達として話に興じていた。
この電車は、平日の昼間の電車だからそうなのだ。
平日の昼間なんて、暇を持て余している主婦の一行か、残り時間をのんびりと暮らす権利を手に入れた老人の一行。
あとは、昼までの講義を済ませて遊びにいく大学生。
そんな、彼ら彼女らは、だいたい友達のグループで乗ってくる。
しかし、今日は人数が多かった。
タネは簡単だ。
今は定期テストの時期だった。
この電車の走る線路上に高校の最寄駅がある。
テストを終えた高校生の友達集団。
日中の余暇時間に、出かける主婦の友達集団。
趣味で遊びにいさんで出かける老人の友達集団。
昼過ぎの電車は友達がたくさんいる。
まるでコーラみたいだ。
昼過ぎの電車は友達がたくさんいる。
振り解いた手が、針に刺されたように痛んだ。
手首を掴んでいた、あの温かくてガサガサな手のひらの感覚が、今も肌に染み付いている。
口の中に、ほのかに血の味が広がる。
知らないうちに唇をかみしめていたみたいだ。
振り向かずに歩いていくことに決めていた。
何か喚くような声が遠ざかっていく。
振り向かないから、心の中で呟く。
「ごめんね。こんな私で」
ずっと一緒にいられなくてごめんね。
でもあなたは行かないで。
代わりに私が行くから。
必死に叫んでいたあなたの声が、まだ鼓膜を揺らしている。
「こっちの覚悟を勝手に見限らないで!」とか「考え直して!」とか。
最後の方は「行かないで…」。
哀願みたいな気弱な叫び声。
そんなこと、もう忘れてしまったような顔をして、ポケットの中の飴玉を転がす。
最終兵器の飴玉を。
ある日突然、宇宙から来た知的生命体が現れて、私たちを家畜にしようとしてから、もうすぐ二週間が経つ。
彼らは指定した地区に降り立って、私たち地球の人間を選別し、彼らの都合の良いように振り分ける。
知的生命体の降り立った地区が、人間にとっての地獄に変わるのは時間の問題だった。
彼らは私たちにテストを課した。
運動能力や知力を測る選別テストだ。
私たちはそれに参加していた。
私たちの住んでいたこの地区にも、知的生命体の得体の知れない腕は伸びていた。
ただ、人間もやられているわけには行かなかった。
…ある人間が、比較的ひ弱な知的生命体を生捕りにした。
そして、彼らの体にとっての毒になるものを突き止めた。
砂糖。それが彼らの弱点だった。
知的生命体である彼らは脳が大きく、独特の発達をしている。
進化の過程で糖分を欲してきた彼らの身体は、強い糖分には抗えない。
人間の脳にさえ、軽い依存物となる砂糖は、彼らにとっては快楽と依存をもたらす、麻薬のように作用する。
砂糖を。
砂糖の塊を一粒でも、彼らに渡すことができれば。
いつかの人類史の阿片のように、砂糖という悪魔を彼らに渡せれば。
彼らは自滅するかも知れない。
幸い、彼らは砂糖の存在にまだ詳しくは気づいていない。
しかし、彼らは警戒心が強い。
彼らは、自分の星の食べ物ばかりを食べ続け、地球の食べ物には手をつけない。
彼らの活動エリアには、地球の食べ物や動植物を持ち込むことを禁ずるくらい、徹底している。
だから、人間の誰かが持ち込まなければならない。
発覚したら間違いなく殺される。
決死の覚悟で。決死の勇気で。
彼らに“砂糖”を浸透させなくてはならない。
彼らを地獄に突き落とすことを理解した上で、最初に悪夢を売りつける、死の商人にならなくてはならない。
私はそれを引き受けることにした。
我儘だ。
私はあなたに、行かないで欲しかったから。
だから私が行くことにした。
知的生命体の動く音が聞こえるところまで来た。
私は足を止めて、向かう方を見つめる。
清潔で潔癖な、彼らの居住区が見える。
行かないで。
あなたは行かないで。
こんな不気味な場所に。
行かないで。
あなたは行かないで。
こんな卑怯で悪辣な行動をする人間の方へ。
それが、私の我儘。
それを叶えるために、私はここまで来た。
茂みに腰を下ろして、何気ない風に、向こうを窺う。
あなたのいる、あちらには見えないように。みないように。
風が彼らの体臭を運んでくる。
太陽がいつものように差している。
空気を吸い込む。
差し当たりの標的は、あの警備員だ。
陽気で、軟派で、人間にもある程度優しくて、でも仕事はできる。知的生命体の中で人望のある、あの警備員。
私は、ゆっくりと、彼に近づいていく。
向かい風が静かに私の頰を撫でていった。
水たまりが、青い空を切り取っていた。
踏み出した長靴の波紋が、切り取られて地面に広げられた空を撓ませる。
空を見上げる。
本日は晴天。穏やかな日差しが、辺りを包んでいる。
どこまでも続く青い空。
逃避行には、いい日和だ。
どうして“みんな”というものは、不完全を許せないのだろうか。
青空の全部が快晴でなくてはならないと思っているんだろうか。
晴れの空こそ空であり、他の空は空でもないと考えているのだろうか。
長靴で、わざと水たまりを踏み躙ってやる。
水面に、細やかなさざなみが立つ。
どこまでも青い空が、長靴の動きに合わせてぐにゃぐにゃと揺れる。
強く踏みつける。
ぱしゃっ、と、水の飛沫が跳ね上がる。
地面に横たわる青い空が、壊れて跳ねる。
担任が引っ越すことになった。
五時間目が急遽自習になった次の日、校長先生がそんなことを報告した。
ざわめきがふつふつと起こった。
先生たちはみんな、下を向いて神妙にしていた。
ちょっと煩いけれど、生徒思いの熱心な先生。
不登校の子にも、授業中に騒いでいる子にも、平等に、丁寧に話していたことを覚えている。
記憶の中で、担任はちゃんとした学校の先生で、頼れる大人だった。
そうだったはずだった。
担任の不倫の噂が立ったのは、三週間くらい前のことだった。
誰から言い出したのか、もう分からない。
ちょうど同じくらいの時に、政治家と芸能人の不倫ニュースが流れていたことも影響したのだろう。
噂はどんどん、まことしやかに広まって、担任は、誰からも不倫をした最低な人間だ、と排斥されるようになった。
担任の授業を誰も聞かなかった。
担任が仕切るうちのクラスの保護者会は、沈黙ばかりが煩くなった。
地域の人たちも、担任に関わろうとしなかった。
他の先生すら、担任と口を聞かなかった。
誰も担任の話を聞かなかった。
だから噂話が嘘なのか、本当なのか、それは誰にも分からなかった。
ヒソヒソとした内緒話だけが、耳に障った。
担任は、犯罪者のように排斥されていた。
悪い大人の可能性が高いという噂が出回った、それだけで。
担任は次第に学校に来れなくなり、見かけなくなった。
…私は、担任に助けてもらった。
昔、進学前に事実を誇張した悪い噂話を流されて、外に出られなくなった。
そんな私に、普通に話しかけて、外に出られるようにしてくれたのが、一年からのクラス担任の先生だった。
今年から、私は毎日学校に行っていた。
二年かけてようやくそこまで漕ぎ着けた。
それは紛れもなく、担任のおかげだった。
その担任が、こうなった。
学校を辞める気はなかった。
これで、私も学校から逃げてしまえば、それは「負け」な気がした。
でも、今日くらいは学校をサボってやろうと思った。
いつも通り普通に家を出て、通学路を外れてやった。
今日だけは“みんな”の顔なんて見たくなかった。
だから、一日だけの逃避行をすることに決めた。
清々しいほど晴れていた。
どこまでも、どこまでも続く青い空が、一面に広がっていた。
小説や寓話や言い伝えみたいに、曇ったり、大雨が降ったり、嵐になったりなんてしなかった。
空は、私たちのことなんか知らん顔で、どこまでも続いていた。
日差しが鬱陶しかった。
雲が出ていないことが憎らしかった。破り捨ててやりたかった。
足元の水たまりに映る空を踏みつける。
ぱしゃっと水滴が飛び上がる。
頭上では、どこまでも続く青い空が、高く高く、どこまでもどこまでも広がっていた。