薄墨

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振り解いた手が、針に刺されたように痛んだ。
手首を掴んでいた、あの温かくてガサガサな手のひらの感覚が、今も肌に染み付いている。

口の中に、ほのかに血の味が広がる。
知らないうちに唇をかみしめていたみたいだ。

振り向かずに歩いていくことに決めていた。
何か喚くような声が遠ざかっていく。

振り向かないから、心の中で呟く。
「ごめんね。こんな私で」
ずっと一緒にいられなくてごめんね。
でもあなたは行かないで。
代わりに私が行くから。

必死に叫んでいたあなたの声が、まだ鼓膜を揺らしている。
「こっちの覚悟を勝手に見限らないで!」とか「考え直して!」とか。
最後の方は「行かないで…」。
哀願みたいな気弱な叫び声。

そんなこと、もう忘れてしまったような顔をして、ポケットの中の飴玉を転がす。
最終兵器の飴玉を。

ある日突然、宇宙から来た知的生命体が現れて、私たちを家畜にしようとしてから、もうすぐ二週間が経つ。

彼らは指定した地区に降り立って、私たち地球の人間を選別し、彼らの都合の良いように振り分ける。
知的生命体の降り立った地区が、人間にとっての地獄に変わるのは時間の問題だった。

彼らは私たちにテストを課した。
運動能力や知力を測る選別テストだ。
私たちはそれに参加していた。

私たちの住んでいたこの地区にも、知的生命体の得体の知れない腕は伸びていた。

ただ、人間もやられているわけには行かなかった。
…ある人間が、比較的ひ弱な知的生命体を生捕りにした。
そして、彼らの体にとっての毒になるものを突き止めた。

砂糖。それが彼らの弱点だった。
知的生命体である彼らは脳が大きく、独特の発達をしている。
進化の過程で糖分を欲してきた彼らの身体は、強い糖分には抗えない。
人間の脳にさえ、軽い依存物となる砂糖は、彼らにとっては快楽と依存をもたらす、麻薬のように作用する。

砂糖を。
砂糖の塊を一粒でも、彼らに渡すことができれば。
いつかの人類史の阿片のように、砂糖という悪魔を彼らに渡せれば。
彼らは自滅するかも知れない。

幸い、彼らは砂糖の存在にまだ詳しくは気づいていない。
しかし、彼らは警戒心が強い。
彼らは、自分の星の食べ物ばかりを食べ続け、地球の食べ物には手をつけない。
彼らの活動エリアには、地球の食べ物や動植物を持ち込むことを禁ずるくらい、徹底している。

だから、人間の誰かが持ち込まなければならない。
発覚したら間違いなく殺される。
決死の覚悟で。決死の勇気で。
彼らに“砂糖”を浸透させなくてはならない。
彼らを地獄に突き落とすことを理解した上で、最初に悪夢を売りつける、死の商人にならなくてはならない。

私はそれを引き受けることにした。
我儘だ。
私はあなたに、行かないで欲しかったから。
だから私が行くことにした。

知的生命体の動く音が聞こえるところまで来た。
私は足を止めて、向かう方を見つめる。
清潔で潔癖な、彼らの居住区が見える。

行かないで。
あなたは行かないで。
こんな不気味な場所に。

行かないで。
あなたは行かないで。
こんな卑怯で悪辣な行動をする人間の方へ。

それが、私の我儘。
それを叶えるために、私はここまで来た。

茂みに腰を下ろして、何気ない風に、向こうを窺う。
あなたのいる、あちらには見えないように。みないように。

風が彼らの体臭を運んでくる。
太陽がいつものように差している。

空気を吸い込む。
差し当たりの標的は、あの警備員だ。
陽気で、軟派で、人間にもある程度優しくて、でも仕事はできる。知的生命体の中で人望のある、あの警備員。

私は、ゆっくりと、彼に近づいていく。
向かい風が静かに私の頰を撫でていった。

10/24/2024, 2:33:34 PM