煙草を揉み消しながら、吐き捨てる。
「どこのブルジョワだよ、その誘い方」
意識していないのに、口角が微かに上がるのが分かる。
斜に構えて煙草を吸うアイツの頬にも、機嫌良さそうな軽い微笑が浮かんでいる。
相変わらずメチャクチャだよな、くぐもった声でアイツに聞こえるようにそれとなく、呟く。
アイツは笑顔を崩さないまま、煙を深く吐き出してから、こちらに向き直った。
「でも普通の誘い方をしたところで、あなたは興味を持たれないでしょう?」
その通りだとは思ったが、素直に答えるのもなんとなく癪で、俺は煙草の箱を剥いて、次の一本を引き出しながら、目を逸らす。
アイツはそれを見て、満足そうに頷いて、言った。
「上手くいく確率は、かなり高いと思いますよ。あなたのその人望と悪賢さ、それと私の計算と策略があればね」
ですから、アイツは煙草の煙を吹き上げながら、口先だけは気障ったらしいお育ちの良さげな敬語で続ける。
「私と踊りませんか?」
俺たちが顔を合わせたのは、一年前の“仕事”の時だった。
クソな家庭環境のおかげで、初っ端から人生計画というものが、悉くシュレッダーにかけられていた俺は、マトモというものがどうも理解できなかった。
そんな俺が、居場所を昼間の大通りから夜の繁華街に求めたのは、当然のことだったと言えるだろう。
そして、今目の前で煙草を蒸すコイツも、人生をシュレッダーにかけられて、ズンボロになりながらここに辿り着いた奴であることは空気でわかった。
俺たちはある意味、同志だった。
コイツと一緒に挑んだ“仕事”は、蔦で吊り下げられたオンボロくらいに危ない橋だった。おまけに、仕事の数週間前には、繁華街に法律の犬の見廻が増え、厄介事が増えた時期で、どいつもこいつも殺気だった、不安定な時期だった。
骨が折れたが、俺の知恵とアイツの飛び抜けた状況判断能力で、俺たちは無事、仕事を完遂した。
なかなか面白い奴だな、俺はアイツをそう評価した。
アイツも、俺を憎からずとは思っていないようだった。
それからも度々顔を合わせたが、もとよりこんな所で生計を立てている奴らの辞書に“信頼”の文字はない。
俺とアイツは、顔を合わせたら、その場だけの世間話で盛り上がる、という程度の仲だった。
せいぜい、共有の縄張りを持つ野良猫同士程度の仲だ。
顔を合わせれば友好的には接するが、それ以上の義理もない。
そういう人間関係は気楽だったし、不満もない。
アイツとの仲は永遠にそんなもんだろう。
今日、アイツが俺を一服に誘わなければ。
アイツは、「ちょっと話さないか?」と、珍しく俺を一服に誘った。
そして、人も十分引けたくらいを見計らって、例の話を始めたのだ。
有体に言えば、俺とアイツで組んで、ビジネスをやらないか、という話だった。
きっかけは、この繁華街の裏ボスに、ふと、子会社らしき組織が欲しい、と、けしかけられたのが始まりらしい。
この街は大抵、誰かの縄張りだ。そして水面下でも水面上でも、縄張り争いが熾烈だ。
ビジネスといっても、大それた動きをするわけじゃない。
繁華街の住人にも、しつこくこの辺りを彷徨く、法律の犬っころにも手が出されにくい、グレーゾーン。
法と契りの穴をつくビジネスをやろう、そんな話を、アイツは気障ったらしい言葉で色々と装飾をつけて、提案してきたのだった。
「一つ、ここの主の奏でるシナリオと曲に乗って、私たちで踊りませんか?私たちなら、奴らが、疲れ果てて見惚れるくらいまで、踊れる気がするのです」
煙草をまた一息に吸い、アイツがこちらの目を見つめてくる。
どうも目を合わすのが苦手なようで、本人は誠意を込めて真っ直ぐ正対しているつもりのようだが、どうも傾いた下目遣いで、不自然に眇めた目から斜に傾いた視線を感じる。
言い回しを含めると、随分小生意気に見える。
昼間の世界に生きるなら、だいぶ印象の悪い目つきだろうが、ここならそれは気にならない。
似たような欠陥を抱えた微妙な失礼さを持つ奴らなんて、掃いて捨てるほどいるからだ。
声と怒りの大きさの調整ができず、敬語も使えない俺と似たようなもんだ。
それに俺は、アイツのそういう面白さに興味が湧いてきていた。
アイツなら、味方につけた時の実益も申し分ない。
賢いし、実力も運もある。それは一緒に仕事をした時に確認済みだ。
コイツなら使える。
良い利害関係を築けるだろう。
煙草に火をつけて、深く吸う。
ニコチンのガツンと重たい鈍色の煙が、脳に響く。
鼻から深く息を吐いて、さりげなく言い置く。
「良いだろう、踊ってみるか」
アイツの目の奥に微かに喜色が走る。
だがそれは素早くアイツの中に隠れ去り、奴は平然とした様子で煙を吐きながら、事も無げに呟く。
「そりゃ嬉しいですね。勇気を出してお誘いした甲斐がありました。では、これからよろしくお願いします」
「ああ、楽しく踊らせてくれよ」
俺の返答を聞いて、アイツはひっそりと笑った。
「ええ。踊りに誘った以上、最低限のリードとエスコートはさせていただきますよ」
夜が近い。
繁華街のこんな細い路地にも、ポツポツとネオンが灯り始める。
そろそろ、ここも混むだろう。
それを分かってだろう。アイツは具体的な話はせずに、会話を切り上げにかかる。
「では、後ほど。明日もこの時間に。ご都合がよければ」
「ああ、また明日」
会話が終わることに、俺もなんら不具合はなかった。
だから会話を畳む。
アイツは、煙草を揉み消すと、新たにやってきた繁華街の古株喫煙者と入れ違いに、するりと路地を抜けていく。
それを見送りながら、俺は煙草に口をつける。
繁華街の一日はこれからだ。
夜の社会の一日の始まりを告げる、紫の夜闇が、そこまで近づいてきていた。
イヤリングを外す。
控えめな白銀メッキの装飾に埋まった碧の石が、きらり、と東からの日差しを反射する。
華奢な金メッキに縁取られた翠の石が、誘うように、朝日に揺れた。
翠の石の、凛とした茶目っ気溢れた煌めきが、私の記憶を刺激する。
昨夜、「イヤリングを片耳だけ交換しよう」と提案したあの人の、イタズラっぽく笑う瞳を思い出す。
浅く窪んだえくぼ。
柔らかく掠れた囁き声。
真綿で包まれた狭苦しい空間で、互いに向き合って、さっきまで身につけていたものを交換し合うのは、なんだか気恥ずかしくて、腰が抜けて浮き足立つような、かと思えば胸がキュッと引き締まるような心地で。
つけ終えて、はた、と目が合った時の、あの人の瞳の美しさは、万華鏡を覗き込んだ時の不思議さによく似ていた。
あの人と出逢ったのは、この旅館の渡り廊下を歩いていた時だった。
昨夜は、ほんのりと優しく光を投げかける、薄黄色の月が昇っていて、夜の闇がくっきりと鮮やかだった。
私は、大浴場上がりの体に月光の優しげな光を浴びながら、ゆっくりと夜の闇を眺めていた。
あの人はちょうど、向かいから歩いてきた。
歩いてきて、横で同じように夜を眺めて、ポツンと言ったのだ。
「今日は良い夜闇ですね」
それから幾つか言葉を交わし、すっかり打ち解けた私たちは夕食を一緒にとろう、ということになった。
私はもとより一人旅。
あちらは、元々は友人と来るはずであったのが、友人の急用で計画が変わり、代役を立てられぬまま、寂しい一人旅に相成ったらしい。
旅は道連れ。
ここで出逢ったのも何かの縁とて、昨夜を共に明かすことになったのだ。
始終、月を眺めながら、穏やかな夜を越した。
心細さのない、しんみりと落ち着いた心地の良いぬくみに包まれた旅の夜更けがそこにはあった。
昔の人は、後朝の文とよく言ったものだが、私たちが交換したものといえば、イヤリングだけだった。
旅は道連れ。
これは旅行先の一期一会。
今回限りの、共に夜月を楽しんだ旅先の友、という慎ましやかな関係で、とお互い想っていたから。
イヤリングはその思い出の、記念のようなものだった。
しかし、明け方、自分の部屋で一人、朝日を眺めると、なんとも昨日の穏やかな夜が、ただの夢であったのではないかという心地がする。
左右の色が違うイヤリングだけが、それをやんわり否定する。
そのチグハグな一ペアのイヤリングが、朝日に煌めき、翠の影を投げると、私はどうしても、あの一時のあの人のことを思い出して、しみじみと思う。
ああ、もう一度、巡り会えたら…
もう逢えないことは明白で、分かりきったことだった。
第一、あの“人”と呼ぶのが正しいのか、それも定かではない。
あの悪戯に、奇妙に光るあの瞳は何のものであったのか。
私には分からないし、答えを知ることもないだろう。
それでも、また巡り会えたら…と心が騒ぐ。
まだ早朝と呼んでも差し支えのない時分で、控えめな朝日が細やかに射している。
朝食や、チェックアウトの支度をしなくては、と思いながらも、昨夜の穏やかな時間のぬくもりが、脳裏には繰り返し閃いている。
また、巡り会えたら…
詮無い淡い期待が、胸に膨らむ。
私はイヤリングを手の内に包む。
気持ちの向くまま、しばらくは朝日を楽しもう。
朝日があの竹よりも高くへ行くまで、この淡い期待に浸っていよう。
私はイヤリングを握り、空を見上げる。
柔らかな朝日が、ゆっくり、ゆっくりと、空に昇っていく。
祈りでパンは殖えるのか。
灰と煤に埋もれたバイブルの、革張りの表紙に刻まれた金の刺繍糸を眺めて、ふと、そんな疑問が湧いた。
ステンドグラスの破片が、薄高く積もった煤の山のあちらこちらで、ちかちかと光っている。
灰に塗れた地面のところどころで、火がしつこく、ちろちろと燃えていた。
教会の裏は小麦畑だったのだ。
さそがし火も広がりやすかったに違いない。
真鍮の壁掛け十字架だけが、正常な形を保ったまま、灰に埋もれかけていた。
主には祈りを。
主に心を捧げれば、奇跡が我らを救い賜う。
そんな話をしていたのは、司教様であっただろうか。
銀の十字のペンダントが、首元で鈍く光っている。
人生で初めて貰った贈り物。
司教様が、私がここに住まう時に贈ってくれたもの。
灰が薄高く積み上がり、風に吹かれてぱらぱらと空気の中を舞っていた。
人の気配はしない。
司教様の細長い痩身も、毎日熱心に祈り続ける目の悪い婆様も、子犬のような瞳でなんでも手伝いたがるあの小さな女の子も。
気配を感じない。
足がききい、と軋んだ。
あの逃げていった奴らはなんと言っていただろうか。
奇跡だ、と言っていなかったか。
異教徒じみた厄介なアイツらの拠点を見つけられたのは、神の起こした奇跡だ、と。
ああ、主よ。
私たちは祈りを欠かさなかったではないですか。
主は、バイブルと司教様のお言葉によれば、敬虔な信者を救うため、様々な奇跡を起こしたのではないのですか。
私をこの教会に辿り着かせるという奇跡を、あの女の子と司教様を出会わせるという奇跡を、あの婆様に希望を再び持たせるという奇跡を起こしてくださったのではないですか。
そして、奴らのために、ここを見つけさせるという奇跡を起こしたではないですか。
ですから、奇跡をもう一度。
奇跡をもう一度、起こしてくださっても良いではないですか。私のために。あの教会のために。
奇跡を…。
銀の十字架を握りしめながら、胸の内で呟く。
司教様は、主を恨んではならない、主の施しに、奇跡に期待してはならない、と教えていたのを聞いた覚えがあったが、そんなことはもうどうでも良かった。
私は司教様を信じられないほど悲惨な人生は送ってこなかったが、司教様のお言葉を無条件に信じられるほど幸せな生活もまた、送ってきていなかった。
主よ。
奇跡を起こしてください、主よ。
薄灰色の風が舞っている。
遠くでちろちろと火が燃えている。
人の気配は、しない。
握りしめた手が、痛かった。
空は変わらずに青い。
乾いた空気が、灰と煤と火を増やし続けている。
張り付いた灰で、喉がヒリヒリと痛んだ。
どこにも宛はなかったが、どこかに行かなければいけない気がした。
教会は変わらず、無惨な死に様を太陽の下に晒していた。
黄金に輝く海を背に、子どもが波を跳ね上げて遊んでいる。
浜からそれを眺める二親の、黒い影がくっきりと伸びている。
黄身のように真ん丸の太陽が、煌めきながら地平線へ傾いていく。
影の先で語らいながら歩く二親の、パリッと清潔な服が夕景の赤い光に眩しく照らされている。
無邪気にはしゃぐ子と、穏やかで品さえ感じさせる豊かな笑みをたたえて二歩後に続く親。
黄金の黄昏の浜辺に相応しい、精巧な油絵と見紛うほどの見事な幸いの画がそこにはあった。
よく見れば、子は決して美人ではなく、どこにでもいるような洟を垂らした疎んな子で、その子を追う親の顔にも、油染みた肌のところどころに皺が刻まれている。
それでも、たそがれの夕日を受けた波の煌めきが、このどこにでもいるような親子の戯れを、美術館の額縁の中であるような美しい画に仕立て上げていた。
あの二親は、自分と同じくらいの歳だ。
元より画の外に弾き出されて、堤防のアスファルトを踏む私は、ふとそんな確信を覚える。
あの二親は、私と同じ歳だ。人生のたそがれがもうすぐそこに見えた、皺の間に含蓄を編み込んだ、面白くつまらぬ大人の一人なのだ。
私と同じ時間を生きてきた人間なのだ。
途端に、惨めな気分になった。
生来の怠け癖と高飛車さで身を滅ぼし、薬と酒と不摂生な生活を続け、ここまでひたすらに、誰にも頼ることなく徒に歳を浪費していた自分は、今もこうしてくたびれた身体を引きずって、日を避けるように影の奥をコソコソと歩くしかないというのに。
あの燦々たる、手を伸ばせばすぐそこに触れそうな幸いの只中にいる主役の二人は、私と同じ時を、私とは比べ物にならないほどの満ち満ちた密度で生きてきたに違いない。
黄金の中のあの、幸せと不幸せを噛み締め受け入れたような微笑みが、その証拠だ。
散歩に出たのはこんなつもりではなかったのに。
久々に存外スッキリとした頭に、鈍い痛みとぐちゃぐちゃな気持ちが湧き上がる。
惨めさ、寂しさ、悔しさ、恨み。ちくしょう、こんな筈ではなかった、誰かもわからない同世代に完璧な敗北を突きつけられに外に出たわけではない、ああ、なんで奴らだ、そんな人生順調なんだったら、こんな田舎の浜辺なんかに遊びにくるものじゃないよ、ああ、ちくしょう
あの光景が心底、悪いのに、あの二親が誰か、その面を正面から睨め付けるくらいやりたいのに、あの画をすぐに破り捨ててしまいたいのに、私の足は依然と重たく、影を踏み続けている。
理由は明確だ。
あの黄金の日に当たるのは、薬と酒でボロボロに痛めつけられた私の痩身には、強すぎる。
踏み出すたびに軋み、鈍い痛みを発する四肢の節々も、砂浜と日差しの黄金の中へ入るのを拒否していた。
だから私は黙って踵を重たく擦り、痩身を引きずって、家へ家へ歩かねばならなかった。
あの黄金のたそがれの浜辺を横に。
黄昏の浜は、美しかった。
明るい夕日を浴びて歩く親子も。半熟の目玉焼きの黄身のように真ん丸く完璧な太陽も。その陽を受けて、黄金にその身を輝かせる、広大な海も。
何もかもが自分には眩しすぎ、悪くて、美しすぎた。
たそがれに、黄金に輝く海がそこにはあった。
靴紐を結び終わった。
ぐっと体を伸ばして、立ち上がる。
ドアを押し開けて、外に出る。
薄い青色の空に、鱗雲がパラパラと浮かんでいる。
駅に向かって歩き出す。
コンクリートの外側に、逞しく生えた背高の草たちの、青々と細い葉には、朝露がいくつも光っている。
道の何かを啄んでいた鳩が、面倒臭そうに一羽ずつ、空へ飛び立っていく。
ひんやりとした朝の空気が心地よい。
朝日が眩しく柔らかく、辺りを照らしている。
こんな時でも、秋の朝は相変わらず長閑で、爽やかだ。
雀の鳴き声がどこからか聞こえる。
出来るだけ顔をぐっと上げて、歩く。
下を向いたら、ちょっと泣いてしまいそうな気がするから。
…そういえば、もう出汁のストックがない。昨日、たくさん料理したからだ。あんなことがあっても、昨日の夕食はいつも通りに美味しかった。
今日は帰りにスーパーに寄ろう。今日の味噌汁は、椎茸か、煮干か、昆布か、鰹節か。迷うな。
犬が連れられて散歩をしている。
野良猫がゆっくり道を横切っていく。
日常が変わる時はいつだって突然だ。
変化は予想しなかった時に、不意打ちで訪れるものなのだ。
絶交の決意をしたのは昨日のことだった。
いつまでも時間を守らず、いつまでも返事をよこさない恋人に、とうとう我慢の限界が来て、だから、出来るだけ分かってもらおうと話をした。
冷静に話せるように何度もシュミレートして。
そうしたら、「合わないみたいだね。もう、やめる」と、出しぬけにそう言われた。
仲が良いつもりだった。喧嘩だって出来るくらい、親しい相手だと思っていた。
でもそれはこちらの思い違いだったらしい。
どうやらあっちにとっては、ただの遊び相手くらいのつもりだったのだろう。
面倒になってきたので、無視をして、面倒な事になったので、さっさと撤退することにしたのだろう。
それがありありと全てわかってしまった。
あんなに楽しかった全部の思い出が、ただのゴミに変わってしまった。
だから、忘れることにした。
恋人のことを考えるのは脳の容量の無駄だと悟ったから。
まあこの際、楽しかったことや学んだことくらいは覚えていてもいいだろう。
だけど、恋人のことやその後のことを想ってやるのは、もう糖分の無駄使いだ。
だってあっちは、こちらのことなど、ゲーム機くらいにしか思っていないのだから。
そんな人に、何を期待したってしょうがない。
今日は月曜日。
出勤の日だ。
三年くらい一緒に居たし、ずっと好きだったし、一緒にいるのは心地よかった。
優しくて、気遣いが上手で、善良な人だった。
でも、それだけだった。
正直なところ、ショックだった。
今も、どこかぽっかりと虚で、カルキ水をがぶ飲みした時みたいな辛さが、シクシクと浮かんでくる。
でも、あんな別れ方をされたという理由で、あの恋人に傷つけられたという理由で、有給を消費するのは勿体無いし、ちょっと悔しい。
だから今日も駅に向かって歩く。
いつものように少しの楽しみを探しながら一日を暮らして、電車に乗って、勤め先に行って、仕事をして…いつも通り、生活をする。
きっと明日も仕事へ行く。
きっと明日も朝露を見ながら、朝の光を浴びて、涼しい風に吹かれながら、電車に乗る。
きっと明日も夕飯に何を食べるか考えながら、スーパーに買い物へ行く。
天気予報が言っていた。きっと明日も晴れだ、と。
どうしようもない人に傷心なんて勿体無い。
好きの反対は無関心なのだから。
昨日も今日も楽しく、日常を過ごす。
きっと明日も概ね楽しい日になるだろう。
駅が見えてきた。
通勤の時間だから、人が多くて、ざわざわとした人の気配を感じる騒がしさがする。
みんながせかせかと歩いている。
忙しく働く電車の足音が、微かに響いてくる。
今日も、きっと明日も。
鼻歌を歌いながら、駅の階段をゆっくり昇る。
駅の窓から、朝日が眩しく差していた。