薄墨

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靴紐を結び終わった。
ぐっと体を伸ばして、立ち上がる。
ドアを押し開けて、外に出る。
薄い青色の空に、鱗雲がパラパラと浮かんでいる。

駅に向かって歩き出す。
コンクリートの外側に、逞しく生えた背高の草たちの、青々と細い葉には、朝露がいくつも光っている。
道の何かを啄んでいた鳩が、面倒臭そうに一羽ずつ、空へ飛び立っていく。

ひんやりとした朝の空気が心地よい。
朝日が眩しく柔らかく、辺りを照らしている。
こんな時でも、秋の朝は相変わらず長閑で、爽やかだ。
雀の鳴き声がどこからか聞こえる。

出来るだけ顔をぐっと上げて、歩く。
下を向いたら、ちょっと泣いてしまいそうな気がするから。
…そういえば、もう出汁のストックがない。昨日、たくさん料理したからだ。あんなことがあっても、昨日の夕食はいつも通りに美味しかった。
今日は帰りにスーパーに寄ろう。今日の味噌汁は、椎茸か、煮干か、昆布か、鰹節か。迷うな。

犬が連れられて散歩をしている。
野良猫がゆっくり道を横切っていく。

日常が変わる時はいつだって突然だ。
変化は予想しなかった時に、不意打ちで訪れるものなのだ。

絶交の決意をしたのは昨日のことだった。

いつまでも時間を守らず、いつまでも返事をよこさない恋人に、とうとう我慢の限界が来て、だから、出来るだけ分かってもらおうと話をした。
冷静に話せるように何度もシュミレートして。
そうしたら、「合わないみたいだね。もう、やめる」と、出しぬけにそう言われた。

仲が良いつもりだった。喧嘩だって出来るくらい、親しい相手だと思っていた。

でもそれはこちらの思い違いだったらしい。
どうやらあっちにとっては、ただの遊び相手くらいのつもりだったのだろう。
面倒になってきたので、無視をして、面倒な事になったので、さっさと撤退することにしたのだろう。

それがありありと全てわかってしまった。

あんなに楽しかった全部の思い出が、ただのゴミに変わってしまった。

だから、忘れることにした。
恋人のことを考えるのは脳の容量の無駄だと悟ったから。
まあこの際、楽しかったことや学んだことくらいは覚えていてもいいだろう。
だけど、恋人のことやその後のことを想ってやるのは、もう糖分の無駄使いだ。
だってあっちは、こちらのことなど、ゲーム機くらいにしか思っていないのだから。
そんな人に、何を期待したってしょうがない。

今日は月曜日。
出勤の日だ。

三年くらい一緒に居たし、ずっと好きだったし、一緒にいるのは心地よかった。
優しくて、気遣いが上手で、善良な人だった。
でも、それだけだった。

正直なところ、ショックだった。
今も、どこかぽっかりと虚で、カルキ水をがぶ飲みした時みたいな辛さが、シクシクと浮かんでくる。
でも、あんな別れ方をされたという理由で、あの恋人に傷つけられたという理由で、有給を消費するのは勿体無いし、ちょっと悔しい。

だから今日も駅に向かって歩く。
いつものように少しの楽しみを探しながら一日を暮らして、電車に乗って、勤め先に行って、仕事をして…いつも通り、生活をする。

きっと明日も仕事へ行く。
きっと明日も朝露を見ながら、朝の光を浴びて、涼しい風に吹かれながら、電車に乗る。
きっと明日も夕飯に何を食べるか考えながら、スーパーに買い物へ行く。
天気予報が言っていた。きっと明日も晴れだ、と。

どうしようもない人に傷心なんて勿体無い。
好きの反対は無関心なのだから。

昨日も今日も楽しく、日常を過ごす。
きっと明日も概ね楽しい日になるだろう。

駅が見えてきた。
通勤の時間だから、人が多くて、ざわざわとした人の気配を感じる騒がしさがする。
みんながせかせかと歩いている。
忙しく働く電車の足音が、微かに響いてくる。
今日も、きっと明日も。

鼻歌を歌いながら、駅の階段をゆっくり昇る。
駅の窓から、朝日が眩しく差していた。

9/30/2024, 2:39:27 PM