薄墨

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イヤリングを外す。
控えめな白銀メッキの装飾に埋まった碧の石が、きらり、と東からの日差しを反射する。
華奢な金メッキに縁取られた翠の石が、誘うように、朝日に揺れた。

翠の石の、凛とした茶目っ気溢れた煌めきが、私の記憶を刺激する。
昨夜、「イヤリングを片耳だけ交換しよう」と提案したあの人の、イタズラっぽく笑う瞳を思い出す。
浅く窪んだえくぼ。
柔らかく掠れた囁き声。

真綿で包まれた狭苦しい空間で、互いに向き合って、さっきまで身につけていたものを交換し合うのは、なんだか気恥ずかしくて、腰が抜けて浮き足立つような、かと思えば胸がキュッと引き締まるような心地で。
つけ終えて、はた、と目が合った時の、あの人の瞳の美しさは、万華鏡を覗き込んだ時の不思議さによく似ていた。

あの人と出逢ったのは、この旅館の渡り廊下を歩いていた時だった。
昨夜は、ほんのりと優しく光を投げかける、薄黄色の月が昇っていて、夜の闇がくっきりと鮮やかだった。
私は、大浴場上がりの体に月光の優しげな光を浴びながら、ゆっくりと夜の闇を眺めていた。

あの人はちょうど、向かいから歩いてきた。
歩いてきて、横で同じように夜を眺めて、ポツンと言ったのだ。
「今日は良い夜闇ですね」

それから幾つか言葉を交わし、すっかり打ち解けた私たちは夕食を一緒にとろう、ということになった。
私はもとより一人旅。
あちらは、元々は友人と来るはずであったのが、友人の急用で計画が変わり、代役を立てられぬまま、寂しい一人旅に相成ったらしい。

旅は道連れ。
ここで出逢ったのも何かの縁とて、昨夜を共に明かすことになったのだ。
始終、月を眺めながら、穏やかな夜を越した。
心細さのない、しんみりと落ち着いた心地の良いぬくみに包まれた旅の夜更けがそこにはあった。

昔の人は、後朝の文とよく言ったものだが、私たちが交換したものといえば、イヤリングだけだった。
旅は道連れ。
これは旅行先の一期一会。
今回限りの、共に夜月を楽しんだ旅先の友、という慎ましやかな関係で、とお互い想っていたから。
イヤリングはその思い出の、記念のようなものだった。

しかし、明け方、自分の部屋で一人、朝日を眺めると、なんとも昨日の穏やかな夜が、ただの夢であったのではないかという心地がする。
左右の色が違うイヤリングだけが、それをやんわり否定する。

そのチグハグな一ペアのイヤリングが、朝日に煌めき、翠の影を投げると、私はどうしても、あの一時のあの人のことを思い出して、しみじみと思う。

ああ、もう一度、巡り会えたら…

もう逢えないことは明白で、分かりきったことだった。
第一、あの“人”と呼ぶのが正しいのか、それも定かではない。
あの悪戯に、奇妙に光るあの瞳は何のものであったのか。
私には分からないし、答えを知ることもないだろう。
それでも、また巡り会えたら…と心が騒ぐ。

まだ早朝と呼んでも差し支えのない時分で、控えめな朝日が細やかに射している。

朝食や、チェックアウトの支度をしなくては、と思いながらも、昨夜の穏やかな時間のぬくもりが、脳裏には繰り返し閃いている。

また、巡り会えたら…
詮無い淡い期待が、胸に膨らむ。

私はイヤリングを手の内に包む。
気持ちの向くまま、しばらくは朝日を楽しもう。
朝日があの竹よりも高くへ行くまで、この淡い期待に浸っていよう。
私はイヤリングを握り、空を見上げる。

柔らかな朝日が、ゆっくり、ゆっくりと、空に昇っていく。

10/3/2024, 2:41:19 PM