空が果てしなく広がっている。
まだらに浮いている、白い雲の下から、青い、青い海水のかたまりと、豆粒ほどに遠い、人の生活の気配が見える。
身を乗り出す。
手のひらが吸い付くように窓ガラスに貼り付く。
無機質な片翼が、手前に見える。
窓は安全のために密閉されているから、どうやっても開かない。
この旅が無事に終わって、目的地に着くまでは、風も空気も感じることはできない。
この空の空気に触れることはできない。
でも、信じられないほど美しい景色だった。
雲が眼下に見える。
本当に上空の中を飛んでいるのだ。
隣の人が、奇異なものを見るような目で、こちらをチラリと見て、雑誌を投げ出しながら、席につく。
飛行機に慣れている人が殆どなのだろうか。
機内ではみな、端末で映画を見たり、パソコンを触ったり、眠ったり…
飛行機の旅はかなり長い。
みんな思い思いに過ごしている。
長い長い空の旅を有意義に過ごすには、そのような行動が正しいのだろう。そう思いながらも、窓から見える景色から目を離せずにいた。
窓の向こうには、何が広がっているのだろう。
青い空は、雲と一緒にどこまでも広がって、遠くの視界の端は白く霞んで、まだまだ続いている。
奥行きなんて、まるで感じさせない包み込むような空と、ゼリーの中の寒天のように立体的に佇む白い雲。
どこまでも広がる空に包まれ、白い雲の奥と手前に、判を捺した落雁のように広がる人工物は、滑らかで硬い存在感を放っている。
遠近感のスケールと果てしなさに、食い入るように、空の奥の奥に目を凝らす。
視界の限界が、空の白い果ての境界線に見える。
…その白い果てに、ふと、黒い影がよぎった。
空に対してはあまりにも小さく、でもここまでの距離を考えると、そうとう大きい。
それでもそれほど不自然に感じなかったのは、影の形が大きくて当然のものだったからだろう。
鯨だ。
大きな鯨が、空の果てで、身を翻して飛び上がっていた。
ここは空の上。上空何千メートルの世界。
鯨が息継ぎのために跳ねるといっても、ここまで跳ねることなんて不可能だろう。
でも確かに、白い空の果てに、黒い鯨の影が上空に躍り上がって、下空に吸い込まれていった。
見てはいけない、知られてはいけない秘密を見てしまったような気がして、慌てて、機内を見回す。
誰も窓を見ていない。みんな、自分の手元に、自分の現実に向き合っていた。
なんだかホッとして、窓から見える景色に目を戻す。
相変わらず、理解できないくらいの、美しくて果てしない上空が、窓の外に広がっている。
生き物はいない。
見えるのは、果てしない空と、人工物と、遥か眼下に広がる海と陸地。
空が、果てしなく広がっている。
雲が、果てしなく点在している。
右手は貼り付いたように、まだ窓ガラスを触っている。
窓は密閉されている。
視覚でしか感じられない景色。分厚い窓ガラスの触覚だけが、しっかりと感じられる。
窓から見える景色は、いつまでもいつまでも、ただの、窓から見える景色であり続ける。
窓から見える空は、深い青色だった。
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
アスファルトを割ってたんぽぽが咲いていた。
日の光が星に透明マントを纏わせていた。
手入れの行き届いた生垣の足元に首をもたげた白百合の根元に埋まった骨も、その骨を埋めた真珠貝も、白百合のためだけに供えられた墓標の星の破片も、私には見えない。
どこか遠くの星で、ただ一輪だけ、四つの小さな棘を見せつけて咲いているバラの物語も、砂漠の下に隠された井戸も、箱の中で眠る羊も、私には分からない。
満開の桜の太い幹と枝に流れる血の赤さも、太い根に絡みつかれた死体の艶やかさも、私は知らない。
それらを知るのは、当事者たちだけ。
長閑な横道を、ふらり、ふらりと歩いた。
雀の短い泣き声がして、鳩の暢気な世間話が聞こえた。
烏の騒がしい話し声が空にこだましていた。
日光が肌に暖かかった。
水の音と、何かの生きている気配が、道のあちらこちらに溢れていた。
白鷺が黒い脚を伸ばして、音もなく飛び去った。
この世で重要なものの殆どは、形の無いものである。
そよ風がそう囁いた。
ネコジャラシが首肯した。
私も首肯した。
世の中のものの大抵は、形が有る無いに関わらず、変わっていく。
形の無いものによって、少しずつ。
昔よく一緒に遊んだ友人は、私に言った。
「…で、お前が散歩で費やすその二時間には、一体なんの価値がある?しんどいだろうに。車の方が、早く目的地につくし、楽だし、効率的だ」
「見えないからって、形の無いものを無駄に捨てるなんて勿体無い」
「大事なものは見えないし、見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよって言うじゃんか」
私を愛してくれていたあの人は、私に言った。
「もう、やめようよ。そんな意味も目的も分からないもの」
「他の趣味と比べて、生産性がないよ。そんな暇があれば、休んだり睡眠を確保したりする方が、俺は良い。あと、何処かで買い物するとかね。…それは、何を生み出せるっていうんだ?それは本当に君のためになるの?」
子供は、大人になったのだ。
ヤゴはトンボになり、オタマジャクシはカエルになり、ヒヨコはニワトリになった。
良い悪いではなく、それが私たちの重ねてきた時間の作用による変化で、自然なのだ。
みんな変わる。
自然に変わる。
私は幼体。
でも私も変わった。
世の中のものは、大抵変わる。
今は一人で散歩をする。
昔と違って、一人は苦痛じゃない。気楽だ。
私は成熟した。ネオテニーになった。
仕事が休みの時間、私は歩く。
形の無いものについて考えながら、形の無いものに身を預けて、ぼうっと。
形の無いものを浪費する。
時間は流れる。
物語は過ぎゆく。
形無いものだけど、確かに。
大切なものは目に見えない。
見えぬけれどもある。見えぬものでもある。
生き物の気配が、空気に満ちている。
空は青い。星は見えない。
たんぽぽは儚い。強い根は見えない。
どこかで、虫が鳴いていた。
登るって楽しい。
身体全体で身体を引き上げて、その度にグンと近づく空と、その瞬間の軽い浮遊感。
頼りない、でも確かな足場をしっかり踏みつける爪先と、不安定に揺れる上半身。
登るって楽しい。
その足場が、鉄だろうと岩だろうと枝だろうと。
登るって楽しい。
だから、私は今日も、走る。
二時間くらい走る。
夜の公園は、広々と涼しくて、身体を吹き抜ける風が、涼しくて気持ちいい。
子どもや遊具を使う人がいないことを確認してから、遊具に近づく。
障害物競走だ。
タイマーを押して、駆け抜ける。
風を切って、腕を振って、足を跳ね上げて。
掴んで、引き上げて、しがみついて、飛び越えて。
地面を蹴って、壁を蹴って、足を掛けて、腕に力を込めて、速く、高く、軽やかに。
パルクールは楽しい。
どんどん身軽になれる。
どんどん高く登れるようになる。
どんどん空の中に居れる時間が長くなる。
アスレチックは楽しい。
どこまで身軽になれるか。
どこまで高く登れるか。
いつまで空の中に居られるか。
試すことができるから。
ずらりと埋め込まれたタイヤをまとめて飛び越えて、シーソーの上を素早く渡って、身体を翻しながら平均台を渡って、登り棒を蹴って…
跳ね回って、走り回って…
ふっと目線の端に映った遊具に足を止める。
それは、公園の外周を駆け巡る私の視界のはずれ、遊具の真ん中にまるでこの公園の王様みたいに、鎮座している。
ジャングルジム。
そういえば、私が登る楽しさに気づいたのは、ジャングルジムで遊んだ時だった。
足を止める。
初めてジャングルジムを遊んだ時を思い出した。
幼い自分の三倍はありそうにそびえ立つ頂点。
丸くてつやつやした棒に手をかけた時の、あの沸き立つようなワクワク。
意を決して、足の裏の半分もないつるつるの鉄に足を掛けて、身体を引き上げる時のスリル。
一段ごとに、グンと近くなる空と、遠くなる地面。
上半身は、登るにつれ、涼しくて優しい風に煽られて、不安定に心地よく揺れる。
そして、登りきった天辺の、不安定な鉄の棒に尻を預けて、見下ろす公園。
天辺を吹き抜ける爽やかな風。
あの日のあの感覚。
あの日確かに、私はやっと目が覚めたような気がしたのだ。
私はこの風を受けるためにここにいるような気さえした。
だから、私は今でも、登る。
今でも走る。
空の中に居たいのだ。
上半身を揺らして、下半身と四肢を弾ませて、そうして最後に爽やかな風を感じて、空と地面を見つめていたい。
月と街頭のスポットライトに照らされて、ジャングルジムはひっそりと立っている。
堂々と、この公園の王様であるかのように。
汗を拭う。
虫の声と街頭の雑音が、ジーッジーッと聞こえる。
爽やかな夜風が、私の肌に触れて、吹き抜けていった。
扉を閉めて、床に寝転ぶ。
畳まれた布団に頭を乗せて、ようやく一息がつけた。
スマホの電源を入れて、イヤホンを取り出す。
扉の向こうからは声が聞こえる。
同居人が見ている、アニメだかドラマだかの声。
思わず溜息が溢れる。
イヤホンを耳に押し込んで、そそくさと再生リストをタップする。
歌声が聞こえる。
耳奥に押し込んだイヤホンが、外の音を遮断して、鼓膜に歌声を伝えてくれる。
…うん、だいぶ気持ちが落ち着いた。
輝く照明をぼうっと見つめながら、歌声を聴く。
聴こえたメロディが唇からポロッと零れる。
合成音声の歌声。
合成音声の声。
どうも肉声は苦手だった。
人の声は、情報が多い。
強い感情、僅かな抑揚、声量…
人の声はいつだって、微妙な変化に富んでいて、セリフ以上の何かが含まれている。
それが、疲れるのだ。
普通に、日常的に話すのなら気にならないし、むしろ、そういう機微があれば、空気も感情も読みやすくてありがたい。
でも、休みの日、何もしたくない時、一人で趣味を楽しみたい時に、そんなにたくさんの情報量があるものを聴くのは、私には、大変だった。
同居人は、人の声が好きだという。
今見ている番組も、主演の声が“癒されボイス”で“推せる声”らしい。
それに、感情がすぐ声に出るため、推しである主演の役者の解釈のためには、声を聞くのが一番良いとかなんとか…
同居人は私にも勧めてくれたが、私には情報量が多すぎて煩いだけだった。
私の耳がおかしいのか?
私の脳がおかしいのか?
否、私にとってその声は“癒されボイス”ではなかった、それだけの話だ。
そして、そんな声を同居人は好きだっただけ。
だから、私は別に気にしていない。
人の声を聞きたくない気分の時は、私がそっと離れればいい。
同居人も、私の琴線に触れていないと分かった時からは、私の退室をそっとしておいてくれている。
さて、この話を他の人にすると、大抵こんな声が聞こえる。
「それって不満たまらない?我慢じゃん」
「合成音声より肉声の方がいいに決まってんじゃん。同居人さん可哀想」
「そんなの関係冷え込みそー」
そういう声は、感情がキツすぎる。
強くてねちゃねちゃした感情に包まれた、嫌味ったらしい声で、それで私はますます肉声が嫌になる。
だって、そういう役が出てきた時や、そういう役者が役を演じた時、肉声ならこのネチャネチャがセリフと一緒に飛んでくるんだろう?
合成音声も、抑揚や感情は籠るけど、ここまで雑音じみていない。
合成音声たちは、作者が意図した感情以外の感情は含めない。
それが私には楽で、心地よい。
それだけの話だ。
鼓膜に合成音声の歌声が突き刺さる。
口から溢れる自分の声が聞こえて、慌てて口を噤む。
向こうの部屋の邪魔になってはいけない。
私が合成音声の淡白な感情を聴き流し、聴き惚れながら楽しむ間、同居人はあちらで、少しの感情も変化も抑揚も見逃すまいと耳を澄ませているはずなのだから。
人の好きなことには、共感できなくても、理解と尊重は示すべきだ。
分からなくてもいいから、否定しないこと。
私はそういう人が好きだし、そうありたいから。
自分で何度も確認し、扉の向こうに意識を傾ける。
合成音声の声が聞こえる。
扉一枚挟んだ向こうに、真剣に耳を傾ける同居人の気配を感じる。
休日の昼下がりは、ゆっくりと過ぎてゆく。
あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の
秋の夜は長い。白い月だけが、空に残っている。
着物の裾から剥き出した足が、大して白くもないのに、暗闇の中で、ぼうっと色白に浮かび上がって見えた。
狭い蚊帳の中で、わざとだらしなく浴衣を着崩す。
四肢を思いっきり、目一杯伸ばす。
まさか泊まることになるとは思っていなかった。
こんな郭町の一店の一部屋で…
生き物というのは、元来の欲には逆らえないらしく、どの町にも茶店や宿屋と同じように、また郭町もあるものだ。
性別や嗜好に関わらず、恋をしたい人に銭と引き換えに、恋の体験を売る。そういう店が立ち並ぶ郭町はもちろん、この地域にもあった。
しかし、もう色恋の適齢期であるというのに、私の人生には全く縁のないところだった。
夜遊びや恋愛を禁じられているわけではなかった。
その類のものに一向に興味が湧かないだけだった。
そこで、私は色恋の話になると、友人のその話の内容に圧倒されるのが常だった。
今日来たのも、いつの間にか通うところが出来た友人に勧められて、半ば強引に同行させられたのだった。
ところが、私は友人が連れてきたこの店でも何もピンと来ず、とりあえず付き合いで一杯飲んでから、友人と別れて、ふらりふらりと客引きをかわしながら、街を歩いていた。
夕日の赤に、青黒い夜が溶け出して、空は紫色に滲んでいた。
一番星がぽつりと空に瞬いていた。
足を止めたのは、そんな夕闇の中の街角に、美しく朗々と紡がれる話を耳にしたから、だった。
そこでは、誰かがたった一人で、物語りをしていた。
着ているものは美しく派手で、袖口や袷から覗く肌は、まるで日を知らぬように真っ白だった。
どうやら、下働きや客引きではなく、商品として店に出ている芸子らしい。
冷静に考えられたのはそこまでだった。
私は、彼の語る物語に引き込まれてしまった。
場所が場所なだけに、物語は艶めいていて、扇情を煽るようなものであったが、しかし艶笑という言葉には止まらない、芸術的な響きと言葉遣いがそこにはあった。
そして何より私を惹きつけたのは、登場人物を演じる彼の、その演技の切迫だった。
物語の中の誰かを降ろした彼に睨まれたその刹那から、私は、影を縫い止められたかのように、じっと動けなかった。
ふっと気がついた時、もう語りはとっくに終わり、目の先には埃の積もった街角があるだけだった。
私の脳裏には、彼が、彼の語り演じるあの様子が、焼き付いて離れなかった。
どんな人間で、どんな生き方をすれば、あんなことができるのだろう。
あんな物語を語れるのだろう。
彼に会ってみたい、語りも演技もしていない、素の彼と話してみたい。
そんな気持ちだけが、胸を焦がしていた。
「あの人はァ、蜻蛉楼のとこの芸子さんだよォ」
振り返ると、節くれだった小柄の婆さんがいた。
「そこで語りやってたァ、あん人やろォ?…蜻蛉楼はもう開いてんやろ、行ってみれば話せるかもしれんの」
「あ、ありがとうございます」
思わずお礼を返す。
婆さんはいうだけ言って、ゆっくり歩き去っていった。
そこから蜻蛉楼なる店に向かった。
ところが、蜻蛉楼についた時、今日はこの町を封鎖する、と告げられた。
…どうやら、郭町の商品が一人行方知れずらしい。
郭町で恋を売る大抵の人間は、借金や借りのカタに働いている場合が多い。
そういう人を、タダで町から逃してしまえば、大きな損失になる。
だから、郭町の“商品”の人が行方不明になれば、町を封鎖して探すことが決まりらしい。
…驚いたのは、その行方知れずが、どうも私の探している芸子のようであった。
「どうも、申し訳ありませんね」
蜻蛉楼の旦那はそう言った。
「うちは曲者揃いなんですが、奴はどうも好き勝手、よく語りをしに出掛けてましてね。恥ずかしながら、誰も制御できんのですわ。その手の才能は、まあかなりのもので、うちもそれに助けられることもあるんですがね…まあ、いつも勝手に抜け出しおってもいつの間にか、勝手に帰ってくるんですけどもね。一応、念のため」
そう言うと、蜻蛉楼の旦那はすっと鍵を私の手に乗せて、続けた。
「…これも何かの縁。それとお詫びも兼ねまして、帰ってくるまで、どうかうちのこの部屋、使うと宜しいですわ。鍵付き、個室の客部屋になりますんで、お寛げると思います…」
こうして、私は今、蜻蛉楼の一部屋の、ご厚意で敷いてもらった蚊帳の中で、寛いで月を眺めているのだった。
個室の客部屋と言っても、普段は芸子が入ったり、複数人で泊まったりするのだろう。部屋は一人にしては大きく、広すぎた。
月だけが白く輝いている。
遠くで物悲しげに虫が鳴いている。
秋恋とはよく言ったものだと思う。
山鳥の、足に引くような長い尾ほど長い、長い秋の夜。
そして、一人ならそのお供は、物悲しげな虫の声と青白い月光だけ。
今、思った。
これは本当に人肌恋しい。
今まで一人はむしろ好きだったし、秋の夜長を切なく思ったことなどなかったが、これは…。
この広い部屋で、涼しい夜風の中、一人。
これはなかなか、寂しかった。
布団に仰向けに寝て、月を見上げる。
自分の四肢と月だけが、青白く浮いて見える。
遠くで、鈴虫が寂しげに鳴いていた。