薄墨

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扉を閉めて、床に寝転ぶ。
畳まれた布団に頭を乗せて、ようやく一息がつけた。
スマホの電源を入れて、イヤホンを取り出す。

扉の向こうからは声が聞こえる。
同居人が見ている、アニメだかドラマだかの声。

思わず溜息が溢れる。
イヤホンを耳に押し込んで、そそくさと再生リストをタップする。
歌声が聞こえる。
耳奥に押し込んだイヤホンが、外の音を遮断して、鼓膜に歌声を伝えてくれる。

…うん、だいぶ気持ちが落ち着いた。
輝く照明をぼうっと見つめながら、歌声を聴く。
聴こえたメロディが唇からポロッと零れる。

合成音声の歌声。
合成音声の声。

どうも肉声は苦手だった。
人の声は、情報が多い。
強い感情、僅かな抑揚、声量…
人の声はいつだって、微妙な変化に富んでいて、セリフ以上の何かが含まれている。

それが、疲れるのだ。
普通に、日常的に話すのなら気にならないし、むしろ、そういう機微があれば、空気も感情も読みやすくてありがたい。
でも、休みの日、何もしたくない時、一人で趣味を楽しみたい時に、そんなにたくさんの情報量があるものを聴くのは、私には、大変だった。

同居人は、人の声が好きだという。
今見ている番組も、主演の声が“癒されボイス”で“推せる声”らしい。
それに、感情がすぐ声に出るため、推しである主演の役者の解釈のためには、声を聞くのが一番良いとかなんとか…

同居人は私にも勧めてくれたが、私には情報量が多すぎて煩いだけだった。

私の耳がおかしいのか?
私の脳がおかしいのか?
否、私にとってその声は“癒されボイス”ではなかった、それだけの話だ。
そして、そんな声を同居人は好きだっただけ。

だから、私は別に気にしていない。
人の声を聞きたくない気分の時は、私がそっと離れればいい。
同居人も、私の琴線に触れていないと分かった時からは、私の退室をそっとしておいてくれている。

さて、この話を他の人にすると、大抵こんな声が聞こえる。
「それって不満たまらない?我慢じゃん」
「合成音声より肉声の方がいいに決まってんじゃん。同居人さん可哀想」
「そんなの関係冷え込みそー」

そういう声は、感情がキツすぎる。
強くてねちゃねちゃした感情に包まれた、嫌味ったらしい声で、それで私はますます肉声が嫌になる。

だって、そういう役が出てきた時や、そういう役者が役を演じた時、肉声ならこのネチャネチャがセリフと一緒に飛んでくるんだろう?
合成音声も、抑揚や感情は籠るけど、ここまで雑音じみていない。
合成音声たちは、作者が意図した感情以外の感情は含めない。
それが私には楽で、心地よい。
それだけの話だ。

鼓膜に合成音声の歌声が突き刺さる。
口から溢れる自分の声が聞こえて、慌てて口を噤む。
向こうの部屋の邪魔になってはいけない。
私が合成音声の淡白な感情を聴き流し、聴き惚れながら楽しむ間、同居人はあちらで、少しの感情も変化も抑揚も見逃すまいと耳を澄ませているはずなのだから。

人の好きなことには、共感できなくても、理解と尊重は示すべきだ。
分からなくてもいいから、否定しないこと。
私はそういう人が好きだし、そうありたいから。
自分で何度も確認し、扉の向こうに意識を傾ける。

合成音声の声が聞こえる。
扉一枚挟んだ向こうに、真剣に耳を傾ける同居人の気配を感じる。
休日の昼下がりは、ゆっくりと過ぎてゆく。

9/22/2024, 3:04:00 PM