薄墨

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あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の
秋の夜は長い。白い月だけが、空に残っている。

着物の裾から剥き出した足が、大して白くもないのに、暗闇の中で、ぼうっと色白に浮かび上がって見えた。
狭い蚊帳の中で、わざとだらしなく浴衣を着崩す。
四肢を思いっきり、目一杯伸ばす。

まさか泊まることになるとは思っていなかった。
こんな郭町の一店の一部屋で…

生き物というのは、元来の欲には逆らえないらしく、どの町にも茶店や宿屋と同じように、また郭町もあるものだ。
性別や嗜好に関わらず、恋をしたい人に銭と引き換えに、恋の体験を売る。そういう店が立ち並ぶ郭町はもちろん、この地域にもあった。

しかし、もう色恋の適齢期であるというのに、私の人生には全く縁のないところだった。

夜遊びや恋愛を禁じられているわけではなかった。
その類のものに一向に興味が湧かないだけだった。
そこで、私は色恋の話になると、友人のその話の内容に圧倒されるのが常だった。

今日来たのも、いつの間にか通うところが出来た友人に勧められて、半ば強引に同行させられたのだった。
ところが、私は友人が連れてきたこの店でも何もピンと来ず、とりあえず付き合いで一杯飲んでから、友人と別れて、ふらりふらりと客引きをかわしながら、街を歩いていた。

夕日の赤に、青黒い夜が溶け出して、空は紫色に滲んでいた。
一番星がぽつりと空に瞬いていた。

足を止めたのは、そんな夕闇の中の街角に、美しく朗々と紡がれる話を耳にしたから、だった。
そこでは、誰かがたった一人で、物語りをしていた。
着ているものは美しく派手で、袖口や袷から覗く肌は、まるで日を知らぬように真っ白だった。

どうやら、下働きや客引きではなく、商品として店に出ている芸子らしい。
冷静に考えられたのはそこまでだった。

私は、彼の語る物語に引き込まれてしまった。
場所が場所なだけに、物語は艶めいていて、扇情を煽るようなものであったが、しかし艶笑という言葉には止まらない、芸術的な響きと言葉遣いがそこにはあった。

そして何より私を惹きつけたのは、登場人物を演じる彼の、その演技の切迫だった。
物語の中の誰かを降ろした彼に睨まれたその刹那から、私は、影を縫い止められたかのように、じっと動けなかった。

ふっと気がついた時、もう語りはとっくに終わり、目の先には埃の積もった街角があるだけだった。
私の脳裏には、彼が、彼の語り演じるあの様子が、焼き付いて離れなかった。

どんな人間で、どんな生き方をすれば、あんなことができるのだろう。
あんな物語を語れるのだろう。
彼に会ってみたい、語りも演技もしていない、素の彼と話してみたい。
そんな気持ちだけが、胸を焦がしていた。

「あの人はァ、蜻蛉楼のとこの芸子さんだよォ」
振り返ると、節くれだった小柄の婆さんがいた。
「そこで語りやってたァ、あん人やろォ?…蜻蛉楼はもう開いてんやろ、行ってみれば話せるかもしれんの」
「あ、ありがとうございます」
思わずお礼を返す。
婆さんはいうだけ言って、ゆっくり歩き去っていった。

そこから蜻蛉楼なる店に向かった。
ところが、蜻蛉楼についた時、今日はこの町を封鎖する、と告げられた。
…どうやら、郭町の商品が一人行方知れずらしい。
郭町で恋を売る大抵の人間は、借金や借りのカタに働いている場合が多い。
そういう人を、タダで町から逃してしまえば、大きな損失になる。
だから、郭町の“商品”の人が行方不明になれば、町を封鎖して探すことが決まりらしい。
…驚いたのは、その行方知れずが、どうも私の探している芸子のようであった。

「どうも、申し訳ありませんね」
蜻蛉楼の旦那はそう言った。
「うちは曲者揃いなんですが、奴はどうも好き勝手、よく語りをしに出掛けてましてね。恥ずかしながら、誰も制御できんのですわ。その手の才能は、まあかなりのもので、うちもそれに助けられることもあるんですがね…まあ、いつも勝手に抜け出しおってもいつの間にか、勝手に帰ってくるんですけどもね。一応、念のため」
そう言うと、蜻蛉楼の旦那はすっと鍵を私の手に乗せて、続けた。
「…これも何かの縁。それとお詫びも兼ねまして、帰ってくるまで、どうかうちのこの部屋、使うと宜しいですわ。鍵付き、個室の客部屋になりますんで、お寛げると思います…」

こうして、私は今、蜻蛉楼の一部屋の、ご厚意で敷いてもらった蚊帳の中で、寛いで月を眺めているのだった。

個室の客部屋と言っても、普段は芸子が入ったり、複数人で泊まったりするのだろう。部屋は一人にしては大きく、広すぎた。

月だけが白く輝いている。
遠くで物悲しげに虫が鳴いている。

秋恋とはよく言ったものだと思う。
山鳥の、足に引くような長い尾ほど長い、長い秋の夜。
そして、一人ならそのお供は、物悲しげな虫の声と青白い月光だけ。
今、思った。
これは本当に人肌恋しい。

今まで一人はむしろ好きだったし、秋の夜長を切なく思ったことなどなかったが、これは…。
この広い部屋で、涼しい夜風の中、一人。
これはなかなか、寂しかった。

布団に仰向けに寝て、月を見上げる。
自分の四肢と月だけが、青白く浮いて見える。
遠くで、鈴虫が寂しげに鳴いていた。

9/21/2024, 2:54:01 PM