薄墨

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9/20/2024, 1:54:46 PM

道徳の時間に、先生が言った。
「こんなふうに、生きている動物にはみんなそれぞれ、それぞれの事情があって、物語があるんですよ。みんなにも、このお話のピーちゃんのような豚さんにも、先生にだって、大切に思っている人がいて、これまで過ごしてきた時間が、そこにはあるんですよ」

当時、ピーちゃんの話に感動していた俺は、えらく感心した。
さっきまでの休み時間に、友達が一生懸命好きな動画について話していたことを思い出した。
俺はそんな動画のことなんて知らなかったけど、友達の物語にとっては重要なことだったのかもしれない。
ピーちゃんを育てていたクラスメイトにとってのピーちゃんみたいに。

みんな、誰かのピーちゃんかもしれないし、みんな、大事なものがあるんだ。
大事にしなきゃ、大事にしたい、そう思った。

「すみません、お兄さん。道に迷ってしまって、伺いたいんですが…」
後ろから声をかけられて、我に帰った。
振り返ると、グレーのスーツに身を包んだ、身なりの綺麗なおじさんがスーツケースを片手に引いて、はにかむような困った表情をして、こちらを見ていた。

「いいですよ。どこまで行かれるんです?」
俺はスマホで地図アプリを起動しながら、おじさんに笑いかけた。
「すみません…」
おじさんはホッとしたような、申し訳なさそうな顔で、小さく肩をすくめながら、俺の手元を覗きこんだ。

「よろしければ、一緒にいきましょうか?」
口頭の道案内に自信がなくて、思わず口走る。
「いえ、そこまでは申し訳ないですから。まだ時間に余裕もありますし。…ありがとうございました。お時間おかけしてすみませんね」
おじさんは会釈をすると、スーツケースを引いて、通りを進んで行った。

その背中を見送ってから、俺は反対方向へ歩き出す。
上手くいけただろうか、迷ってはいないだろうか、ああ、あの時の道筋はこう言ったほうが伝わりやすかったのでは?…でも望んでいない親切はおせっかいだし、それはもう“大事にする”でなくて、“大切にする”になるもんな…そんなことを考えながら、俺は俺の目的地に向かって歩く。

みんなを大事にしたい、まだ児童だった頃に根付いたその気持ちは、今も俺の言動に根を張っている。
俺は出来る限り、色々なものを大事にしていこうと決めて、出来る限り、実行してきた。

巷ではこういうのを“博愛主義”というらしい。

だが、この博愛主義というのは、あまりよろしくないし、理解できないものらしい。
俺のことを好きだった人や、俺の母なんかは、みんな揃って「あなたの博愛主義にはついていけない!」「みんなと私、どっちが大切なの?!」「私のこと、大切って言ったじゃない!」と怒鳴って、いつの間にかどこか疎遠になってしまった。

みんなを大事にしたいだけなのになあ。釈然としないまま、でも博愛主義や俺の道徳を押し付けるのも、なんだか相手を大事にしていない気がして、俺は黙って、その背中を見送った。

背中。そう背中。
みんなを大事にすると、感謝されても愛想を尽かされても、どっちの場合でも、俺は、進んでいくみんなの背中を見送ることになった。
大きい背も、小さい背も。背筋の伸びた元気な背も、猫背に屈んだくたびれた背も。

俺は、最後に去っていく大事にした人の背中を見送るのが、一番好きだった。
僕が思うに、大事にしたいというのは、誰かが目標に向かって進む背中を愛情を持って見送りたいと思うこと、なんだと思う。

「お前、その“大事にする”を何人かに絞らねえと、恋愛も結婚もできねえぞ?」
いつか、俺の親友はそう言った。
別に構わない、恋愛できなくても。俺は大事にした背中を見送るのが好きだから、と伝えると、彼は心底楽しそうに笑って、
「お前がいいなら。…お前みたいのが、現代の神職が天職なんだろうな。牧師とか神父とか向いてると思うぞ」
ま、俺は普通に経済学科行って、民間、就職して、他県に出るんだけどな。そう言って、彼は屈託なく笑った。

彼の家は、教会だった。
その彼が言うのだから、今の教会は確かに俺に向いているのだろう。
昔と違って、今は宗教と政治は分離されているし。

神父か。
それもいいな、と思う。
そもそも俺、特にやりたいこともなかったし。
それに、親友の彼も喜んでくれそうだ。

彼とは、ずっと仲良くしていたかった。
彼の背中を見送りながらも、彼とはいつまでもずっと一緒にいたかった。
俺が思うに、これが大切にしたいということなんだと思う。

街中は相変わらず、人通りが多い。
ガヤガヤと喧しい人々のみんなに、大事なものがあって、大切なものがある。
だから大事にしたいんだ、大切が見つかってから尚も、俺はそう思う。

あのおじさん、ちゃんと迷わず着けたかな?
そう思いながら、俺は足早に歩く。
親友との待ち合わせ場所に向かって。
今日もたくさんの人が、街の通りを行き交っていた。

9/19/2024, 1:19:31 PM

現在の亡霊なんて、クリスマス・イブの深夜にしか出ないと思ってた。
緑のマントを纏った精悍な巨人の亡霊が、豊穣のツノを象ったグラスを握ってそこに立っていた。

いったい、こんな平日の真っ昼間に何をしに来たのだろうか。
小説の中の現在の亡霊は、祝日の、たくさんの祝福と幸せな気持ちを、行く人行く人に振り撒いていたはずなのだが。
なぜこんな平日の街中で、灼熱の空気がぐらぐらと揺れるアスファルトの中で、僅かな緑地帯の公園の方をじっと見て棒立ちしているのか、全く分からない。

何より不思議なのは、道行く人たちが、その亡霊を気にしないばかりか、動きをぴたりと止めて、まるで時間が止まったかのように静止していることだった。

空を見上げると、羽ばたいていたカラスや電線へ舞い降りようとするハトまで、一時停止ボタンを押されたように空中で静止していた。

街中は不自然に静まり返って、何もかもが停止していた。

その静かなコンクリートの街中に、出し抜けに笑い声が響いた。
ゲラゲラ、と、騒々しくてわざとらしくて、とても大きな笑い声だった。

目線を動かすと、やはり、緑のマントに身を包んだ現在の亡霊が、背を僅かに反らせて、腹式呼吸で笑っていた。

「時間よ止まれ!と望んでみたが、やはりそうだよなあ。…そんなことをしたって、何にもならない」
そう言ってまた、ゲラゲラと笑う。

その笑い声には、亡霊の、自身に向けた嘲笑と、諦観と深い悲しみが色濃く滲んでいることに気づいた。

気づいた途端、無性に、亡霊の視線の先が気になった。

私は、恐る恐る、ゆっくりと亡霊の背中から回り込んで、視線の先を覗いた。
背中を汗が滴り落ちた。
私は息を呑んで、立ち尽くす。

…視線の先では、あの子が蹲っていた。
いくつもの無碍な足蹴りと、乱暴な拳と爪と、泥に晒されて。

「時間を止めたところで、救えるわけでもないのになあ」
背後から、亡霊の重たく低い声が響いた。


…そこで目が覚めた。
背中を汗が伝っていた。
枕はぐっしょりと濡れていた。
頭が痛い。目が腫れぼったかった。

私には分かっている。
あの日の夢だ。あの時の…
あの、あの子がまだ子供だった頃の…
私があの子のために、「時間よ止まれ!」と、ただ祈ってしまった時の、あの瞬間の。

私は自分から動けなかった。
私はあの子を救えなかった。
私はあれを止められなかった。
許せないと思っていたのに、私が実際にしたことは、祈ることだけだった。

私は、あの子も、あの子を虐めていた子も、救えなかった。

ぬるく熱を持った湿ったタオルが、額から布団の上にずり落ちた。
昨夜の熱が下がらなくて、私は今日、休みを取って眠っていたのだった。

…昨夜、あの子が死んだことを遠い遠い知り合いのSNSから人伝に知った時からの、この熱を下げるために。

あの瞬間は、私の中では今も今のことだ。
紛れもない現在の出来事だ。
「時間よ止まれ」と祈った時から、私の心の片隅で、あの一瞬の時間は永遠に止まったままなのだ。

頭が重たくて、痛かった。
目も四肢の節々も、ぐったりと怠く項垂れていた。
タオルを掴む。喉がひりつくような渇きを感じた。
時計の分針が、カチリ、となった。

のろのろと掛け布団を剥ぐ。
蛇口から水が一滴、シンクに落ちた。
ボトリ、重たい水の音が、一人の手狭な部屋いっぱいに響いた。

9/18/2024, 2:09:20 PM

夜風が吹き抜けていく。
夜は随分涼しくなった。

チカチカと光る信号機が見える。
仄かにオレンジの街灯が照らす漆黒のアスファルト。
向こうのビルの窓から、蛍光灯の光が漏れている。

ぼんやりと夜景を眺めて、飲み物を一口飲む。
冷たいアルミ缶の曲線を撫でる。
カフェインの甘ったるい苦味が、喉に染みる。

色とりどりの灯りで彩られた地上から、空を見上げる。
星一つない真っ暗闇だ。

西日で目を覚まして、夕焼けで空が真っ赤に染まる頃に家を出て、ここまでやってくる。
書類をまとめて、時計のネジを巻いて、今日の仕事の段取りをして、デスクに座る。
そんな、完璧な夜行性の生活を始めて、もう2年が経つ。

この時間の外は、寂しい。
賑やかな灯り以外は、何もかも夜の帷に包まれて、すっかり沈黙を守っている。
星も月も夜に埋もれていて、夜の空気は静かに張り詰めている。

遠くから、土木作業の点検車の音が聞こえる。
最寄りの駅では、回送列車の点検でもしている頃だろうか、夜の張り詰めた空気に、低い駆動音がかすかに響いている。

この寂しい、人気のない夜景は嫌いじゃない。
夜の街、この夜景の、蝙蝠のような主張のない静けさが、むしろ好きだ。
そして、この仕事も俺はすっかり気に入っている。

缶を傾けて、中身をすっかり飲み込んでしまう。
ランドマークがぼんやりとライトアップされている。

そろそろ仕事に戻らなきゃな、休憩は終わりだ。
カフェインを一滴残らず飲み干して、そう思う。
まだ、翻訳しなくてはいけないメールが幾つもあるのだ。
それにあんまり遅くなると、向こうで定時が来てしまう。あの国は、みんな定時が来ればさっさと帰ってしまうから、至急の仕事は早くやってしまわなくては。

缶の腹に親指を添えて、グッと力を込める。
ぐしゃり、と音を立てて、アルミ缶が撓む。

俺の仕事はメールの翻訳だ。
仕事場に着いたら、時差の少ない国から順に、外国から届いた問い合わせメールやビジネスメールをできるだけ分かりやすく、自然な正しい日本語に翻訳し、逆に外国人向けに日本語で書かれたメールを、分かりやすくて自然で正しい外国語に直す。
日本語に直したメールは、それぞれの宛先の受信ボックスに、原文メールに添付してしまう。
外国語に直したメールは、時差を考慮して、現地の常識的な時間に間に合うように送りつける。

翻訳は、簡単なようで難しい。
そして、結構楽しい。
送り主のメールから、送り主が伝えたいことを読み取る。
文化や言い回し、単語の微妙な違いを踏まえて、送り主の伝えたいことをピタリと言い表せる言葉を探す。
メールを組み立てて、送信する。

そうしてやっと作り上げたメールを読み返して送信する時には、達成感と愛着が心を満たす。
試行錯誤して出来たメールが、送り主の伝えたいことを巧く表せていれば表せているほど、それは俺の言いたいことではないはずなのに、メールがなんとも愛しくて、俺の芸術や表現という感じがして、なんだか作品のような気さえする。

自分で一から何かを書こうとは思わない。
なぜか俺には、ピタリと単語がハマって、誰かの言葉を巧く綺麗に取り持てた時が、一番楽しいのだ。

変わっているな、と知り合いや友人からはよく言われる。
夜勤なんて寂しいな、と言われることもある。
だが、俺はこの仕事が、生活が好きだ。
寂しい夜景に彩られた、孤独の地味なこの仕事が。

天職なんだと思う。
俺は、夜景が肌に馴染む人間なのだ。
帳を、黒子の衣装を纏っていたい人間なのだ。誰がなんと言おうと。

空は相変わらず真っ暗だ。
アルミ缶をゴミ箱に投げ入れて、踵を返す。
蛍光灯で眩しい、自分の仕事場に向かって歩き出す。

夜景は相変わらず、独りぼっちで静かに、とても眩しく瞬いていた。

9/17/2024, 1:43:39 PM

一面に花が綻んでいた。
風が吹く。
ふわり、と、柔らかい花弁が舞い、甘ったるい香りが広がる。
羽音を震わせて、マルハナバチが花の中を飛び回っている。

涼しい風が吹き抜ける。
花の茎は何の音も立てずに、静かに撓んで、萼が揺れる。
花びらが舞う。

僕のキツネはどこにいるんだろう、と思う。
満開に咲き誇る花は、どれも幸せのように、美しく、華やかで、儚くて。でも、どれも僕の大切な花ではない。

この素晴らしい花たちは、僕ではない誰かが慈しんで咲かせた、満開の花畑だ。
誰かの、誰かによる、誰かのための花畑。
僕を楽しませてくれるけど、僕だけのための花ではない、有象無象たち。

マルハナバチが低く飛んでいる。
湿った空気の匂いが、甘い花の香りの中に、僅かに混じっている。
切ないくらいに真っ青の空が、高く深く広がっている。
風が、肌を刺してゆく。
花びらが、また舞う。

僕は、この花畑の中で、自分だけの花を探していた。
自分だけの一輪に出会いたかった。

石造りの壁はどれも崩壊して、陽の光に当てられている。
ボロボロの石レンガの隙間にも、たくさんの花が顔を出している。
小さな花も。大きな花も。

花畑の真ん中で、僕は独りぼっちだった。
変わらない物はなく、世の中の物は全ていつか壊れるのだ、と僕は知っていたはずだった。
どんな熱烈な愛も、溢れる願いも、爽やかな尊敬も、いつかは変わるのだ、と。
人徳は一番アテにならないものだ、と。
僕は知っていたはずだった。

胸の奥から、切なさが迫り上がってきている。
鼻にツンと染みる。

誰でも良かった。
僕の一番大切なものを悟らせてくれる誰かが欲しかった。
変わってしまった人々に追われ、全てを捨ててしまった僕が、本当は何を大切にしたかったのか、誰かに教えてもらいたかった。

僕は、自分だけの一輪の花を見つけたかった。

でも僕は、独りぼっちだった。

風は振り返らずに、僕の肌を掠めて通り抜けていった。
花は見向きもせず、僕の足元で風を浴びていた。
この花畑にある全てのものは、みんな僕など気にしていなかった。

僕は、独りぼっちだった。

ふわり、と、風が抜けていった。
一歩後ろを、花びらと香りがふわりと通り過ぎた。
マルハナバチの翅が、低くハミングしている。

真っ青な空から何かが落ちて、頬を触った。
湿った空気が、もうすぐそこまでやってきていた。

9/16/2024, 2:45:34 PM

お社じゃなくて、あっちの山に神様がいるような気がした。
“空”を見上げる。
頭上には、抜けるほどの青がどこまでも美しく広がっている。
コンクリートが灼熱に焼けている。

鳥居の向こう、真っ白な入道雲が、むくむくと肩を広げている。
蒸し暑い空気が、ゆったりと周りを取り巻いている。

飴を舐め溶かす。
こんな炎天下の天気には、とても合わないなと思いながら。
空腹が頭を揺らす。

ここからどこへ行こう。
アテはなかった。たった今、ここに来た理由を失ったところだった。

白い雲はまだまだ大きく育っていた。
あの雲がこの頭上を覆い隠せば、次期にここでも空が泣く。

今日はここで友達と待ち合わせのはずだった。
けれど、彼女はまだ来ない。
空が泣いたから。

私たちの頭上には、大きな瞳がある。
私たちを覗く目。
私たちの太陽の目。
私たちの日常の外側に繋がる目。
空。私たちの空。

きっと目の持ち主の空は幼いのだろう。
この大きな大きな瞳は、視界を隠されると泣くのだ。
駄々っ子のように、大声で、激しく。

私たちは雨の日だけは、あの瞳から解放される。
あの瞳の目線を外れる。
あまりに激しく泣くものだから、瞳の存在自体は忘れられないし、逃げられないのだけれど。

入道雲がむわりと、太る。
鳥居の奥で、際限なく広がって、瞳を隠そうとする。
今日、空が泣く。

カバンにつけた鈴が、ちりん、と呟いた。

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