薄墨

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道徳の時間に、先生が言った。
「こんなふうに、生きている動物にはみんなそれぞれ、それぞれの事情があって、物語があるんですよ。みんなにも、このお話のピーちゃんのような豚さんにも、先生にだって、大切に思っている人がいて、これまで過ごしてきた時間が、そこにはあるんですよ」

当時、ピーちゃんの話に感動していた俺は、えらく感心した。
さっきまでの休み時間に、友達が一生懸命好きな動画について話していたことを思い出した。
俺はそんな動画のことなんて知らなかったけど、友達の物語にとっては重要なことだったのかもしれない。
ピーちゃんを育てていたクラスメイトにとってのピーちゃんみたいに。

みんな、誰かのピーちゃんかもしれないし、みんな、大事なものがあるんだ。
大事にしなきゃ、大事にしたい、そう思った。

「すみません、お兄さん。道に迷ってしまって、伺いたいんですが…」
後ろから声をかけられて、我に帰った。
振り返ると、グレーのスーツに身を包んだ、身なりの綺麗なおじさんがスーツケースを片手に引いて、はにかむような困った表情をして、こちらを見ていた。

「いいですよ。どこまで行かれるんです?」
俺はスマホで地図アプリを起動しながら、おじさんに笑いかけた。
「すみません…」
おじさんはホッとしたような、申し訳なさそうな顔で、小さく肩をすくめながら、俺の手元を覗きこんだ。

「よろしければ、一緒にいきましょうか?」
口頭の道案内に自信がなくて、思わず口走る。
「いえ、そこまでは申し訳ないですから。まだ時間に余裕もありますし。…ありがとうございました。お時間おかけしてすみませんね」
おじさんは会釈をすると、スーツケースを引いて、通りを進んで行った。

その背中を見送ってから、俺は反対方向へ歩き出す。
上手くいけただろうか、迷ってはいないだろうか、ああ、あの時の道筋はこう言ったほうが伝わりやすかったのでは?…でも望んでいない親切はおせっかいだし、それはもう“大事にする”でなくて、“大切にする”になるもんな…そんなことを考えながら、俺は俺の目的地に向かって歩く。

みんなを大事にしたい、まだ児童だった頃に根付いたその気持ちは、今も俺の言動に根を張っている。
俺は出来る限り、色々なものを大事にしていこうと決めて、出来る限り、実行してきた。

巷ではこういうのを“博愛主義”というらしい。

だが、この博愛主義というのは、あまりよろしくないし、理解できないものらしい。
俺のことを好きだった人や、俺の母なんかは、みんな揃って「あなたの博愛主義にはついていけない!」「みんなと私、どっちが大切なの?!」「私のこと、大切って言ったじゃない!」と怒鳴って、いつの間にかどこか疎遠になってしまった。

みんなを大事にしたいだけなのになあ。釈然としないまま、でも博愛主義や俺の道徳を押し付けるのも、なんだか相手を大事にしていない気がして、俺は黙って、その背中を見送った。

背中。そう背中。
みんなを大事にすると、感謝されても愛想を尽かされても、どっちの場合でも、俺は、進んでいくみんなの背中を見送ることになった。
大きい背も、小さい背も。背筋の伸びた元気な背も、猫背に屈んだくたびれた背も。

俺は、最後に去っていく大事にした人の背中を見送るのが、一番好きだった。
僕が思うに、大事にしたいというのは、誰かが目標に向かって進む背中を愛情を持って見送りたいと思うこと、なんだと思う。

「お前、その“大事にする”を何人かに絞らねえと、恋愛も結婚もできねえぞ?」
いつか、俺の親友はそう言った。
別に構わない、恋愛できなくても。俺は大事にした背中を見送るのが好きだから、と伝えると、彼は心底楽しそうに笑って、
「お前がいいなら。…お前みたいのが、現代の神職が天職なんだろうな。牧師とか神父とか向いてると思うぞ」
ま、俺は普通に経済学科行って、民間、就職して、他県に出るんだけどな。そう言って、彼は屈託なく笑った。

彼の家は、教会だった。
その彼が言うのだから、今の教会は確かに俺に向いているのだろう。
昔と違って、今は宗教と政治は分離されているし。

神父か。
それもいいな、と思う。
そもそも俺、特にやりたいこともなかったし。
それに、親友の彼も喜んでくれそうだ。

彼とは、ずっと仲良くしていたかった。
彼の背中を見送りながらも、彼とはいつまでもずっと一緒にいたかった。
俺が思うに、これが大切にしたいということなんだと思う。

街中は相変わらず、人通りが多い。
ガヤガヤと喧しい人々のみんなに、大事なものがあって、大切なものがある。
だから大事にしたいんだ、大切が見つかってから尚も、俺はそう思う。

あのおじさん、ちゃんと迷わず着けたかな?
そう思いながら、俺は足早に歩く。
親友との待ち合わせ場所に向かって。
今日もたくさんの人が、街の通りを行き交っていた。

9/20/2024, 1:54:46 PM