薄墨

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夜風が吹き抜けていく。
夜は随分涼しくなった。

チカチカと光る信号機が見える。
仄かにオレンジの街灯が照らす漆黒のアスファルト。
向こうのビルの窓から、蛍光灯の光が漏れている。

ぼんやりと夜景を眺めて、飲み物を一口飲む。
冷たいアルミ缶の曲線を撫でる。
カフェインの甘ったるい苦味が、喉に染みる。

色とりどりの灯りで彩られた地上から、空を見上げる。
星一つない真っ暗闇だ。

西日で目を覚まして、夕焼けで空が真っ赤に染まる頃に家を出て、ここまでやってくる。
書類をまとめて、時計のネジを巻いて、今日の仕事の段取りをして、デスクに座る。
そんな、完璧な夜行性の生活を始めて、もう2年が経つ。

この時間の外は、寂しい。
賑やかな灯り以外は、何もかも夜の帷に包まれて、すっかり沈黙を守っている。
星も月も夜に埋もれていて、夜の空気は静かに張り詰めている。

遠くから、土木作業の点検車の音が聞こえる。
最寄りの駅では、回送列車の点検でもしている頃だろうか、夜の張り詰めた空気に、低い駆動音がかすかに響いている。

この寂しい、人気のない夜景は嫌いじゃない。
夜の街、この夜景の、蝙蝠のような主張のない静けさが、むしろ好きだ。
そして、この仕事も俺はすっかり気に入っている。

缶を傾けて、中身をすっかり飲み込んでしまう。
ランドマークがぼんやりとライトアップされている。

そろそろ仕事に戻らなきゃな、休憩は終わりだ。
カフェインを一滴残らず飲み干して、そう思う。
まだ、翻訳しなくてはいけないメールが幾つもあるのだ。
それにあんまり遅くなると、向こうで定時が来てしまう。あの国は、みんな定時が来ればさっさと帰ってしまうから、至急の仕事は早くやってしまわなくては。

缶の腹に親指を添えて、グッと力を込める。
ぐしゃり、と音を立てて、アルミ缶が撓む。

俺の仕事はメールの翻訳だ。
仕事場に着いたら、時差の少ない国から順に、外国から届いた問い合わせメールやビジネスメールをできるだけ分かりやすく、自然な正しい日本語に翻訳し、逆に外国人向けに日本語で書かれたメールを、分かりやすくて自然で正しい外国語に直す。
日本語に直したメールは、それぞれの宛先の受信ボックスに、原文メールに添付してしまう。
外国語に直したメールは、時差を考慮して、現地の常識的な時間に間に合うように送りつける。

翻訳は、簡単なようで難しい。
そして、結構楽しい。
送り主のメールから、送り主が伝えたいことを読み取る。
文化や言い回し、単語の微妙な違いを踏まえて、送り主の伝えたいことをピタリと言い表せる言葉を探す。
メールを組み立てて、送信する。

そうしてやっと作り上げたメールを読み返して送信する時には、達成感と愛着が心を満たす。
試行錯誤して出来たメールが、送り主の伝えたいことを巧く表せていれば表せているほど、それは俺の言いたいことではないはずなのに、メールがなんとも愛しくて、俺の芸術や表現という感じがして、なんだか作品のような気さえする。

自分で一から何かを書こうとは思わない。
なぜか俺には、ピタリと単語がハマって、誰かの言葉を巧く綺麗に取り持てた時が、一番楽しいのだ。

変わっているな、と知り合いや友人からはよく言われる。
夜勤なんて寂しいな、と言われることもある。
だが、俺はこの仕事が、生活が好きだ。
寂しい夜景に彩られた、孤独の地味なこの仕事が。

天職なんだと思う。
俺は、夜景が肌に馴染む人間なのだ。
帳を、黒子の衣装を纏っていたい人間なのだ。誰がなんと言おうと。

空は相変わらず真っ暗だ。
アルミ缶をゴミ箱に投げ入れて、踵を返す。
蛍光灯で眩しい、自分の仕事場に向かって歩き出す。

夜景は相変わらず、独りぼっちで静かに、とても眩しく瞬いていた。

9/18/2024, 2:09:20 PM