薄墨

Open App

現在の亡霊なんて、クリスマス・イブの深夜にしか出ないと思ってた。
緑のマントを纏った精悍な巨人の亡霊が、羊のツノを象ったグラスを握ってそこに立っていた。

いったい、こんな平日の真っ昼間に何をしに来たのだろうか。
小説の中の現在の亡霊は、祝日の、たくさんの祝福と幸せな気持ちを、行く人行く人に振り撒いていたはずなのだが。
なぜこんな平日の街中で、灼熱の空気がぐらぐらと揺れるアスファルトの中で、僅かな緑地帯の公園の方をじっと見て棒立ちしているのか、全く分からない。

何より不思議なのは、道行く人たちが、その亡霊を気にしないばかりか、動きをぴたりと止めて、まるで時間が止まったかのように静止していることだった。

空を見上げると、羽ばたいていたカラスや電線へ舞い降りようとするハトまで、一時停止ボタンを押されたように空中で静止していた。

街中は不自然に静まり返って、何もかもが停止していた。

その静かなコンクリートの街中に、出し抜けに笑い声が響いた。
ゲラゲラ、と、騒々しくてわざとらしくて、とても大きな笑い声だった。

目線を動かすと、やはり、緑のマントに身を包んだ現在の亡霊が、背を僅かに反らせて、腹式呼吸で笑っていた。

「時間よ止まれ!と望んでみたが、やはりそうだよなあ。…そんなことをしたって、何にもならない」
そう言ってまた、ゲラゲラと笑う。

その笑い声には、亡霊の、自身に向けた嘲笑と、諦観と深い悲しみが色濃く滲んでいることに気づいた。

気づいた途端、無性に、亡霊の視線の先が気になった。

私は、恐る恐る、ゆっくりと亡霊の背中から回り込んで、視線の先を覗いた。
背中を汗が滴り落ちた。
私は息を呑んで、立ち尽くす。

…視線の先では、あの子が蹲っていた。
いくつもの無碍な足蹴りと、乱暴な拳と爪と、泥に晒されて。

「時間を止めたところで、救えるわけでもないのになあ」
背後から、亡霊の重たく低い声が響いた。


…そこで目が覚めた。
背中を汗が伝っていた。
枕はぐっしょりと濡れていた。
頭が痛い。目が腫れぼったかった。

私には分かっている。
あの日の夢だ。あの時の…
あの、あの子がまだ子供だった頃の…
私があの子のために、「時間よ止まれ!」と、ただ祈ってしまった時の、あの瞬間の。

私は自分から動けなかった。
私はあの子を救えなかった。
私はあれを止められなかった。
許せないと思っていたのに、私が実際にしたことは、祈ることだけだった。

私は、あの子も、あの子を虐めていた子も、救えなかった。

ぬるく熱を持った湿ったタオルが、額から布団の上にずり落ちた。
昨夜の熱が下がらなくて、私は今日、休みを取って眠っていたのだった。

…昨夜、あの子が死んだことを遠い遠い知り合いのSNSから人伝に知った時からの、この熱を下げるために。

あの瞬間は、私の中では今も今のことだ。
紛れもない現在の出来事だ。
「時間よ止まれ」と祈った時から、私の心の片隅で、あの一瞬の時間は永遠に止まったままなのだ。

頭が重たくて、痛かった。
目も四肢の節々も、ぐったりと怠く項垂れていた。
タオルを掴む。喉がひりつくような渇きを感じた。
時計の分針が、カチリ、となった。

のろのろと掛け布団を剥ぐ。
蛇口から水が一滴、シンクに落ちた。
ボトリ、重たい水の音が、一人の手狭な部屋いっぱいに響いた。

9/19/2024, 1:19:31 PM