薄墨

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9/3/2024, 1:42:34 PM

肘に小さな青あざが出来ていた。
きっと、ボーっとしている時に、どこかにぶつけてしまったのだろう、そう思うことにした。
僕にとっては、この身体に残る傷は、些細なことでしかなかった。

今日も両親は帰ってこない。
ばあちゃんとじいちゃんの話す小さな声が、リビングの方から聞こえてくる。

洗面台の前に立つ、痩せた僕が、白く曇った鏡に映っていた。

兄ちゃんがいなくなってから、半年が経とうとしていた。
兄ちゃんがいなくなってから、妹たちが夜中に突然、泣き出すことが増えた。
兄ちゃんがいなくなってから、じいちゃんは夜通し起きているようになった。
兄ちゃんがいなくなってから、ばあちゃんは兄ちゃんの分の食事を一晩、リビングに置いておくようになった。

服を丸めて洗濯機に投げ入れた。
強張った関節がきしり、と鳴った。

僕は兄ちゃんの行方を探していた。
兄ちゃんが僕を置いて行くなんて、そんなこと、死んでもするはずがないと思っていたから。
兄ちゃんは生きているんだ、と思った。
きっと、不思議な世界で、ちょっと面倒ごとに巻き込まれて、仮死になっているか、何かを探しているか、そういうことをしてるんだ、と。

兄ちゃんは、好奇心いっぱいの強い心を持っていて、誰よりも家族が好きだった。
兄ちゃんは、些細なことでもよく気付いた。
特に僕が怪我をした時なんかは、たびたび、鬱陶しく感じるくらいに大騒ぎした。
妹の些細な表情の変化を嬉しがり、大げさに褒めて祝った。

笑いかけると、すごく嬉しそうに深い笑みを返してくれた。
嘆願すると、もどかしそうに眉を顰めた。
怒りや悲しみを訴えると、刺されたような顔をして、目を逸らした。
兄ちゃんは、嘘をつく時、よく目が泳いだ。

しつこくて、優しくて、よく気がついて、嘘が下手な兄ちゃんの身体が、動かずに帰ってきたのは、冷たい雨の日だった。

あの日から、僕は兄ちゃんを探し続けた。
探し続けて、探して、探して。
見つかった真実は、どれも複雑で、絶望に満ちていた。

兄ちゃんが関わった事件。
払った代償。
迫られた選択。
妹の出自。
そんなことを知っていく過程で、僕は、僕が偽物であることを知った。

あの日から、僕の身体は僕のものではなくなった。
僕の指は、味気ないゴム手袋越しのような感触だけを、僕に伝えるようになった。
僕の関節は、何かにぶつかっても変わらずに軋んだ。
僕の肌は、切れても打たれても、機械的な皮と肉の損傷を、視覚的に伝えるようになった。

僕の世界から、痛みは消えた。
触れているということ以外の感触も消えた。
僕は、僕に起こるどんな大切な変化にも、些細なことでも、見逃すようになった。
どんな傷も、今の僕には些細なことだった。

兄ちゃんは生きている。
家に身を寄せ合って暮らす僕たちの日常の外のどこかで、兄ちゃんは生きている。
そして、その生きている兄ちゃんが、僕の痛みに、変化に気付いてくれる。
どんな些細なことでも、兄ちゃんが気付いてくれる。
それが、僕に残された最後の希望のように思えた。

お風呂に入らなくてはならなかった。
じいちゃんとばあちゃんが心配するから。

バスタオルを引っ張り出して、ドアの前に置いておく。
シャワーが苦手になった。
汚れを流す心地良さも、水の熱さも寒さも、もう分からなかったから。

気は進まなかった。
でも僕は、明日もじいちゃんとばあちゃんを助けなくてはいけなくて、兄ちゃんを探さなくてはいけなくて、妹の兄でなければならなかった。
じいちゃんの淋しそうな声に、今夜も目が覚めたらしい、妹たちの啜り泣きが被さった。

一息吐き出して、お風呂場へ足を向ける。
頼りない感触で石鹸を握りしめ、戸を開ける。
戸を閉めるために、洗面所へ向き返る。
洗面台の鏡は曇っていた。

9/2/2024, 1:30:02 PM

暖かな暗闇の中で、目を凝らす。
滑らかな乳白色のナイチンゲール像の肌が、蝋燭の火に照らされて、杏色に浮かび上がっている。

私たちは、僅かにサイズの大きいナースキャップを、それぞれ押し戴いた。
端正に折り目をつけられたそれは、手付かずのボール紙のような真っ白さで、白衣とナースキャップを身につけた私たちは、深雪のような清潔な沈黙の月白を身に纏っていた。

手に持つ燭台が僅かに震えた。
燭台の上の蝋燭は、灰白色に影を落としながら、やはり私たちと同じように沈黙していた。
ドロリとした生成色の蝋が、芯の外側に、カピカピにこびりついていた。

ゆっくりと、火がやってくる。
薄暗い最中の蝋燭に、火が順々に灯る。
冷たい燭台の上の蝋燭に、熱いほどの温みが灯されていく。
次々に蝋燭に温みを呼び覚ますその様は、神々しい天使の所業か、死の淵から指先だけで人を生かす神業めいた治療のように思えた。

やがて自分の手元の蝋燭に、その温みが灯された時、思わず口から息が漏れた。
白衣の月白と蝋燭の灰白色が、ほんのりと杏色に和らいだ。
手の内に灯る光が、畏れ多くて美しく、それでも淡く愛おしくて、命のように温かかった。
蝋燭の火に照らされたナイチンゲール像の杏色が、生きているように思われた。

あの日、私たちはこの仕事の光の側面を見たのだ。
蝋燭の火の中に。
荘厳な、始まりの儀式の中に。
冷たくなりゆく命に向き合って、温みを取り戻すこと。
私たちの献身で、人の温みを呼び覚ますこと。
その喜びと愛しさを、この仕事において生涯背負い、目指すことになるこの杏色の灯火を。
私たちの心の灯火を。
私たちの理想を。
私たちはそれぞれ、あの杏色の灯火の中に見たのだ。

灯火を得た翌日から実技が始まって、それから私は、もう長い間ずっと、現実と、患者と、向き合い続けることになった。
荘厳で潔白で甘美な前日と違って、現実は卑近で黒ずんでいて、厳しかった。

諦めなくてはいけない命もあった。
間に合わなかった命もあった。
非情にならなくてはならない時もたくさんあった。
触れた指の先で温みを失っていく感触に、慣れてしまうほど、現実は暗く苦かった。

それでも。
それでも私の心には、あの戴帽式の時の杏色の灯火があった。
弱々しく、でも患者さんの体に温みが戻るたびに、それは柔らかく燃えて、温かくあり続けた。
杏色の心の灯火は、前にある道を照らしてはくれなかったが、私の足元をずっと照らし続けてくれた。

私は今日、退職する。
清潔で、冷たい暗闇に向き合うこの場所を後にする。

心の灯火は置いていく。
次の看護師の、次の医療従事者の、私の同志の足元を照らしてほしいから。

人生の大部分で纏っていた白に背を向ける。
燭台の上には、白濁して垂れた蝋が、絶えずちろちろと燃えている。

踵を返す。
一歩を踏み出す。
乳白色のナイチンゲール像が、静かに見守ってくれている。
あの夜とは別の、でも確かな温みを感じる優しい眼差しで。

涼しい風が、足元を撫でていった。

9/1/2024, 2:04:21 PM

スマホがメンヘラムーブかましてる。
起き抜けにアラームを止めて、スマホを起動して、そう思った。

大抵、夜中の間に俺のメッセージアプリには、友人からのメッセージが入っている。
現在、大学生として人生の夏休みを謳歌している身であり、周りの友人達も大抵は、ふわふわとこのモラトリアム期間を謳歌していた。
友人の中には、すっかり夜行性になっている奴や深夜まで遊び回る奴も珍しくなかった。

そんなこんなで、比較的、規則的で健康的な夏休みを過ごすタイプの俺のスマホには、俺が眠っている間に友人からいくらか連絡が来るのが常で、アラームを止めた直後にそれらの連絡を確認するのは、俺の日課となっていた。

だから、今日もいつも通り、通知を確認して、アプリを開こうとした。
メールで大学からの連絡を確認して、友達からの連絡を確認しにLINEへ。

…ところが、タップしても画面が動かない。
開かない。
画面が真っ白になって暗転し、ぴくりとも動かない。

開けられないLINEを前に、しばらく呆然とする。
すると、画面が急に動いて内カメラを起動させる。
慌ててスワイプすれば、待ち受けには戻れる。

一体これはどういうことなんだろうか。
不具合?ウイルス?スマホの故障?神様からの罰?
…とりあえず、大学に行ったら、友達には一言詫びを入れなきゃいけないな、めんどくせぇ。

とりあえずLINEを閉じて、検索エンジンを立ち上げる。
開けられない LINE
検索バーに入力してみる。

不具合やウイルス情報に混じって、都市伝説のサイトが出てきた。
気になって開いてみる。
タイトルはまさに『開けないLINE』。

どうやら、とある曰く付きの心霊スポットの写真が、特定の時間に送られてきたスマホのLINEは開けなくなり、内カメラを勝手に起動し、そのまま内カメラに写ってしまうと、画面に写っている自分と入れ替えられてしまうという話らしい。

これは…。
通知を確認にして、画像の送り主を確認する。
驚いた。俺は都市伝説_いや怪談に巻き込まれてしまったようだ。

これは…。

僥倖だ。
思わず口の端が上がる。
こんな現象を引き起こす怪異とは一体、どんな奴なのだろう。
期待で胸が弾む。

俺は、代々神主を務める家の生まれだ。
そのおかげで、生まれた時から見えないはずのものが見えたし、触れないはずのものが触れた。
初めて怪異に出会って目覚めたのも、4歳くらいの頃だった。

通っていた幼稚園に、怪異が住み着いていた。
煙の塊みたいな、大したことない奴だったが、怖がりな保育士さんを始め、みんなが怖がっていた。

だから。
だから俺は、食べてみたのだ。
モヤモヤの怪異を。
おやつの時間に一緒に。

めちゃくちゃ美味かった。

それからというもの、俺は怪異が大好物になった。
奴らときたら、味も食感も多彩で、飽きがこない。
食べる前に抵抗するやつもいて、そのスリルも楽しくて食前の良い刺激になる。たまらない。

今回の怪異_『開けないLINE』はどんな味がするだろうか?
どんな抵抗をするのだろうか?

ごくりと唾を飲む。
非常に楽しみだ。

とりあえず、画像を送ってくれたアイツには、何かお礼の菓子でも買っておこう。
電子マネーの残高を確認しながら、アイツの好物がなんだったのか、を考える。
一気に目覚めた俺の胃がぐぅとなった。

8/31/2024, 2:27:18 PM

水をかけた。
榊を生けて、線香を焚いた。
ひぐらしが鳴いていた。

完全ならば、誰にも持ち上げられない石を作れるか?
二人っきりでそんな話をした。
のどかな昼下がりに、そんなくだらないことでいつも盛り上がった。

僕は、完全な人を目指している。
運動も得意で、勉強も学歴もしっかり積み上げて。
履歴書はどの欄も空白が足りないほど充実した人生を送らせてもらっていて、世間話のネタになる話題や経験については事欠かない。
失敗も山ほどして、成功経験もいくつか積み上げていて。
インターネットの浸透によって、世界中との比較ができるおかげで、上も下も知っている。
自分の環境が恵まれていたことも知っているし、だからこそ、気遣いもできる。
そんな完全な人間になりたいと思っていた。

だから、僕は君が、完全なものとは何かを考えながら全能の矛盾について話すとき、いつも「完全なら作れないし、作れないことは矛盾にはならない」と答えた。
完全で全知で全能なモノならば、完全になれない不条理さも、不完全なモノ達の苦悩も、深く知り得ているはずだと思っていたから。
完全で全知全能でなんでもできるのだから、失敗をすることすら可能だと思っていたから。

そう答える僕の心根は、失敗や不完全を知り得ない完全が人を救うのは難しいので、そんな完全は意味がない、と考えていた。

僕の心根を知ってかしらずか、僕の回答を聞くと君はいつも微笑んで、
貴方らしいね。優しいのね。
と、静かに言った。

でも、何度この話をしても、僕の意見を聞いても、君はいつも「矛盾だ」と言っていた。
それでも、失敗は失敗で、出来ないのはおかしいし、出来て持ち上げられないのも、完全じゃないと。
貴方の意見は論理的だけど、やっぱり理解できないって。

君は完璧主義だった。
【完全】や【完璧】は君の神様で、君はいつもそれらの忠実な信徒で僕(しもべ)で。
【完全】に心底心酔して、執着して、信仰して、努力を重ねていた。

だから、僕は完全を目指していた。
君に心から愛してもらえて、君を安心させられるような、完全な人間になりたいと思った。
不完全なままの君が好きだと、ずっと思っていたし、伝え続けていた。

でも、僕は一番大切なことを分かっていなかった。
一番最初に理解しなくてはならないことを理解していなかった。

ある夏の日に君は死んだ。
自殺だった。
社会人だった僕らには関係ないはずの、夏休みの最後の日に。
一番、自ら絶つ命が増える日に。

僕は、完全主義の人の気持ちを理解していなかった。
完全主義の完全とはどんなものなのか。
完全に近づこうとする他人が近くに居るというのはどういうことなのか。
完全に焦がれているのに、不完全な自分を、不完全なところを愛されるというのはどういう気持ちなのか。
僕は分かっていなかったし、今もまだ理解できていなかった。

不完全な僕だった。

墓石をそっと撫でた。
手を合わせて、目を瞑った。
線香の香りが立った。
君の姿が、瞼の裏に浮かんだ。

ひぐらしが、うるさいほどに鳴いていた。

8/30/2024, 1:55:26 PM

「…マスタァ、香水の瓶って捨てるの結構手間かかるんスね」
カウンター席の向こうに置かれたグラスと、“JIN”とラベルのある、透明な液体の入った瓶を引き寄せながら、俺は言った。

「…アルコールを分解するにはまだ早過ぎますよね。お子様は大人しく、ノンアルコール飲料をどうぞ」
マスターは、忌々しくも鮮やかな手つきで、俺の左手のグラスを器用に取り上げ、冷蔵庫から水蒸気の立ちのぼる、ほっそりとした瓶を取り出した。
流れるように栓抜きで口を開け、グラスに注ぐ。

俺の感情とは裏腹に、俺の口内は脊髄反射で唾を飲み、俺の右手は瓶をカウンターの向こうに差し出す。
差し出すついでに微かな抵抗を試みる。
「でもマスタァ、俺はもう酒分解できるくれえの生い立ちしてると思わねえの?」

「そんなことで未成年が飲酒できるなら、私に相談に来る知り合いの大半は、二十になる前に飲めるってことになっちまいますがぁね」
マスターはにやりと笑って、優美にグラスを差し出した。

受け取って、一口飲む。
弾けるような二酸化炭素の刺激と、ジンジャーの辛くて甘い抜けるような味が、口内に広がる。

「で、お姉さんの香水、まだ捨てられてないんですねえ。あんな啖呵切ってた割には」
白い布でグラスを磨きながら、マスターは言う。
「…そうっスねぇ。捨てれねぇの」
ジンジャーエールのぱちぱちの刺激に目を瞑りながら、俺はため息混じりにマスターに返す。

「…もういっそのこと、落として割ってしまったらどうです?」
マスターは何気ない風で付け足した。
「あの時、あなたが言ったことは正しいんですから。『過ごした時間が長いとか、ポリシーとか立場とか、そんな綺麗事でなんもしてくれない輩よりも、どんなに知り合った期間が短くても、何処の馬の骨か知らなくても、悪人だったとしても、建前だとしても、自分に対して親切にしてくれて、有益なことやものを渡してくれる奴の方が好きになるに決まってる!』…だったか。それは正しい、世の真理です。あの時は感心しましたよ。生後5年のホムンクルスが言ったとはとても思えませんでしたから」

俺は、返す言葉を探す間を埋めるために、またちびりとジンジャーエールを口に含んだ。

俺は一ヶ月前に、たまたま迷い込んだマスターと、たまたま居合わせた数人の人に助けてもらった。
俺たちは、俺たちの家_研究所の実験台からこの世界に連れ出してもらった。
それまでは、俺も姉さんも、実験漬けの毎日だった。
母さんに忠実だった姉さんは、家を家族の絆を守ることにずっと固執していた。
…だから縁を切ることにした。俺は、俺じゃない過去の誰かを見るような目で、俺と姉さんに苦痛を強いるこの家が、好きじゃなかったからだ。

姉さんと母さんは、不思議な香りをいつも仄かに纏っていた。
姉さんに言わせると、それは母さんに貰った信頼の証で、俺たちへの愛情らしかった。
母さんに言わせると、その香りはまじないで、バケモノに襲われないためのお守りらしかった。
そして、俺たちの家にはずっと香っていた匂いだった。

その香水は、紆余曲折を経て、俺の手元にあった。
_正確には、俺の部屋に、俺の新しい家のタンスの中にあった。

俺は、過去の象徴を未だに捨てられずにいた。
何故だかは分からないけど。
俺の脳は、感情は、捨てろと言うのに、俺の脊髄は、その意見をずっと否定していた。

いや、俺のそんな言葉は建前で、本当は、俺は捨てたくないのかもしれない。
香水も、母さんも、姉さんも、研究所であったことも。

「…落とした方がめんどくせぇじゃん。捨てんの」
今日だってそうだ。
今日だって俺は、自分でも苦しいと分かる言い訳を呟く。

「…まあ、それもそうですよねぇ」
そして、それを指摘しないマスターの優しさに、まだ甘えている。

…マスターの言う通り、俺はまだまだお子様なのかもしれない。
過去に縋り続ける、お子様。

ジンジャーエールを口に含む。
ジンジャーの爽やかな甘辛さが、鼻を刺して抜けていった。

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