「言葉はいらない、ただ・・・」
「おまっ、言葉はいらないって最終兵器みたいな言葉放っといて、この期に及んで、言葉でなんか行動希望すんのかよ!」
「お前マジそういうとこだぞお前!!さんざギザ野郎ってイジられんのそういうとこだぞ!」
「るっせえ!てめーらがなんかいい感じに女性に聞いてもらえるような希望の伝え方を教えろって言うから、恥を忍んで言ったんだろうが!感謝しろ感謝!!」
「こんなんで本当に効くのかよ」
「俺たちには微塵も刺さらねーぞ」
(それが効くんだよなぁ…)
隣の席で騒ぐ男子学生たちを尻目に、私はスマホのトークアプリ画面に目を落とす。
そこには、“深刻な顔で、『言葉はいらない、ただ・・・連絡先登録するの、俺だけにしてくれ。行動で示して欲しいんだ』って来ててさー、もうそんなん消すしかないよねー。…ってわけでグループ抜けます!”と、いうメッセージが届いている。
返信をする気も起きず、電源ボタンを押す。
冷たい紅茶を啜る。
隣では相変わらず、男子学生たちがギャアギャアはしゃぎながら、お昼時のカフェを楽しんでいる。
(言い方や聞き心地の良さに惑わされずに内容をきちんと聞き取るスキルって、大切なスキルだよなあ…)
そんなことを思いながら、デザートのミニケーキをつつく。
言葉のいらないおひとり様カフェ。
気楽で良いものだ。
氷が、からり、と音を立てる。
紅茶の中でゆっくりと氷が溶けていく。
カフェの、穏やかな昼下がりは、ゆっくりと過ぎてゆく。
完全に休日だった。
今日は一日中、ダラダラと怠惰を貪っていた。
畳んだ布団を枕に、床に寝転んで。
余暇時間を贅沢に食い潰していた。
読破済の本を流し読みして、読み潰した漫画をなんとなく捲って、視聴済の動画を視聴して、たまに気を引くおすすめ動画があればそれを開く。
脳を使う気なんて微塵もなかった。
今日の用事は、数時間前に行った病院くらい。
微熱と軽い頭痛。それから軽い食あたり。
動けないほどではないけれど、動く気はしない。そんな体調不良。
一応、内科にかかって薬はもらって、後はもう何をする気もない。
布団にくるまって眠り込むやる気も深刻さもないけど、学校に行ける気はしない。
だから欠席連絡を入れて、とりあえず体力を使わずにゴロゴロすることにしたのだった。
ぐずぐすの体調管理の一日。ダメダメだけど、忙しい毎日にふと恋しくなるそんな一日。
今日はそういう日になるはずだった。
突然の君の訪問。
間の悪いことにそれは今日だった。
君は元気で強い人間。
誰よりも努力をして、誰よりもエネルギッシュで、誰よりも正しい、普通…いや、努力の才能に恵まれた人間。
君がインターホン越しに用件を告げた時、正直、気持ちが落ち込んだ。
君に何が分かるだろうか。
今日、ここで君と会って休みの理由を正直に話したとして、幻滅されてズル休みと見做されて、最悪、噂になって…そんなことになるのがオチだろって。
君は、学校でも人生でも一番の友達だった。
人としての出来は全然違うけど、君が眩しかったし、君に憧れていたし、ずっと仲の良い友達でいたかった。
だから、絶望した。
ここで友情は終わってしまうんだって。
今まで隠してきた、怠惰を極めた本性に呆れられて、疎遠になるんだって。
そんな葛藤を知ってか知らずか、君は家にやってきた。
とりあえず、迎え入れる。
麦茶を出す。
向かい側に座る。
くらくらする。
なんだか頭痛が痛い。酷くなってきた気がする。
緊張からか、心臓がすごく嫌な音を立てている。
君の顔をまともに見れない。
いつも通り、明るく笑って、君がプリントを差し出す。
夕日が窓から差し込んでいる。
君の次の言葉が怖い。
君が麦茶を一口含む。
喉を湿らせて、それから何か言おうとする。
顔を上げられない。
身体が熱い。
頭痛い。お腹も痛くなってきた気がする。
君が血相を変える。
慌てて向かいの席から立ち上がる。
目が霞む。
脂汗と冷や汗が止まらない。
瞼が重い。
君の慌てた顔が見える……
…
目が覚めた。
布団の上で、君が隣で声を掛けてくれた。
どうやら、緊張と行きすぎたネガティブ思考からか、あの後、倒れてしまったらしい。
上半身を起こす。
目に涙を浮かべ、大袈裟に喜ぶ君を見て、一抹の罪悪感と、胸いっぱいの安堵感が込み上げる。
…ああ、君はよくできた人間で、最高の友だ。……それに比べて僕ときたら……
複雑な気持ちから、ようやく君宛の言葉を絞り出す。
「…ありがとう。君が友達で良かった」
ズル休みスレスレで休んだ日の、突然の君の訪問。
…心臓に悪すぎる。
いつの間にか、外はだいぶ暗さを増していた。
次は_
平坦なアナウンスが響き渡る。
ガタタン、ゴトン ガタタン、ゴトン
眠気を誘う揺れが、特徴的な音と共に伝わる。
窓に背を向けて、リュックを抱える。
目の前にある、向かいの車窓には、絶えず雨粒が打ちつけて、ゆっくりと滴ってゆく。
外の天気のせいか、いつもより車内が少し暗いような気がする。
湿った匂いが鼻を抜ける。
_お出口は右側です
アナウンスが黙り込む。
雨が窓を叩いている。
傘、持ってない。
心細くなって、膝の上のリュックを抱きしめる。
昨日、自分の足でしっかり立って生きると決めたのに。
木綿豆腐ばりに強く固めたはずのメンタルは、ふやけた紙みたいになってしまった。こんな雨だけで。
いつかの雨の日、雨に濡れている人を見た。
目的地だけを見据えて、無心で歩く傘の群れの中に、その人はいた。
急がず、慌てず、傘も持たずに、空を見つめていた。
雨に降られているというよりも、雨に佇む。
その人は、ふとこちらを見て微笑んだ。
穏やかな、優しい、綺麗な笑みだった。
傘の中で疲れ切った私より、ずっと幸せで、楽しそうな顔だった。
憧れた。
雨に佇む人になりたいと思った。
それだけ強く、穏やかで、したたかな芯のある人間でいたいと思った。
いつか、雨に佇む人になるんだ、と決めた。
4日前、積み上げていたものが全て崩れたあの日、私はあの、雨に濡れて微笑む、穏やかなその人を思い出した。
雨に佇む人に憧れたのを思い出した。
だから私は行動した。
残った所持品をまとめて、背負って、電車に乗った。
自分の力で生きよう、自分の好きなところへ行こう。そう決意した。
だが、私はまだ雨に佇むには勇気が足りないみたいだ。
雨に濡れるのが怖い。
雨粒の冷たさも、雨雲の寒さも、周りの人の目も。
…それとも、一度佇んでみれば、こんな恐怖も感じなくなるんだろうか。
…リュックを抱きしめる。
今や私の唯一の味方の、私の物たちを。
ガタタン、ゴトン ガタタン、ゴトン
電車は進んでいく。
まもなく_
アナウンスが喋り出す。
雨はさっきよりも強く、車窓を打っていた。
「マジかぁ」
久しぶりに上がった隣家の2階で、思わず呟く。
自分の部屋が窓の外の向かいに見える机の前で、私はしばらく立ち尽くした。
机の上には、分厚い冊子が置かれている。
ちょっとした辞典のように立派な分厚い…。
…表紙には上段に「10年日記」下段に「私の日記帳」。
金で印刷された上段の読みにくい字に対して、下段の字は掠れた黒マジックのあの子の字。
私の部屋の真向かいにあるこの部屋にいた、私より少し年上のあの子は、魔法使いだった。
幼い頃から、あの子は私に魔法を見せてくれた。
千切れたぬいぐるみを治してくれた。
破れてよれよれの紙飛行機の羽をピンと伸ばしてくれた。
割ってしまったママのマグカップをこっそり直してくれた。
間違えて混ぜちゃった牛乳を、コーヒーから取り分けてくれた。
夕焼けの日に照らされながら彼女がステッキを振る。
魔法がかかる。
私がはしゃぐとあの子は嬉しそうに笑って、手を握ってくれた。
あの子の目は苺みたいに赤くて、白い肌と色の抜けた髪がショートケーキみたいに可愛かった。
その見た目の特異性のせいか、あの子と私が外で遊ぶことはなかった。
それでも、彼女の部屋で遊ぶのは、何より楽しかった。
お互いの窓から、紙コップと凧糸で作った電話線を張り巡らせた。
声を出したくない時は、お手紙を紙飛行機に折り変えて窓から飛ばした。
私たちはお互いがお互いに、一番の仲良しだった。
ある日からあの子の部屋に行けなくなった。
まもなくして、彼女は大勢の大人に囲まれて出ていった。
病院に行くらしかった。
自分の部屋に上がると、窓際の机に、紙飛行機が辿り着いていた。
あの子が部屋を去る時、最後に私に飛ばした紙飛行機らしかった。
紙飛行機にはあの子の字が踊っていた。
「もし私に会えなくなったら、私の日記帳をあげるから。私の日記帳には秘密があってね。全部読みきったら魔法が使えるよ!」
あの子とあの子の家族は、この街では馴染めていなかった。
そんなわけで、私は、彼女が死んで二週間も過ぎたこんな日に、あらゆるお節介な視界を掻い潜ってようやく、あの子の日記帳に辿り着いた。
辿り着いた結果がこれだ。
10年日記…!?
あの子が筆マメなのはよく知っていたけど、まさかここまでとは。
…私は文字を読むのが苦手だ。
ぎっしり並んだたくさんの文章を見るとどうしても目が滑る。頭に入ってこない。
あの子の手紙の字が踊っているように見えるのも、実のところは私が読みやすいように空白をたくさん開けているから、そう見えるのだった。
…だから正直、日記にはちょっとうんざりした。
私が魔法を使えるのはいつになるんだろうか…。
とりあえず私は日記帳を手に取った。
それをそっと持ち出した鞄に忍ばせる。
それからそうっと階段を降りる。
今日、私は引っ越す。
この街から、ママの田舎に帰るらしい。
きっと、これから私はもう二度と、あの子とあの子を知る人に会うことも、あの子に縁のある景色を見ることもないのだろう。
だからこの日記帳は大切にしよう。
大切なあの子の日記帳。あの子が書いた私のための、私の日記帳。
ぜったいに離すものか。
そうっと家路に着く。
あの子はあの大きな本の中に何を書いたのだろうか。
字を読むのは嫌いなはずなのに、日記帳を開く時が、なぜだか、とても楽しみだった。
これ以上、顔を上げることができなかった。
手元の、やたら背の高い洒落たグラスの中で、氷がからり、となった。
テーブルを挟んで向かい合わせに座った、あの人の顔を見ることはどうしてもできなかった。
「どうしたんだい?下ばかり見て」
いつものように世間話をするような、軽い声で、あの人は僕にそういった。
笑いさえ混じるような口ぶりで。
汗が頰を伝って落ちた。
今日は真夏のはずなのに、店内のクーラーがやけに肌寒く感じる。
「ねえ、どうしたんだい?」
あの人はいたぶるように続けた。
僕は顔を上げられなかった。
ずっとあの人のネクタイの結び目を見つめていた。
汗が滝のように、顔の輪郭を伝って滴り落ちる。
手汗がひどい。
あの人が軽く息を吸った。
何かを話すつもりだ。
そう思った時、僕の口は勝手に弱々しく言葉を絞り出していた。
「ごめんなさい…」
「なぜ謝るんだい?」
間髪を容れず、あの人は答えた。
芝居がかった疑問系で、弄ぶような口調だった。
直感的に僕は絶望する。
バレてる。僕がしたことは全てあの人にバレているんだ。
肩が震える。
服と肌の隙間を、冷や汗が滑り落ちる。
僕は、路上で生きてきた。
貧乏で貧乏で、教養も人間性も善悪も時間も、お金と食べ物に変えていかないと生きていけなかった僕の両親は、当然、まともな感性など持ち合わせていなかった。
両親の暮らしぶりが悪くなり、僕が大きくなって、同情による金銭的価値を提供できなくなった時、僕は路上に放り出された。
僕は、両親の背から習ったように、人間性を、善悪を、道徳を、実益に変えて、生きてきた。
殺し以外ならなんでもした。
今、向かい合わせに座る、あの人に会うまでは。
あの人は、僕にお金を渡した。
路上で生きてきた僕を、目にするといった。
身請け人として僕の生活を保証するから、その代わり、路上で起きていること、関わったもの全てを私に話せ、とあの人は言った。
全てに飢えていた僕はそれを了承した。
あの人が何をしているか、どんな立場なのかはわからない。
ただ一つ言えるのは、僕が報告したその日から、路上で暮らす過去の僕みたいな人々は少しずつ、少しずつ、減っていった。
あの人は僕に文化的な生活を与えた。
あの人は僕を学校に入れ、教育を施した。
僕は少しずつ、少しずつ、ものを知った。
自分が今までしていたこと、他人の気持ち、全ての人に生活と命があること…
僕は考える力を手に入れた。
僕は生活に意義を見出せるようになった。
あの人は、僕に善悪や道徳心や人間性を買い戻した。
僕は自分の生活について考えるようになった。
自分の人生について、自分の罪について、あの人について。
…僕が今していることについて。
昨日、僕は嘘をついた。
仕方なかった。
仕方なかったんだ!
昨日、路上でぶつかったはずみに僕のハンカチをくすねたあの子は、本当に小さい子だった。
小さくて、まだ幼くて、かわいそうな子だった。
…だから、僕は嘘をついた。
そんな子、いないって。
あの人は、僕の嘘に頷いた。
上手くやれたと思った。救えたと思った。
それが間違いだった。
今日の朝、朝食を取るためについたテーブルで、僕と向かい合わせに座ったあの人は、昨日と同じ柔らかな微笑で、一言、こう言った。
「話がある。外出の準備ができたらついてきなさい」
あの人は気づいたんだ。
僕が嘘をついたことに。あの人を裏切ったことに。
顔を上げられない。
怖い。
恥ずかしい。
無力だ。
仕方ない。
謝らなきゃ。
助けなきゃ。
嫌だ、僕だけでも助かりたい。
いろんな感情が混ざり合う。
昨夜まであんなに、自然と向かい合わせで笑えていたのに。話せていたのに。
…今は怖くて仕方ない。
冷房が寒い。
怖い。
いつもつけているあの人の赤いネクタイの、ネクタイピンが恐ろしく無機質に見える。
怖い。
膝が震える。
拳をキュッと握る。
僕はこれからどうすればいい?何が正解なのだろう。
あの人はあれから、何も言わない。
あの人の視線が突き刺さっている。
何も言わずにじっと僕を見つめている。
どうしよう。
どうしたらいいんだ。
周りのざわめきが、ひどくやかましく、遠く聞こえる。
窓の外の蝉の声が、うるさかった。