頭が重い。
捨てそびれたゴミ袋が、真っ先に目につく。
布団の中からスマホを引き寄せて、SNSを起動する。
テキトーにリテラシーの範囲内で、コメントを投稿してから、布団の中で寝返りを打つ。
今日の配信予定時間はあと二時間後だ。
まだ眠れる。
赤らんだ日を遮光するカーテンを眺めながら、そう思う。
積み重なったプラスチックの空容器と、丸めて捨てられたティッシュ。
ぐちゃぐちゃに重ねた雑誌の雪崩と、乱立する空っぽのペットボトルの間に、錠剤のゴミがぐしゃぐしゃに握りつぶされて落ちている。
足の踏み場もない狭い部屋に、すっきりと片付いた一角がある。
配信器具とカメラとマイク、それから編集用のパソコン。配信用のものを固めた、配信テーブルだ。
手元カメラの画角に入るそこだけは、きちんと片付けている。
手元のスマホの画面を見やる。
さっきのコメントに対して、さっそく返信が流れている。
取るに足らない喧嘩、誰でも書けそうな薄っぺらい一文、面倒で自己中な絡み、本人以外には全く面白さが分からない怪文書…
見るだけですえた匂いが漂いそうなコメントが、今日もネットの中を漂っている。
足首が痒い気がする。
そういえば、この布団を最後に洗ったのはいつだっただろうか。
最後に布団をあげたのはいつだったろうか。
エゴと欲でゴミ屋敷のようなSNSを閉じて、飲食店の配達アプリを立ち上げる。
閉店までに夕食を注文しておかなくては。
最近は、あんなに好きで、頼りになる存在だったはずの実家の両親からの連絡ですら、鬱陶しい。
まだかろうじて細々と縁が続いている彼氏や、学生時代あんなに一緒にいた同級生も鬱陶しい。
自分の今の生活がどうしようもなくダメな事は分かってる。
昼夜逆転、人間不信、不健康な生活、ネットびたりで区切りなしの虚の毎日…
それでも。
それでも私は、この世界を捨てられなかった。
同級生の半数が子持ちになったとSNSで気づいたあの夜も。
両親が連絡を取るたびに私を怒鳴るようになったあの夜も。
私は捨てられなかった。
布団から這い出して、パソコンの前に座る。
動画サイトを立ち上げる。
たくさんのコメント。たくさんの登録者。たくさんのいいね。
SNSを立ち上げる。
たくさんのコメント。たくさんのフォロワー。たくさんのファンアート。
だるい絡みがほとんどだけど、体にも心にも毒だけど、それでも。
それでも私はこの生活を、この世界を捨てられなかった。
スマホを横に置いて、夕飯を注文しながら、パソコンに届いているメールとコメントに目を通す。
薄暗く閉め切った部屋に、画面の光が目に眩しい。
ブルーライトを体に浴びる。
日光浴より毒々しく、でも私が一番欲している光。
これが私のいつまでも捨てられないもの。
今までもこれからも、いつまでも捨てられないもの。
正しさも、真っ当さも、幸せも、人間性すらも捨て去った私の人生の中で、ただ一つ捨てられないもの。
無機質な白い光が、顔を照らす。
カーテンの向こう側には、夜の帳が下りていた。
美しい派手な尻尾を引き摺りながらゆく。
砂埃は、尾羽の間に積もっていく。
重くて長い矜持と自分への期待を引き摺って今日も行く
嗚呼、孔雀としてではなく、翡翠のように生きられたら
いつか本で読んだ一節が、頭にリフレインする。
何一つ守れなかったヒーローが行くべき先はどこなのだろうか。
尻尾を引き摺りながら、考える。
砂埃が舞い上がる。
痩せこけた体にまとわりついている緋色の尾羽_もとい不死身のマント。
これを授けられた時、心は甘美な誇らしさと鎮重な責任感で満ちていた。
士官学校を主席で卒業し、次期ヒーローとして認められたあの日。
あの日が、この緋色の尾羽が最も美しかった時かもしれなかった。
ヒーローとして行った事は、すべて空回りした。
じわじわと事態は悪化した。
そして、戦いは終結した。どちらも不戦敗という形で、平和が訪れた。
不死身のマントを授けられ、矜持と栄誉の不死身能力を授けられたヒーローたちの掌に残ったのは、砂埃と死の灰だけだった。
何もできなかった私たちヒーローは、擦り切れた心身に、過去の色褪せた誇らしさを纏って、当て所もなく歩いていた。
火緋色の尾羽はただ重いだけだった。
あの時感じた誇らしさも、重たさも、緋色の鮮やかさも。
今となっては重たすぎるだけだ。
全てが砂と化した世界は。
守るものがなくなった世界は。
喉の渇きがひりつくように痛かった。
視界は眩暈がするほど広かった。
耳鳴りがするほど辺りは沈黙に満ちていた。
一歩毎に膝が折れるほど、緋色の尾羽は重たかった。
私たちの他には何もない。
何も持っていなかった。
過去の誇らしさ以外には。
孔雀としてではなく、翡翠のように生きれたら
長すぎる尾羽を引き摺って行く。
砂がただ、緋色の尾羽を汚していた。
白く泡立つ波だけが見える。
寄せて返す、白い波は、くるぶしに触れてからそっと真っ暗な海の水面に消えていく。
砂浜を裸足で歩く。
ひんやりとした砂が指先を埋めてゆく。
月の明かりだけが、優しくこちらを見つめている。
クラゲは死の象徴であるというのは本当だろうか。
確かに、海水を凝固させただけのような、骨なしの不思議なあの生き物は、幽霊のように見えるだろう。
私は、クラゲが死の象徴であることを信じて、海岸でクラゲを探し続けている。
あの子が、白い白波とうねる水面の中に吸い込まれていったあの日が、海馬に焼き付いている。
私の幼馴染で、一番の友人だったあの子は、気づいたら海水に足を取られて、私たちが憧れていた人魚の世界に旅立ってしまった。
私に残ったのは、水脹れでむくれたあの子の抜け殻と、夜の海よりも冷たくて重い、悲しみと罪悪感だけだった。
海は波を運んでいる。
規則正しい波の音が、静かな砂浜にただただ響いている。
あの時、いっそ私も人魚になってしまいたかった。
目につく世界に弾かれて、信頼のおける家族も友人もいなかった私たちは、お互いがお互いの、唯一の友人だった。
あの日だって、海に遊びにいくということは、私とあの子だけの、秘密の約束だった。
あの日の事故は、あの子の家族の監督不行き届きとされた。
約束をしていたこと、一緒に遊んだことを私は言わなかったから。
私は、あの子のいない人生なんてどうでも良いと思っていたから。
あの日、あの夏から、私はずっと、死の象徴のクラゲを探し続けている。
あの子に再開するために。
波の音がはっきりと聞こえる。
白く泡立つ波だけが、砂浜に寄せては返している。
月の光だけが、夜の海を照らしていた。
潮の香りが鼻に抜ける。
ペダルを踏み込む。
蒸し暑い空気が、自転車と僕とに纏わりついている。
カゴに入れたリュックが、がたん、と音を立てる。
蝉の鳴き声が四方八方から責め立てる。
ペダルを踏む。
坂道が牙を向いている。
汗が首筋を伝う。
最低限の着替えと、食料と水と、財布を持って、家を出た。
ゆっくり、でも必死に自転車を漕いで、街を出た。
あの家、あの街にいたら、自分がペットショップで売れ残って保健所行きになったペットのように、生き延びられない気がしたから。
坂道の先には海があるらしい。
港町が広がっているらしい。
僕は、とにかく遠くへ行きたかった。
海を出て、遠くへ。
誰も知り合いのいない所へ。
汗が頬を伝う。鼻先に滲む。首筋を垂れる。
汗でTシャツが透けていないか、後で確認しないと。
白いシャツの袖口に、痣が見えていないか。
ペダルを踏み込む。
坂はまだまだ高い。
膝が痛む。
蝉の喚く声が、四方八方から、僕を責め立てる。
坂の向こうはまだ見えない。
秋の虫の声が聞こえる。
星が静かに瞬いている。
秋分を過ぎてから、静かな夜の闇には、秋の音が漂うようになった。
一人の部屋で、絵を描き、並べる。
関節が滑らかな球体になった絵が、丹念にお気に入りに登録されている。
「心の健康を取り戻しましょう」
私のお気に入りのイラストを見た友人も家族も同僚もAIも検索エンジンも、みんなこぞってそう言った。
夜更かしをして、絵を描き続けた。
一般向けの漫画にもポルノにも、琴線に触れるような絵はなかったから。
異常性癖。
そんな言葉を知ったのはいつのことだったろうか。
自分の嗜好がそのカテゴリに含まれると気付いたのは、いつのことだったろうか。
心の健康。
その言葉が、正義の皮を被ったまま、自分の嗜好を踏み躙り、普通を強要すると気付いたのは、いつだったろうか。
涼しげな虫の鳴き声が、窓の外から聞こえる。
暑い風が、風鈴を微かに揺らす。
手足の欠けた少女と、絵の向こうから目が合う。
現実のそういう人を、性的な目で眺めているわけではない。
誰でも良いわけではない。
法に抵触することを行なったわけでもない。
思春期にトラウマになるようなことがあったわけでもない。
ただ、好きな嗜好がそれだっただけ。
心の健康が害されたわけでも、辛い子供時代を過ごしたわけでもない。
ただ、気付いたら、そういう嗜好だった。
そんな言葉を、いったい誰が信じてくれただろう。
自分の嗜好への説明は、今でも喉の奥で腐り果てている。
虫がなく。
コロコロ、リーリー。
日中の蝉よりは遥かにか弱く、でも確かに鳴いている。
風鈴が揺れる。
私は、一人机の上のイラストを片付ける。
時計が12時を打つ。
虫の声が背景をゆっくりと流れていく。
空には星が輝いている。
風がゆっくりと短冊を揺する。
風鈴の音が、闇に吸い込まれて、いつまでも響いていた。