薄墨

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潮の香りが鼻に抜ける。

ペダルを踏み込む。
蒸し暑い空気が、自転車と僕とに纏わりついている。

カゴに入れたリュックが、がたん、と音を立てる。
蝉の鳴き声が四方八方から責め立てる。
ペダルを踏む。
坂道が牙を向いている。
汗が首筋を伝う。

最低限の着替えと、食料と水と、財布を持って、家を出た。
ゆっくり、でも必死に自転車を漕いで、街を出た。
あの家、あの街にいたら、自分がペットショップで売れ残って保健所行きになったペットのように、生き延びられない気がしたから。

坂道の先には海があるらしい。
港町が広がっているらしい。
僕は、とにかく遠くへ行きたかった。
海を出て、遠くへ。
誰も知り合いのいない所へ。

汗が頬を伝う。鼻先に滲む。首筋を垂れる。
汗でTシャツが透けていないか、後で確認しないと。
白いシャツの袖口に、痣が見えていないか。

ペダルを踏み込む。
坂はまだまだ高い。
膝が痛む。
蝉の喚く声が、四方八方から、僕を責め立てる。

坂の向こうはまだ見えない。

8/14/2024, 1:54:00 PM