しゅんしゅんしゅん…
薬缶が力の限りに叫んでいる。
モニターは、青々とした海と空と、そして君をくっきりと映し出している。
亜麻色の髪を靡かせ、麦わら帽子を抑えて無邪気に笑う、白いワンピースの華奢な女の子。
日に焼けた肌が眩しい。
君から目を逸らして、立ち上がって、キッチンに向かう。
薬缶を火から下ろして、氷水の桶につける。
しゅう…と薬缶がため息を漏らす。
麦茶が冷めたら、もう少し頑張ろう。
氷の間に薬缶を捩じ込む。
ガランと氷が抗議する。
押し込んだ薬缶の汗が垂れるのを、モニター越しの君と一緒に眺める。
ミーンミンミン…
蝉の鳴き声だけが響く。
今年は、君が居なくなってから何回目の夏だろう。
君の立ち絵を眺めて、独りごちる。
君はインターネットの中のアイドルだった。
白いワンピースに麦わら帽子を被ったモニターの中の君は、いつだって画面の外の世界に、希望を届けようとしていた。
清濁が混ざり合って、濁流と化したインターネットの世界を、君は強く優しく、気丈に、皆の理想として振る舞い、完璧な配信者として生きていた。
現実との乖離に悩みながら。
現実逃避先であったはずのインターネット世界の人間から叩きつけられる現実に悩まされながら。
君は、配信の時間はいつも笑っていた。
ゲームに笑い、理不尽に怒り、コメントに泣いた。
普段は笑わず、怒らず、泣かず…ただただ空気を消費する君が、人間らしく笑う配信の時間が、僕は好きだった。
ある日のこと、君は言った。
自分なんていらないんじゃないかと。
役に立たない現実の私は消えて、画面の向こうのみんなに愛される私だけになればいいんじゃないかと。
僕は、何も説得力のあることを言えなかった。
君はそのまま消えてしまった。
残ったものは、君が現実世界で唯一好きだと言った麦わら帽子と、君のチャンネルと、立ち絵と、更新され続ける配信だけ。
僕が触れた、僕が世話をした、確かに存在した君は、もうどこにもいなかった。
ただ、君が作り上げた理想のインターネット上の君しか残っていなかった。
モニターの向こうで君が笑っている。
薬缶から冷たい水蒸気が伝って落ちた。
カランッ
氷水が音を立てた。
たたん、たたん。
金属の軋む音が、リズミカルに歌う。
黄色い線の内側で、車輪に踏みつけられて撓む線路をぼんやり眺めていた。
通過する電車、停まって人を吐き出す電車、回送電車…
今日は何両の電車を見送っただろうか。
たたん、たたん。
どの電車も、やがて呑気に線路を踏み締めながら、走り続ける。
ベクトルABの終点は点B。
ベクトルは、世界にあまねく力を図にしたものだから、ベクトルの終点は即ち、力が行き着く最後の作用点。
終点は力の終着点。
力は流れる。
終点を経由して、別の終点へ。
終点を経由して、別の終点へ。
終点を経由して、別の終点へ。
下へ、下へ。
だから仕方ない。
お客様が店員や職員の失敗を執拗に責めてしまうのも。
上司が部下を怒鳴りつけて心身を破壊してしまうのも。
同僚同士ですらストレスををぶつけ合って仲良く出来ないのも。
どんな環境の人間関係の中でも、悪口とイジメの影が差しているのも。
仕方ない。
仕方ないのだ。
誰でも終点で、誰でも始点だから。
頭では分かっている。
分かっているのだ。
…分かって、受け入れていたはずだったのだ。
たたん、たたん。
去っていく電車の足音が聞こえる。
電車は走るのが楽しくて仕方なさそうだ。
その胃の中に抱えている人間たちとは裏腹に。
電車は終点に向かって、その後に折り返して、終点を始点に変えて、終点へ向かう。
たたん、たたん、と鼻歌を歌いながら。
何度も、何度も、永遠に。
終点は終わりじゃない。
誰かが終点を迎えたとして、それはちょっとの間だけ、誰かに迷惑をかけて、誰かのストレスの始点となって、迷惑をかけながら永遠に続く。
本当の終点なんてない。
それも分かっていた。
分かっていたのに。
それでも、それでも。
今日が私の終点。
心がもたなくなってしまった。
今日が私の終点。
黄色い線からはみ出る。
線路を覗き込む。
電車に踏みつけられて、擦り切れた線路。
尖った小石が敷き詰められた棺の中に横たわっている。
たたん、たたん。
たたん、たたん。
鼓膜に電車の鼻歌が焼き付いていた。
「この世にあまねく真理や理論や思想たちは、みな双子で生まれるのですよ」
「従順で正しくて都合の良い優等生と、神秘的で悪辣で融通の効かない問題児との双子で、生まれるのです。」
ぱちぱちと、爆ぜて踊る焚き火の前で、“先生”は言った。
赤い火が舐めるように、僕たちの横顔を照らしていた。
先生の顔は、いつも通りに穏やかな微笑を湛えていた。
「ですから、完璧な理論や思想や真理など存在し得ないわけです。どんな発見もどんな技術も、全て問題なく上手くいくとは限らない。どの子もみな、双子ですからね。私たちに都合の良い優等生がこちらに笑ってくれることもあれば、私たちを嫌う方の子がこちらを睨むこともある。」
そういうのを…そう付け足しながら、先生はこちらをぐるりと見回した。
先生の目線は、僕たちの目をまっすぐ捉えていた。
プロメテウスの火、というのです。
先生は言った。
ぎゃっぎゃっぎゃ
何かが茂みの奥で鳴いた。
先生は焚き火に枝を焚べた。
「だから、上手くいかなくたっていいのです。それは双子のうちの、私たちにとって都合の悪い方が、こちらを向いていたということにすぎないのですから」
あの夜、僕たちはみな火を囲んで、先生の静かな声に、耳を傾けていた。
戦争と兵器と様々な科学実験でボロボロになった地域の、奪還作戦及び治安確保作戦が開始される前の夜だった。
僕たちが最期に経験した、思案に耽る、静かな夜だった。
僕たちは地獄に向かっている。
僕たちは捨て駒の部隊である。
僕たちは成功を掴めないだろう。
生きて帰れないだろう。
この作戦を命じられてから、そんな現実は僕たちの共通意識にうっすらと染みついていた。
だからこそ、この部隊の中核を成していた、皆が頼る人間は“先生”だった。
強靭で戦闘に長けた歴戦の上官でも。
喧嘩に強く情に篤い同期でもなく。
穏やかに達観し、死にも不条理にも悲劇にも動じない、彼こそが、僕たちの心の救いで、だからこそ、彼は“先生”であった。
「上手くいかなくたっていいのです。」
先生は枝を折りながら、繰り返し呟いた。
「何事も。上手くいかなくたって…上手くいかない時は如何なることにもあるのです」
それは、非常な現実とその現実に抱いた僕たちの悲観的共通意識が、僕たちの心の、使命感やプライドや愛や…そんな部分についた傷に優しく、ゆっくりと染み込んでいた。
「上手くいかなくたっていいのです。上手くいかなくたって仕方がないこともある」
熱病に犯されたような無茶苦茶な現実の中で、ただ一つ先生の言葉だけは、僕たちの悲観と諦観を肯定してくれていた。
上手くいかなくたっていいのです。
先生が繰り返し、ぽつんと呟く。
ひっきりなしに、焚き火が、ぱちぱちと踊っていた。
穏やかな夜だった。
…静かな夜だった。
白いうなじ。
白魚のような指が、鱗粉まみれの蝶の翅の欠片を摘み上げる。
窓の外には炎天下が広がっている。
暑い日に晒された花は、ぐったりと首を窄めている。
花びらは皺を刻んで、窓の桟を睨んでいる。
蝶の飛び方には、作法がある。
蝶の翅は、空気の粒を捉え、半円を描きながら柔らかく舞う。
蜘蛛の巣を躱し、蟷螂の斧を掠めて、ひらひらと。
蝶は、長年の先祖が積み上げ学んできた気品と行儀を守らなくては、飛べない。
花の咲き方には、作法がある。
固い蕾を作り、半円を描きながら、徐々に、柔らかく綻ばせる。
硬い大地を割り踏み締め、死体を養分に吸い上げて、そよそよと。
花は、長年の先祖が学んで積み上げてきた気品と行儀を守らなくては、咲けない。
深窓の娘もまた、そういうものだ。
気品と行儀を守ること。
穏やかな顔で、迫り来る悪意や嫉みを躱し、嫌がらせを掠め、感情の肉塊で作られた社会を割り踏み締め、複雑なコミュニケーションを養分に吸い上げて、見目を潤しながら、優雅に世を渡る。
親が、祖父母が、継がれてきた家系が、学んで積み上げてきた世を渡る術を守るのが、蝶よ花よと育てられてきた、深窓の娘の強みであり、生きる術。
形の良い顎が、軽く揺れ、伏せた睫毛がついと上がる。
白いうなじに髪が垂れ、ゆっくりと首を回して、姉がこちらを向く。
虫も殺せないような、きめ細やかな肌で、姉は足掻く蝶の死骸を摘み上げて、柔らかく笑っていた。
「お姉様」
私は言った。
「…蝶は捕まったわ。花は枯れたわ」
姉の唇から、柔らかな喜色に包まれた声が溢れ出た。
「そうね」
私は頷いた。
「お姉様はこの国の娘の中で一番優雅な蝶よ。私たちが最後まで生き残るのだわ」
「そうね」
姉は、恍惚に潤んだ声を転がした。
「なかなか楽しい蠱毒だったわね。人間は悪趣味だわ」
「あら」
私は笑った。
花のように努めて、穏やかに。
「蠱毒で生き残った蝶は、いずれ翅が抜けて人になるのよ、お姉様」
それでも語尾は少し弾んでしまった。
「ふふ、それは貴女も同じでしょう?」
姉の声は、蝶の翅の動きのように艶かしく、優美で、我が姉ながら完璧だった。
「貴女は温室の中の全てを勝ち取った花。花はいずれ実をつけて、人になるのでしょう?」
蝶よ、花よ。
蝶よと育てられた美しい虫は、いずれ壺の中に落とされる。
花よと育てられた美しい植物は、いずれ温室の中に押し込められる。
一流の家系と育ちを持つ人は、いずれ一流の感情と欲望の社会に混じって、それ相応の対価を求められるのだ。
蝶よ花よ。
美しく散り、美しく枯れ、美しく燃え尽きよ。
そして最後に残った一羽と一輪は、いつまでも、なによりも美しくあれ。
私たちの家の秘伝は、そう告げている。
私たちは最後の一羽。最後の一輪。
窓の外には炎天下が広がっている。
ぽたり、ぽたり
赤い液体が伝って落ちる。
黒い粘性の液体が、床にまとわりついている。
辺りはしんと静まり返っている。
膝を突く。
バキバキに折れたテーブルの残骸がひっくり返っている。
どろどろだ。
どろどろ。
手元の銀のナイフもどろどろ。
膝と足元と周りの空気もどろどろ。
どろどろだ。
君が不審死を遂げた、あの時あの場所で拾った指輪の石は、真っ二つに割れて、黒い粘性の液体を吐き出し続けている。
先が黒ずんだ銀のナイフの腹から赤い液体が伝って落ちる。
ぽたり、ぽたり。
君の死因が知りたかった。
君の変身の理由が知りたかった。
一ヶ月前に、部屋の中で死んだ君。
一週間前に、黒いモサモサした塊になって現れた君。
君の正体が知りたかった。
だから七日間、いろいろな手を使って調べた。
関係する各地を駆け回り、関係者に話を聞いて、君の部屋を漁り、図書館やネット上を探りまわって…。
そして、ようやく、ようやく、辿り着いた。真相に。
怪異を暴いた。
勝利だ。勝ちのはずだった。
でも現実はどうだ?
君はモサモサを逆立てて、椅子を蹴飛ばし、こちらに向かってきた。
窓のガラスが吹き飛んだ。
テーブルの上のマグカップが飛び散って、尖ったカケラが、指輪の黒々とした石のヒビに突き刺さった。
銀のナイフを握った右手は、勝手に君を貫いた。
どろどろだ。
どろどろ。
ぽたり、ぽたり。
君がナイフを伝って、黒い液体に吸い込まれていく。
考える。
考える。
頭は意識とは裏腹に、冷静に、理論を紡いでいる。
考えろ。
君の死を無駄にするな。
冷静沈着で、鈍感な脳が告げる。
「これは、最初から決まっていたことじゃないのか?」
「最初から、この物語の結末は決まっていたんじゃないか?」
「これが、最初から決まっていた結末。トゥルーエンド。本当の終わり。」
「だって、“たまたま”カップのカケラが指輪の石に突き刺さって、“ついつい”ナイフが君の腹に刺さって、どろどろが噴き出るなんて、僕たちみんなを呑み込むなんて、…七日間かけて気づいた理論が目の前で実際に証明されるなんて、そんな上手くいくことなんて、ある?」
「この終わりは最初から決まっていた。決まっていたんだ。指輪か、化け物か、何か別の強い力か…で?」
ぽたり、ぽたり。
君が液体になって、ナイフを伝って落ちる。
君が、黒い粘性の液体に染み込んでいく。
僕の膝を、黒い粘性のナニカがじわじわと呑み込んでいく。
どろどろだ。
みんな、どろどろ。
さいしょから、きまっていたとおり。
おめでとう。ほんもののさいごだ。