薄墨

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8/1/2024, 2:09:07 PM

明日、もし晴れたら。
火をつけに行こう、町の外れに。

窓を開ける。
むわっとした熱気が飛び込んでくる。
今日は、抜けるような青い空だ。
真っ青な空を、翼を持つ獣がぱたぱたと羽音を立てて飛んでゆく。

明日、もし晴れたら。
火をつけに行こう、終わりに向けて始めるために。
旅を始めるために。

夏の虫の声がうるさい。
五月の虫よりもずっと。

テーブルの上に置いていた新聞が音を立てて落ちる。
今日の地方新聞。
いつも通り、様々な事件の記事が並ぶ。
三面の左下に、小さく、禁足地域の住人の処理状況が報道されている。

魔物がいるこの世界の王国には、地域によって明確な格差があった。
最も酷いのは、魔物の巣窟のすぐそばに住む村の暮らし。

そこでは魔物を操り、魔物と共に生きる人がいる…らしい。
しかし、その村は禁足地だった。
虐げられし者たちの村だった。

なぜなら魔物は、_少なくともこの王国では_人類の敵とされていたから。

だから、私の慕っていた姉弟子は、勇者として、魔物の王を討伐しに旅立ったのだ。

それほど強くもなく、冒険も荒事も得意でなかった私は、強く正しく清い姉弟子たちを眩しく見送った。
そして、私は書籍管理者としての職務を全うしていた。

禁足地域の資料を見つけたのはたまたまだった。

それはたくさんの書籍を保管する書館の一角に、ひっそりと置かれていた。

禁足地域の人々は魔物と共生していること。
禁足地域の人々にとって、魔物と人間の境界は紙一重で、人間が魔物となることもあるし、魔物と人間の合いの子すら珍しくないのだということ。
禁足地域の人々と魔物を恐れて、王国は彼の地を征服した時に身勝手で厳しい法律、社会カーストと税、差別を課したということ。

そのせいで禁足地域の村は未だに争いが絶えず、惨めで酷い光景が広がっているということ…。

魔物の王は魔王と呼ばれている。
魔王は狡賢く、強靭で、支配的で、人類を脅かすほどのリーダーらしい。

…魔王は本当に魔物なのだろうか。
禁足地域の村人が、この国の支配から抜け出すために魔物となって、この王国を滅ぼそうとしているのが魔王なのではないか。

…私の姉弟子は、魔物を討伐しに行くのだろうか。
……禁足地域の哀れな人間を反逆者として殺しに行くのではないのか。

私は姉弟子を慕っている。
姉弟子の、真っ直ぐで、凛とした、正義らしい高潔さが大好きだった。
…姉弟子に人殺しなんてしてほしくない。

だから私は、禁足地域へ、姉弟子の先へ行かなくてはならない。
彼女が全てを知ってしまう前に。
彼女が魔王の存在を疑う前に。
彼女が真の勇者であれるように。

まずは証拠の隠滅だ。
禁足地域の国家計画資料は既に全て集めてある。
民に秘匿され、支配層の誰もが目を逸らしたい、王国きっての汚点の資料だ。紛失に気づくまでには随分時間がいるだろう。

明日、もし晴れたら。
火をつけに行こう、この資料たちに。
暗黒の歴史たちに。

そして見届けよう。禁足地域の全てのことを。
なんとしてでも勇者より先に、魔王の正体を知るために。
魔王をどうにかするために。

熱風が窓から吹き抜ける。

窓を閉め、カーテンを引く。
まとめた荷物を、ベッドの横に揃える。

明日、もし晴れたら。
そんな言葉に逃げる自分が、嫌になる。
私は弱くて、小狡くて、捻じ曲がった卑近な人間だ。
姉弟子とは違って。
だから大丈夫。

空は隅々まですっきりと晴れ渡っていた。

7/31/2024, 11:44:59 AM

湯かごを振りながら、ふらふらと歩く。
町中はいつも通り、温かい電球の明かりが窓から漏れていた。

かごの持ち手につけた根付けの鈴が、ちりん、と鳴った。
茜色の夕暮れが、空を覆って。
鳥たちの黒い影が、悠々と空を横切っていった。

喉が鳴った。
湯かごの中に買っておいたビールの瓶が、タオルに包まれて汗ばんでいた。

かごは一本のビール瓶には些か広いようで、タオルを巻いてもまだかごの内には隙間が空いていた。
ひぐらしの悲しげな声が、ポツポツと降っていた。

あの時の夏も、こんな風にひぐらしが寂しげに鳴いていた。
あなたはこちらを見て、楽しそうに笑って、ひんやりと汗ばんだビールの瓶をこちらに差し出した。

まだ未成年だった私は、首を横に振った。
それでも先輩は楽しげに笑って、中身の目減りした方のビール瓶を煽った。

「成人したらさ、…来年か。来年はさ、一緒に飲もう」
死ぬほど旨いからさ、そう言って先輩は本当に楽しげに踵を返した。

逆光で、先輩の後ろ姿は切り絵のように黒々とはっきり見えた。

夕日が真っ赤で眩しかった。

この温泉街に連れてきてくれたのは、先輩だった。
「特別に、夏にとびきり良い穴場を教えてあげるよ」
得意気にくしゃりと笑った先輩の手を、私は斜に構えた憎まれ口を叩きながら、握った。

それからというもの、毎年、私と先輩は二人でここへやってきた。
温泉に入って、冷たい飲み物で火照りを覚まして、くだらない話をしながら、夕涼む町をふらふらと歩いた。

この夏の密かな楽しみを共有する証の根付けが、手元の湯かごに揺られて、ちりちり、と鳴っていた。

ある日、先輩は消えた。
何があったのか、何が原因か、私には分からなかった。

私は先輩の数いる後輩の一人にすぎなかった。
大学の、ちょっと仲の良い、気に入られて、可愛がってもらっている後輩でしかなかった。

だから私は何も知らない。
先輩の住所も、苦悩も、過去も、交友関係も、他の趣味も。
先輩だって、私のそれらを知らなかっただろう。

でも、この夏の日の温泉街の散策だけは、私だけが知っていることだった。
ここをそぞろ歩く夕暮れは、私にとって先輩とだけの想い出だった。

だから、一人でいたい。
今日だけは、一人でいたかった。

仄かに温泉の硫黄の香りが香った。
栓抜きを取り出して、ビールを開けた。
先輩がいつもしていたように、直接口をつけた。

弾けるような麦の香りと苦い風味が、ごくり、と喉を抜けていった。

確かに、死ぬほど旨かった。

7/30/2024, 1:38:42 PM

蝉の声が聞こえる。
白杖を持つ手の内が汗ばんでいる。

アスファルトからの熱気がジリジリと肌を撫でる。
この暑さだと盲導犬や介助犬も仕事にならないだろう。
彼らは私たちよりずっと地面に近くて、ずっとアスファルトの照り返しに晒されるのだから。
うっすらと伝う汗を拭う。

点字ブロックを頼りに歩く外出にもだいぶ慣れた。
信号機の音声に耳を澄ますのも。
手探りで家のドアノブを捻るのも。

世界がぼんやりと輪郭でしか捉えられなくなって、もう三年が経とうとしている。

彼女と出会ってからはもう五年が過ぎることになる。

あの日もちょうどこんな暑い日だった。

視界に異常を感じて掛かった目医者に紹介状を書かれて訪れた大学病院。
その日がたまたま彼女の通院日だった。

白杖を構えて、私の顔を覗き込むようにいた彼女の視線は、しかし私を捉えていなかった。
だけど私は、あの子の瞳を、今でもよく覚えている。

美しく澄んだ瞳だった。
吸い込まれそうに底無しの柔らかな瞳。
今までもこれからも何も写すことはないけれども、誰よりも、私の一生の記憶の中でも、一番澄んでいた。

「綺麗な眼ですね」
思わず出てしまったその言葉は、正しいものではなかったかもしれない。
彼女は虚をつかれたような顔をして、それからふんわりと笑って
「ありがとう!眼は初めて褒められた!」
と楽しそうに話した。

「眼のことはね、誰も話さないの」
一度で終わるはずだった大学病院への通院は、長引く一方だった。
私はいつの間にか、澄んだ瞳を持つ彼女と、顔見知りの友人になっていた。
通院がもはや日常と化した、肌寒い風が吹き付ける日に、彼女は言った。
「みんな腫れ物みたいに扱うの。…でも私にとっては生まれた時からの普通だから」
「…だから、眼を褒められた時、嬉しかったの」

私と彼女は、待合室でいろんな話をした。
色の話、匂いの話、空気の話、季節の話。
点字の話、本の話、イヤホンの話、音楽の話。

私の視界はぼやける一方で、彼女が病院にいることも増える一方だった。
気を晴らすように、私たちはいろんな話をした。
浮き上がる不安を押し込めるように。
何気ないこと。趣味のこと。海の音。眼のこと。

楽しかった。
すごく楽しい日々だった。

誰がなんと言おうと、私たちは幸せだった。

「手術を、勧められたんだ」
彼女が言った。
凍える風が吹き付ける日だった。
「…ドナーが、見つかったんだって。……もしかしたら見えるようになるかもしれないんだって」

その頃には私の視界は、もう霧が立ち込めていた。

私は…。
私は弱い人間だった。
私は彼女を憐んでいた、勝手に同じ悲劇仲間として見ていたのかもしれないと、その時になって初めて気づいた。
その言葉に初めて返答に詰まって。
彼女を素直に祝福できないと気づいて。

彼女の澄んだ瞳は、何かを写すのだろうか。
何かを写せるように、なるのだろうか。
彼女は、やっぱり見えるようになりたいのだろうか。

一つ確実なのは、その日から、私は視覚障害者として白杖と盲導犬に頼ることを決め、それを理由に彼女を避け始めたということだ。

蝉の鳴き声が左に偏ってきた。
病院が近い。

今日の音声メモは、彼女が手術後初めて眼を開くことを告げていた。

だから私は家を出た。
私の眼として共に歩いてくれるあの子に留守番させて、白杖だけを持って。

彼女に会いに。

蝉の声が降り注ぐ。
病院周りの街路樹の蝉たちだ。
風に微かに清潔の香りが混じる。
病院の入り口はもうすぐそこだ。

手に下げたお見舞いにそっと触れる。
彼女が大好きな桃と、スケッチブック。それからカメラ。
桃の、ひんやりと柔らかな産毛が指先を撫でる。

私はゆっくりと一歩を踏み締めた。

7/29/2024, 11:30:55 AM

オーロラが波打っている。
Wi-Fiが繋がらない。
スマホもパソコンも、深い眠りについている。
鳩が空を入り乱れている。

雨は一滴も落ちてこない。
でも今は嵐の最中だった。

太陽の黒点が急激に増え、宇宙嵐が巻き起こってから、数日。
人工衛星が次々に墜落し、電磁波異常でテクノロジーはことごとく劣化し、辺りには錆びついた機械の骸が横たわっている。

『嵐が来ようとも、負けない文明を!』
Society5.0という新たな社会の形態が打ち立てられた時の売り文句は、だいたいこういう文句だった。

ドローンや無人自動車が物流を担うようになり、工業ロボットが危険な現場仕事を代替し始め、一人一台、AIが配備され、脳にインターネットが接続され…
今や人類は、物理的な災害があっても、携帯に頼らず生きていけるようになっていた
はずだった。

宇宙嵐。
太陽の黒点の変化によって引き起こされるプラズマの嵐は、空をオーロラ色に染め上げ、全ての電子機器を叩き落とした。

インターネットに接続し、電子化した脳は、嵐に溶けた。
災害支援をしてくれるはずの工業ロボットは、ただの金属片になった。
AIの気は狂ってしまった。

今や生き残っているのは、脳をインターネットに接続できなかった且つ、AIと電子機器によって作り出された恵みを受け取れなかった、盗みとゴミ漁りと狩りによって、野良犬のように生き抜いて来た人間だけになった。

私たちのような。

埃と灯油に塗れた顔を拭う。
ゴキブリが足元を駆け抜けて行く。
見渡す限りの廃墟の上に、七色に色を変える、鮮やかな空が広がっている。

貴族もブルジョワも、私たちを汚い目で見ていた人も、みんな居なくなった。
ここは私たちの天下だ。
嵐が来ようとも、私たちは生き抜いた。貧民の私たちと、害獣として虐げられて来たネズミやゴキブリたちが。

ひんやりとした風が肌を撫でる。
萎びた人参の尻尾が、止まりっぱなしの無人自動車のドアの隙間から覗いている。
嵐が来ようとも。
こういう嵐が来たからこそ、私たちは生き抜いた。

電化製品からは火花だけが散っている。
錆の匂いが漂っている。
足元を駆け抜ける不潔は、生命感に満ちていた。

空は美しく波打っていた。

7/28/2024, 1:01:14 PM

囃子と太鼓の音が響く。
人混みのざわめきが、遠くに聞こえる。
提灯の暖かい灯りがずうっと続いている。

屋台が遠い。
随分、高いところまで来てしまったようだ。
手首に引っ掛けたヨーヨーが垂れている。

どこまで行くのだろう。
先を歩く、お面をつけた甚平の背中に追いすがりながら、そう考えた。
どこまで登って行くのだろう。
囃子と太鼓の音が響く。

向かっているのはお社の方だ。

お祭り。
年に一度の夏祭り。
古くからこの地域に伝わる、お盆と、神様への感謝のお祭りを合わせた、この神社のお祭り。
午前はお神輿と出し物で、神様への感謝を伝え、讃える。
午後は出店とお囃子と花火とで、ご先祖の霊に感謝し、お盆に帰ってくる霊たちを楽しく迎え入れる。
お祭りは毎年、一定以上の賑わいを見せており、今年は_特に午後の部は_大層繁盛していた。

今年のお祭りは、私も出し物に参加していた。
神様に御供物として、太刀と槍、太鼓と笛を使って、踊劇をやったのだ。

本来ならこの出し物の演者は、十八を過ぎた女性に限られていた。
しかし、二週間前に演者の一人が怪我をして、やむなく十八になっていない女子の中で一番背の高かった、十六の私が出し物に参加することになった。

この二週間は結構大変だった。
怪我をした演者がまあまあ重要な役回りだったため、代役の私がこなさなくてはならないことが、たくさんあったのだ。
出し物の劇を叩き込むために、毎日公民館に通い、毎日練習を重ねた。
台詞を覚え、祝詞を暗記し、振り付けを体に刻み込んだ。

だからこそ、今日、出し物が無事に終わった時は、達成感でいっぱいだった。
念入りに化粧をされて、衣装に着せ替えてもらって、鏡越しにまるで大人のように見違えた自分を見た時は、目が眩むほど緊張したけど。
出し物の後は、たくさんの大人にも褒められて、親からも少し多めにお小遣いを貰えて、一緒に頑張った演者たちで午後の部に遊ぶ約束をして…
午後の部を楽しむつもりで、私は浴衣を着込んで家を出た。

…待ち合わせ場所に着いた時、居たのはお面を被り、甚平を着込み、雪駄を履いた男の子だった。
待ち合わせの時間になって、誰も来なくて。

…そのまま十分が経った後、彼が_目の前の男の子が私の袖を引いた。

確か演者に選ばれたお姉さん方の中に、これくらいの弟がいると言っていた人がいた。
もしかしたら、この子が弟さんかも。
そう思った私は、引かれるままについて行き、鳥居の奥の石段に足をかけた。

それから私と男の子は、お社をめがけてぐんぐん登って来たのだった。

それにしても登りすぎな気がする。
どこまで行くのだろう。
午後の部のお祭りの時は、確かお社には入ってはいけない決まりのはずなのに。
みんなはどこまで行ったのだろう。

そう考えて、ふと顔を上げると、先を登っていた男の子が振り返り、こちらを見下ろしていた。

何故だか、お面の向こうで、彼が笑ったような気がした。

提灯が赤々と、心細げに、幻想的に灯っていた。
辺りはしいん…として、囃子と太鼓の音が寂しげに響いていた。
私と彼を、深い闇が包んでいた。

人の声はもう聞こえなかった。

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